三章 城壁攻防戦
生存本能や帰巣本能というものは、理性とは裏腹な行動を起こさせるものだと賽は実感していた。
なぜなら、自分は飛行機事故に遭った時「死にたい」と思っていた。
だが、浜辺に倒れていた時には空腹を覚え、まず食糧を求めていた。
動かなかった右腕が自由に動くからだけではない。自分の身体が「生きたい」と欲している証拠だった。
そして、司教オリゲネスに会う前にベルラベッダと交わした会話。
無意識に自分は「元の世界に帰る」と、口走っていた。
いったい生きて元の世界に帰って、どうするというのだ。
代わり映えのしない毎日を送り、身体は飢えはしないが心が苛まれる。あのまま日常という檻の中で蒸し殺されるような日々に、何の価値があるというのか。
今目の前にいる少女、エティオは目的を持っている。「父親を殺したシェードを追う」という目的を。そこに迷いは一点もない。
皮肉ではなく、素直にうらやましいと思う。
「ちょっと聞いてるの、サイ?」
耳を引っ張られた賽が眼の焦点を合わせると、そこには無防備な胸元をがら空きにしたエティオの姿があった。
「……いや、ろくに休んでいないから、つい。それに、ここ暗いからさ」
賽とエティオがいる場所は、屋敷の暗い穴倉のような地下室だった。
風が通っている気配はなく、燭台の銀灯花は白い光を放っている。締め切った場所での炎は一酸化酸素中毒を招く恐れがあるが、銀灯花にそういった特性はないらしい。どうやら賽の心配は杞憂であるようだった。
賽はふと浮かんだ疑問を口にした。
「エティオはなんでこんなところで調べものをしてるの?」
館は広い。一人暮らしのエティオが賽に空き部屋を提供するくらいだから、書斎や書庫のひとつやふたつあってもおかしくない。調べものをするのにこんな狭い、書物を読むのに不便な場所を選ぶ必要はないはずだ。
「……あたしの復讐が、アンティオスの誰にも悟られないようにするためよ」
エティオの復讐には、隠す理由があるらしい。
復讐の相手が、たとえば司教オリゲネスのような位の高い人間だというのなら、賽にも理解できる話だ。その手の人間は自分を傷つける意図があると知れば、即座に「やられる前にやる」を実行するだろう。
しかし、今エティオが狙っているのは怪物、シェードだ。ゲヘナの人間の多くに知られたいわゆる「公的な敵」であり、それを狙うのにどんな秘密が必要になるのだろうか。
エティオは賽の疑問に回答する気配を一切見せず、食い入るように地図を睨んでいる。
「……なんで僕をここに? 事情はよく知らないけれど、ばれちゃいけないんだろ、復讐」
「そうね。一応、あたしの目的を知っておいてほしいから。サイは自分が納得しなきゃ、梃子でも動かないタイプに見えるしね……次のシェードが現れる地点は、この辺りになると思うわ」
エティオが地図の一点を指し示す。地図に刻まれている無数の×印は、今までにシェードが現れた場所を示すものだ。シェードの出現地点は見たところ、都市に偏っている。目撃者がいなければ情報も入ってこないので、当然のことだろう。
エティオが示しているそこにはまだ×印がついていない。確かに今までのシェードの出現地点において、一種の空白地点になっているように見える。
「あたしは商人という立場を利用して、シェードの消息を追っているの。商人は通行の自由が担保されているからね」
「え。商人でないと、外に出られないの?」
「当たり前じゃないの。都市の市民はただ居ればいいってもんじゃないの。ちゃんと税を納めて、都市の保全に協力しなくちゃ。そのためには市民登録をして、保護する代わりに移動の制限をしなくちゃいけない。そうでないと、都市があっという間に寂れちゃうからね」
それを聞いて賽は、まるで自分の足が誰かに伺いを立てないと思った方向に踏み出すことができなくなるような感覚にとらわれた。足に無形の錘を括り付けられたような、そんな感覚。
賽の不安をよそに、エティオが続ける。
「でね。サイは、あたしの護衛、兼助手をしてもらいたいのよ」
そういえば賽がはじめてエティオと会った時も、荷馬車には荷物を積んでいた。あの時には助手はいなかった。
「何度か助手は雇ったんだけどね……うまくいかなかったわ。逃げられたり騙されたり。散々よ」
エティオが自嘲するような笑顔を見せた。口下手な自分にさえ丸め込まれるくらいだ、エティオの脇の甘さは狡猾な連中にはいいカモになったことだろう。だからエティオは契約、そして賽の身の上にこだわったのかもしれない。
「……右も左もわからない異邦人なら、警戒する必要がないって?」
「あたしも人は見るけどね。よく見る目がないって言われるけど」
「奴隷だなんて言わなきゃ、すぐに契約したのに」
「あれは物のはずみよ」エティオが口をとがらせる。
「わかった。契約しよう。でも、契約書はナシの方向で」
「……信用して、いいの?」
「僕はエティオ、君のことを信用する。それじゃ答えにならない?」
「そんな口約束で、あたしにメリットがあるの?」
「ここの秘密が守られる。それに、君に協力することができる。契約しなければ、その逆さ」
しばらく考え込んでいたエティオは「あーっ、わかったわよ! 契約するわよ、対等の契約!」と両手を天井に届きそうなほど高く上げた。
「あーあ、騙しやすいと思ったのに。やられちゃったわ」
「でも裏切らないよ。約束する」
賽は自分の手を差し出し、自分の小指をエティオの小指と絡めた。
「なに、これ?」
「指切りげんまん。嘘ついたら針千本飲ますんだよ」
「なにそれ。怖い契約なんだ」
指を離したあとエティオはそう言って、無垢な笑顔を見せた。
雲のような意識が輪郭を取り戻すと目の前には羽根ペンとインク壺、そして乱雑に重ねられたクリーム色の紙束の山が見えた。
目を覚ました賽は、書類の中に埋もれていた。どうやら慣れない事務作業で寝落ちしてしまっていたようだ。
賽は頬に付いた砂を払った。振りかけることで書いた書類の乾燥に使うのだ。
当初読めなかったこの世界の文字は、一週間でどうにか理解することができていた。
窓の外がうるさい。賽が起きた原因は、どうやら窓の外から聞こえる怒鳴り声らしい。
「エティオ・クーベルテ、および異邦人のサイ殿はご在宅か!」
城塞都市の端から端まで届くような大声だ。無言で窓を開けるとエメラルドグリーンの空が見え、その下に屋敷の生垣と正門があった。
大柄な女性の影は、ベルラベッダだ。
玄関のあたりで重々しくドアの開く音がして、レテが応対に出ていた。きっと不機嫌そうな顔をしているに違いない。
ふたりは押し問答をしているようで、激しく両手を動かすベルラベッダに対してレテは両手で箒を抱えたまま微動だにしない。それでも押し通そうという気配がないのは、ベルラベッダが礼儀を弁えているからだろうか。それでも、生垣の外から大声で呼びかけるのは決して行儀がよいとは言えない。
やがて膠着状態に陥った両者を仲介するようにエティオが姿を現し、なし崩しにベルラベッダが屋敷の中に通されるのが見えた。
「さて、私がここまで出向いてきたのは他でもない」
客室のソファーに腰掛けたベルラベッダは、細い両手の指を組んで話を切り出した。青い奏士の制服で訪れたということは、それなりの用なのだろう。
「そんなのいいからさっさと帰ってよ、ベルラ」
「なんだその言いぐさは。それが友人に対するもてなしか!」
ベルラベッダが腰を上げ、帯びている剣――絃刀というらしい――に手を掛ける。それにもエティオは動じない。
「なによ。言いたいことがあるならさっさと言ってちょうだい、あたしは忙しいんだから。ね? サイ」
「あ、うん」
エティオが忙しいというのは事実だ。本業である行商のためだ。行商を生業としているエティオが自宅に留まっていることは、それだけで機会損失になる。一刻も早く次の目的地への商品の仕入れを押さえておく必要があった。
この数日、エティオと賽は市場調査と物品の購入で忙しかった。
「エティオ、おまえの商売の邪魔はしない。私が用があるのは、異邦人、おまえだ」
ベルラベッダが賽を指さす。
「そうは言っても、僕はエティオの助……奴隷だし」
「そうよ! いくら奏力があるって言っても、サイをあんたら奏士団になんか渡さないわ。サイにはあたしの世話をいろいろしてもらうんだから」
「うっ……いろいろとは、いったい」
「それは言えないわ。聞きたいの?」エティオの意味ありげな視線。
「聞きたいわけなどあるものか! そんな下世話な話題を持ち出すな!」
「だーれも下世話な話題だなんて言ってないわ。やらしいのね、ベルラは」
「もういい! サイ、おまえの奏士としての適性を試させてもらう。異存はないな?」
「おおあり。そんなことしたら、サイがいつ奏士団に駆り出されるか分かったもんじゃないわ」
エティオの反発を予期していたのか、ベルラベッダは重く息を吐いた。そしてエティオでは話にならないと思ったのか、賽に水を向けた。
「このところシェードの活動が活発になっているのだ。異邦人の漂着も増加している。サイ、この城塞都市の言い伝えを知っているか?」
「……いや」
「城塞都市の人口は増えない。異邦人がひとり加われば、シェードによって市民が一人減る。実際、先の戦いではうちの奏士が三人ほど死んでいる」
「何が言いたいのよ、ベルラ」エティオが身を乗り出して訊く。
「エティオ、金勘定に聡いおまえならわかるだろう。サイには、死んだ奏士の穴埋めをしてもらいたいのだ」
「卑怯な言い方ね。サイがここにやってきたから奏士が死んだ、みたいな言い方して。言っとくけどあんたの部下が死んだのはベルラベッダ、あんたの指揮が悪かったからじゃないの?」
「それは否定しない。だが、サイのような強力な異邦人がいれば、死者の数を抑えることはできるだろう。戦線に穴ができれば、敵は確実にそこを狙って攻め込み、穴を広げる。指揮官である私は不利な状況が分かっている。だから、こうして頼みに来ているのだ」
ベルラベッダが頭を下げた。プライドの高い人物だと思っていたので、この態度は意外だった。頭を下げるのはよほどのことなのだろう。
しかし、頭を下げることと命を懸けることを同列に見ることはできない。一時の恥で賽を命の危険に晒そうとするベルラベッダは賢く、そしてしたたかな人物だった。
エティオは幼さの残る線の顎に指を乗せ、少し考えていた。
「……そうね。奏士がいなくなって攻め込まれれば、住人の死者は増える。困るのはこっちだものね」
「そうか、では」
「奏器はいろいろあるし、どんな適性があるか分からない。賽を試すだけなら試せば? でも、適性があるからと言って奏士団に常駐させるのはなしよ」
やはり簡単に折れる自分の主人は甘い。賽はあらためてそう思った。
奏器とは、シェードと戦う際に使用する武器の総称だ。大半が賽の世界における楽器の姿をしていて、材質は木材や金属主体だ。構造が中空に出来ているため、見た目に比べて非常に軽い。
賽の足元には奏器――いや、かつて奏器だったもの――が複数、破壊された姿で屋敷の庭に散乱していた。
「うーむ」ベルラベッダが困ったように腕を組む。
「……うん、そうね」エティオが肩をすくめた。
「なんだよ二人とも勿体ぶって。はっきり言ってくれよ」
賽は二人の態度に当惑した。しかし、彼女らの言いたいことは効かなくてもわかる自分自身がうらめしい。
破砕音。突然、力も入れてないのに賽の手に持つフルートが粉々に砕け散った。
「……下手」
エティオとベルラベッダ、二人の声が息の合ったハーモニーになっていた。
「だって、しょうがないだろ。弾いたことのない楽器なんて」
負け惜しみだと分かっていても、賽は言わずにはいられない。もともと志願したわけでもないのに、強引に奏器を渡されていきなり「使ってみろ」と言われれば結果は火を見るよりも明らかだ。
「そういう問題ではない。奏力はあるが、奏器にかけたところで破壊してしまうとは。これでは、制御する以前の問題だ」
「……はあ。桁違いの奏力も、これじゃあね」
ねじ曲がってしまった金属製の奏器の破片をベルラベッダが拾い集める。どこをどうすればこんなにねじ曲がってしまうのか賽には疑問でならなかったが、奏器を捻じ曲げてしまったのは自分自身だ。サックスを捻じ曲げたり、トランペットを破裂させたり。まるで奏器にダメ出しされているようで、賽は自分の自信が一気に萎れていくのを感じた。
「あとは、絃刀だけか……これもどうだか分からんが」
ベルラベッダがバイオリンの形をした盾を取り出し、賽に差し出してくる。
「嫌だ、やらない」
即座に言葉が出た。
「この絃刀が一番単純な奏器だ。奏力の抑制にもなる。試してみるだけでも」
「やらない。本当に、いやなんだ。右手が動いても、これだけは嫌だ」
強い言葉。まるで身体全体が拒否するように。賽の思考が止まり、口が勝手に言葉を紡いでいた。
まるで心が身体から抜け出し、傍から自分の行動を眺めているようだった。
自分に音楽の才能がないことは賽にも最初から分かっていた。
さんざん元の世界でも言われてきたことだった。
だが、オリゲネスからおだてられたせいで自分が調子に乗っていたのも事実だった。
少なくとも、いまの賽はバイオリンの絃を握ることができない。
「……止めましょ。本人がいやだって言うのに、無理強いするのはよくないわ。サイが使えるのは、音叉剣だけね」
「あれは一騎当千の戦力になるが、連携向きではない……欠員ができていたのでもしやと思ったのだが、やはり部隊に組み入れるのは難しいようだ」
「ごめんねサイ、変なことに付きあわせて」
「申し訳ない」
エティオとベルラベッダが頭を下げた。
「……いや、いいんだ」
幸か不幸か、ベルラベッダは賽のことをあきらめてくれたらしい。自分の身体から力が抜けてゆくのがわかった。
突然、地を蹴る音がわずかに庭の芝生を揺らした。地震か、と思ったがこの音はこの都市ではよく聞くものだった。
馬の蹄が地面を蹴る音だ。
見ると一頭の馬が屋敷の垣根に横付けするようにして止まっていた。早馬の背に掲げている血のように赤い旗は、「緊急」を示すものだ。馬から一人の奏士が降り、庭に入ってくる。挨拶もそこそこにベルラベッダの前に進み出た奏士は片膝をついて報告する。
「八,〇、一番の観測塔からの報告です。シェードの群れがこちらに侵攻してきております。取り急ぎ、奏士団長の指揮を賜りたいと駆けつけた次第でございます!」
エメラルドグリーンの空が暮れる。夕焼けの空は、紫色だった。
馬に跨るエティオは、手綱さばきも堂々としたものだ。乗馬の経験のない賽はエティオの背にしがみつくほかない。賽の姿はここの人々には間抜けに映っただろうが、背に腹は代えられない。市民たちが屋内に避難しているおかげで、無様な姿を見られる人数が最小限だったのは幸いだった。
エティオの馬の前にはベルラベッダと伝令の奏士の馬が走り、計三頭の馬が石畳の地面を踏み鳴らす音が無人の街路にやけに大きく響いていた。
「……着いたよ、サイ?」
「ああ、うん。ちょっと……待ってっ」
城壁に辿り着いたらしい。慣れない馬に揺られた賽の身体は自由が利かず、賽はエティオにしがみついていた腕を離した途端、受け身も取れずに尻から地面にずり落ちた。
「いったた……」
「向こうの世界じゃ、乗馬は習わなかったの?」
「ごめん。そのうち教えてよ」
颯爽と地面に降り立ったエティオの肩を借りて、賽は立ち上がった。
賽の目の前には巨大な城壁がそそり立っていた。城壁は切り出した一抱えもある石を規則的に積まれ、隙間はコンクリートのようなもので固められている。高さは四階建てのマンションくらいだろうか。
城壁の傍らでは兵士たちが周囲を埋め尽くすように待機していた。足の踏み場もないほどの混雑で、ベルラベッダは詰所で部下に状況の報告を受けていた。
人の波を掻き分けるようにエティオが行く。エティオに手を握られている賽も、当然のように引きずられていく。柱と屋根だけで構成された東屋のような詰所に到着すると、ベルラベッダがエティオに冷たい視線を寄越した。
「エティオ、サイはともかくなんでお前まで来るのだ。シェードを仕留めたとしても、大した金にはならんぞ」
「あたしがサイの主人だってこと、あんた忘れてない? それにサイには、シェードとの戦いを見せておく必要があるし」
「それは同感だが、巻き添えを食っても知らんぞ」
「あたしの身は、サイが守ってくれるわ。ねー、サイ」
突然エティオに腕を組まれた。ふくよかな胸が賽の二の腕に接触し、柔らかさが伝わってくる。他の奏士たちも見ているなか、賽は動揺が顔に現れないようにするので精いっぱいだった。
「ふふん。ベルラ、あんたにはできない芸当ね。その身長じゃ、いくら大きい胸でも可愛げがないから」
勝ち誇ったようなエティオの言葉にベルラベッダは一瞬だけ痛烈に悔しげな表情を見せたが、すぐに兵士に呼ばれてその背を向けた。
「くれぐれも、指揮の邪魔はするな。わかったかエティオ」
「ちゃんと指揮してよね、ベルラベッダ奏士団長……さあどこからやってくるのかしらね、シェードさんは」
喧嘩相手が去ったので手持ち無沙汰になったのか、エティオが城壁沿いに設置された階段を上り始めた。そこにも多数の奏士たちが待機していて、その中をすり抜けて階段を上る。階段を上りきると城壁の上で、幅は人がかろうじてすれ違えるくらいだ。そこにもトランペット状の奏器を持った奏士たちの隊列があった。
「お邪魔するわねー」
奏士たちは乱入者に一瞬だけ渋い顔をしたが、エティオの姿を認めると苦笑いに変化した。エティオはこのなかで特別な立場にあるのだろうか。
「……お邪魔します」
神妙な顔をして賽はエティオの後を追う。ベルラベッダには置いてけぼりを食らった形になったが、特に役割を課せられていないのは戦いを見学するいい条件だった。
いずれ自分も戦うことになるのは賽にも分かっている。賽の仕事は、旅路におけるエティオの護衛だからだ。その前に、シェードとの戦い方をこの目で学習する必要があった。
城壁から見える夕暮れは霧を纏っているようで不確かな印象だった。城壁から見る外の世界は、うっそうと生い茂った森が暗緑色の絨毯を敷きつめているようだ。その間を縫うように走る街道は、人に許された行動範囲にしてはやけに細く、狭く感じられた。
街道に人影はない。かつてのエティオと自分のように、通りかかった旅人がいないのは幸運だった。
「よく見て、サイ」どこから出したのか、隣にいるエティオが双眼鏡を賽に手渡す。
「……?」
双眼鏡越しの霧の中に、いくつか動く影が見える。
「シェードよ。ドレープ級が二十、ノレン級が八……大群だわ」
「森と区別がつかない……いつもこんななの?」
「数と時期にはばらつきがあるけど、決まってこの時間にやってくるわ。いつもはこちらの様子をうかがって城壁に傷をつけるだけでどこかへ帰っていくけど、今日は少し違うみたいね」
「……?」
賽が最初に遭遇し、撃退したシェードの群れはせいぜい五体だった。しかし、今目の前にしているシェードの大群は文字通り桁が違う。森から染み出てくるようなシェードの大群は、まるで森そのものが移動しているようにも見える。
それらを双眼鏡越しに食い入るように見つめるエティオはまるで人が変わったかのように目つきが鋭くなっていた。
きっと、あのなかに父親の仇がいないか探しているのだろう。
城壁は外部に対して只の一面で構成されているわけではなく、戦場を包囲するように緩やかなカーブを描き、城壁には一定の間隔で物見の塔が複数置かれている。塔の内部と側面には階段と銃眼が設置されているのだが、真ん中の塔だけがにわかに喧騒を増している。西の城壁にいた賽は喧騒の中心にベルラベッダをいることに気が付いた。
「奏甲擲弾兵用意。ファイフ砲部隊の展開は三・一・三。ヴィオローネ部隊は一・二・一。水際で仕留めるぞ、一週間前を忘れたか? 間違いなく奴らは数を増やしている。文句なら後で聞いてやる、急げ!」
てきぱきと兵たちの尻を蹴り飛ばさんばかりの勢いで指示を下すベルラベッダの姿は、まさに奏士団長の肩書にふさわしいものだった。この状況で冗談の一つでも呟こうものなら、下手をすれば斬り捨てられてしまいそうだ。
賽とエティオのいる場所に、次々と新たな奏士たちが詰めかける。汗の匂いが充満し、辺りに立ち込める霧のおかげで暑苦しさが倍増する。賽の目の前で次々と陣取る奏士たちはトランペットにも似た金属製の奏器を持ち、奏器には無数の水滴が浮いていた。
その奏器がトランペットと共通しているのは、数々の鍵盤がついていること、そして空気を吹き入れる口がついていることだ。しかし厳然として違うところは、その砲口がトランペットならば外に開いているところが、兵士たちの持っているのは内に向かって漏斗のように収縮しているところだ。奏器には二脚と銃床がついていて、狙い撃ちをするのに適した形になっていた。
それでも賽には、それらが発する音が戦いの道具になるとはにわかには信じがたかった。
「……シェードの動きが早くなってる」
じっと双眼鏡を覗き込んでいるエティオがつぶやいた。
城壁の上が慌ただしくなっていくのに比例して、シェードたちも行動を早めたらしい。波が押し寄せるような動きのなかに、まるで人間のような知性を感じるのが不気味だった。
「奏砲隊砲列、構え!」
城壁の上にずらりと奏士たちが整列する。東西の城壁に等間隔で並ぶ彼らは黒い共通のタキシードに似た甲冑を身にまとい、兵士たちの中心には先端が蛍のように光る指揮棒を持ったベルラベッダがいた。
もうすぐ攻撃が始まる。こんなところにいていいのかと賽は思ったが、城壁は奏器とそれを持つ奏士たちで埋まり、降りる手段が失われていた。賽はいざというときのために、懐から音叉剣を取り出して握りしめた。
縦に空気が揺れる。大地がせせら笑うような音を立てるのは、シェードの手足である骨のように真っ白な鎌の音だ。
トランペットのような奏器を構える奏士たちが、ベルラベッダの命令を待っている。彼らの視線はベルラベッダの持つ、光る指揮棒だ。
まだか。張りつめた緊張が行き場を求め、奏士たちが血走った目でベルラベッダの彫像のように白い顔、風に流される柔らかな金髪を凝視していた。
もう狙いは定まっている。いま早く撃てばシェードがこちらに襲い掛かってくるまでに次の一撃を決められる。早く撃って楽になりたい。そう思うのは奏士たちが臆病風に吹かれているからではないだろう。
ベルラベッダは涼しい顔をしているが、内心では心臓を鷲掴みにされたような気持ちに違いない。これなら、彼女一人で最前線に立つほうがよほど気楽なのではないか。
ベルラベッダの胸には、奏士団長を表す銀色のゴルゲットが鈍く光を放っていた。
「団長」
兵士の一人が奏器から手を離してベルラベッダに問いかける。ベルラベッダが兵士を睨みつけたその時、城壁の下で動きがあった。
鎖が滑る重い音は、城門が開放された音だ。城門からは騎乗した奏士たちが矢のようにシェードたちに突進してゆくのが見えた。
「ちっ」
ベルラベッダの舌打ちの音だった。苦い表情のベルラベッダが再びシェードの群れに視線を移し、指揮棒を振り上げる。
「撃て!」
少しだけ指示が遅れてしまったのかもしれない。だがベルラベッダの指揮は確かで、東西の城壁で指示を受けた奏砲隊は霧を音圧で跳ね除けるようにライフル状のトランペットを吹き鳴らす。色の付いた音が空気と極小の水滴を裂き、鋭利な槍の穂先となってシェードの群れに押し寄せる。有機的な音の波がシェードの黒い波と真正面から衝突し、上空に巨大な霧の飛沫を撒き散らした。
極限までシェードたちを引きつけたベルラベッダの判断は間違っていなかった。シェードを仕留めるにはその分厚いカーテンのような皮膜を破らなくてはならず、音というものは距離に応じて拡散してしまう。城壁との距離を縮めたシェードの群れに音の砲弾が次々と突き刺さり、何体かのシェードは巨大な体躯をしぼませるようにして消滅していった。仲間が打ち取られていくのを見て、少しだけシェードたちの脚が止まるのが見えた。
脚を止めたシェードたちを攻撃するのは、馬に騎乗した奏騎隊の群れだ。彼らはバイオリンの形状をした盾を腕部にくくりつけ、もう片方の手には異様なほど不釣り合いに長い絃の刀を握りしめている。絃の刃先には奏力による光が宿っていた。
騎馬がシェードに接近するや否や、奏士の絃刀がしなり、シェードの体躯を打ち据える。シェードの黒い表皮が絃の衝撃に耐えかねて、破れる。破れたところから削られるようにして、表皮が保護していた肉体が消滅してゆく。攻撃の結果を見るよりも速く、騎馬は奏士の命を受けて回頭、その場を後にする。
騎兵の一番の利点は一撃離脱が容易なことだ。戦場で立ち止ることはすなわち、敵であるシェードにとって、動かない的と同義だ。奏騎隊の奏士たちは首尾よくシェードの前衛部隊を仕留めていたが、なかにはシェードとの距離を測り損ねている者がいた。
「危ない!」
賽は思わず叫んでいた。霧の中で騎馬の脚がシェードの爪先に引っ掛けられ、土煙を上げながら横倒しになるのが見えた。
衝動的に賽の脚は城壁の縁を蹴っていた。
「サイ!」
エティオが手を伸ばしてくるが賽はその手を振り切った。城壁から投げ出した身体が、ふわりと風のように飛ぶ。急速に地面が迫ってくるのを目の前に、賽は自分がどれだけの高さから飛び降りたかを悟った。
四階建てのマンションから飛び降りれば、人は無傷では済まない。
「……!」
地面と接触する直前、咄嗟に音叉剣を振り上げ、地面に叩きつける。衝撃が大地を揺らすと共に、賽の身体が浮きあがった。落下の衝撃はそれでも完全に相殺はできず、地面を踏みしめた右足に衝撃を感じると無理やりその足で大地を蹴り上げた。
衝撃と加速が全身にかかり、脚がもつれる寸前の速度で賽は霧の中を全力疾走する。傍目から見れば賽の動きは走るというよりも、地面を飛び跳ねているように映るだろう。
行く手を阻むシェードはすべて薙ぎ払う。賽の巨大な音叉剣はシェードに間合いを詰めさせるよりも先に、元から居なかったかのように蒸発させる。
横倒しになった馬はすぐそこにいた。立ち上がろうとするが脚をくじいたのか、うまく行かない。馬を転倒させたシェードは、なぜか馬にはとどめを刺さずにどこかへ行ってしまっていた。
「……」
馬は見つかったが、主である奏士がいない。奏士はどこだ。薄暗がりの中、賽は目を凝らして戦場を見渡した。
霧に覆われた戦場は奏器が放つ極彩色の光が見え、そのなかで馬蹄が地面を踏み鳴らす音、奏士たちとシェードの剣戟、鬨の声とも断末魔ともつかない叫び声がやけに大きく響き渡っていた。
「……いた!」
脚を引きずっているのは、落馬の際に怪我をしたのだろう。周囲に味方はおらず、肩を抑えて城壁に帰ろうとしている奏士の姿があった。
「大丈夫ですか!」
駆け寄る賽に対して、奏士は驚いたようだった。
「……君は」
「単なる部外者です!」
賽は返事を待たずに音叉剣を抜刀し、横に薙ぎ払った。奏士の背中に爪を突き立てようとするシェードの身体が一瞬で吹き飛ばされ、ぐずぐずに崩れ落ちる。
「早く逃げましょう」
「だが、馬がない」
喘ぐように奏士が言う。確かに、賽の助けがあっても奏士の脚では城壁にたどり着くまで、相当の時間がかかるだろう。
「……奏騎隊が見つけてくれればいいが」
力なく奏士が言う。この霧で自分たちを見つけてくれるかどうか。馬に乗った奏士の視点は高く、しかも奏騎隊の任務は賽たちを救助することではなく、シェードを撃退することだ。
「つかまってください!」
賽は男の身体を持ち上げ、自分の背中に捕まらせた。酸っぱい汗の匂いがしたが、構っている場合ではない。いつまた霧の向こうからシェードが現れるか分からない。
「いきます!」
脚を踏み出す。霧のせいで方向感覚がつかめないが、城壁の光は見える。奏器がはなつ光と、ベルラベッダの指揮棒の光だ。
「うおおおお」
自分自身を鼓舞するように、賽は重みを増した自分の身体を夢中で動かした。来た時とは裏腹の歩くような速度で、加えて一歩踏み出すたびに膝に衝撃が走る。痛みや疲れを振り払って全速力で賽は走った。
「危ない!」
奏士が一方にバランスを崩し、賽の身体が地面に転がった。何をするのかと抗議の声を上げるよりも先に、賽がいた場所にシェードの鎌が突き立つ方が早かった。
「逃げろ、私のことはいいから!」
奏士の叫びが、かえって賽の助けようという意思を強固なものにする。
「何で逃げなきゃいけないんですか!」
言いながら賽は音叉剣を振りかざし、シェードを力任せに斬り捨てる。
その瞬間、霧が晴れた。馬蹄が地面を蹴立てる音が迫ってくる。
「つかまって!」
奏士に手を伸ばすのは、騎乗したエティオだった。奏士はどうにかエティオの馬の背に乗り、馬は回頭して城壁に帰っていく。
「ちょっと、僕は?」
「サイは自分の足で歩けるでしょ、贅沢言わないで!」
遠ざかろうとしているエティオたちの背中にシェードの爪が迫るが、爪が光の音によって粉々に打ち砕かれる。見ると、城壁の上から奏士たちが援護射撃をしてくれていた。
「ありがとうございます!」
賽がシェードを斬り捨てながら頭を下げると、城壁の上から歓声が聞こえてきた。
「ありがとう、本当に」
奏士の男に何度も頭を下げられると、こちらがかえって恐縮してしまう。
「よーく感謝しなさい。あたしとサイに」
腕組みでふんぞり返って笑うエティオに、自分の謙虚さを少し分けてあげたいと賽は強く思った。
戦闘は終局にさしかかっていた。
主導権さえ取れれば、迎撃態勢を組織化されている奏士団にとってシェードは物の数ではない。奏砲隊が遠距離から敵の陣形を崩し、突出して手薄になった所を奏騎隊が各個撃破に移る。それらの指揮はベルラベッダの手に持つ光る指揮棒によるものだ。
理想的な迎撃態勢で、当初約三十体いたはずのシェードは、奏士団の働きにより今は三体にまで減っていた。
「もうちょっとだ!」
鬨の声を上げながら槍を持った奏士たちの列が波になってシェードに押し寄せる。
そのとき、群れの中心にいた一際巨大なシェードがその背にあたる部分を屹立させ、立ち上がった。
「なにっ……!」
突如として一枚の黒い壁と化したシェードは、足元にいる兵士たちを鎌の四肢で切り裂き、例外なく肉と血で出来た泥を造成する。一瞬で地面に広大な赤い死の絨毯を残したシェードが向かうのは城壁の突端で、そこにはベルラベッダがいた。
慌てたように奏砲隊が奏器の狙いをシェードに合わせるが、猛然と突進してくるシェードの巨体を阻止するには決定力に掛ける。元々飛び道具は接近戦向きではなく、下手をすれば押し切られるのは明白だ。
「……!」
指揮に集中していたベルラベッダが突如として目の前に現れたシェードに息を飲んだ。
ベルラベッダの眼前には、闇の中で手招きする数えきれないほどの骨ばった手足、そして白い鎌が蚯蚓の大群のように蠢いていた。ベルラベッダは魅入られたようにシェードに抗う気配がなく、ただ指揮棒を手に持ったまま固まっていた。
ベルラベッダとシェードの間に割って入ったものがあった。賽が持つ、音叉剣の光の刃だ。
「このっ!」
城壁から飛び出した賽は空中で瞬間的に音叉剣に渾身の奏力を込め、シェードの巨体に叩きつけた。
目が覚めるように鮮やかな白い刃先がベルラベッダの相貌を白く染め、目の前で悪夢のようなシェードの肉体を両断させる。それだけではない。音叉剣の白い刃先は持ち主である賽の落下に沿うように地上まで放物線を描き、そのまま巨大なシェードの肉体を頭から根本まで完全に断ち切っていた。
二つに分かれたシェードの肉体は、蒸発するように一瞬で消滅していった。
残された白い鎌が硬貨のような音を立てて地上に降り注ぐと、誰かが歓声を上げる。歓声は熱病のように伝播し、城壁は戦勝の狂騒に沸き上がった。
地上に降り立った賽が音叉の刃を収めると、城壁の端に乗り上げたベルラベッダが目を丸くしていた。
そして乗り上げすぎたためか、バランスを崩すのが見えた。
「あっ」
ベルラベッダが落ちてくる。真っ逆さまに、頭から。咄嗟に抱きとめる。
「……余計だったかな」
賽の言葉にベルラベッダは「……うむ」と少しだけ恥ずかしがる様子を見せた。
賽の腕の中には、落ちてきたところを抱き止められたベルラベッダがいた。
「すまん」ベルラベッダはなぜか賽の顔を見ようとしなかった。
ちらりと見えたベルラベッダの顔は紅潮していた。
「すごいな、ベルラベッダは」
「サイ、それは皮肉か?」
「違うよ。これだけの人の指揮……命を預かるなんて、普通の人に出来やしない」
「そうでもないさ。私は奏士たちの一人一人に責任を負ってはいるが、兵士たちの生き死にの責任は彼ら自身のものだ」
「それでもさ。言うことを聞かせるのは並大抵のことじゃ勤まらないよ」
「現に私はこの手を血に染めておらん。奏士たちがいなければ、私の指揮も何にもならんよ」
「これだけ奏士がいるのなら、無理に僕を引き入れる必要ないんじゃない?」
「まいったな、サイはそんなに戦いたくないのか」
「違うよ。命を張るのなら、それ相応の理由が必要ってだけさ」
「なら、正直に話そう。それは……」
「貸しにしておくわよ、ベルラ!」
いきなりエティオが賽とベルラベッダの間に割って入ってきた。
「人が話しているというのに、無粋な奴め」
「あんたこそなに人の奴隷にツバつけてるのよ。サイもサイだわ、こんな女をお姫様みたいに助けちゃってさ。実はこいつはその手の趣味があってね」
「わーっ! エティオ、それは言うな! 言わないでくれ!」
「ホントいい年してさ、そんな……」言いかけてエティオの動きが止まった。
「……エティオ?」
賽が問いかけるが、反応がない。
エティオはまるで突然言葉を一切忘れてしまったように、半開きの口で固まっていた。
エティオの視線の先には夜の空がある。濃紺の空に、なにか不可解な物体が浮いていた。
例えるなら海蛇が泳いでいるように、夜空を何かがその身をよじらせ、くねらせて泳いでいる。
黒いそれは軟体動物のようなシルエットだが、その一方で全身のあらゆる場所から銀色の棘のようなものが見えた。
あれはシェードの鎌だ。
シェードが黒いカーテンの身体をよじらせながら夜空を泳いでいる。シェードは高度を落としつつあり、シェードの進行方向には城塞都市の市街地があった。
「……見つけた」
エティオの声が震えていた。その様子が喜んでいるように見えたのは、賽の思い過ごしだろうか。
「ベルラ、この馬を借りるわ!」
ベルラベッダに告げるや否や、城壁を飛び降りたエティオが早馬に跨る。あっという間の出来事で、賽は自分がその場に取り残されたことに気が付いたのは早馬の姿が見えなくなってからだった。
「ええい、何をしている! 追うぞサイ!」
素早くベルラベッダが馬に飛び乗り、腕を掴まれた賽も引きずられるようにして馬によじ登った。
馬上の人となったベルラベッダが背中で賽に問いかける。
「エティオはなんであれを追っている。サイ、心当たりはないか?」
「……父親の仇を探しているとか」
「そうか。あいつはお前のような規格外の強い奏力を持つ者をいつも探していた」
「僕が奴隷の契約をしたのは、そのせいかな」
「そうだ。強力なシェードを数任せで仕留めることはできん。それと、鎧の上から胸を揉むな!」
「ええ? しがみつかないと落ちちゃうよ!」
「腹も揉むな! 嫌味のつもりか! ……おまえには戦い以前に、馬術から教えねばならんようだな」
ただしがみついているだけなのに、えらい言われようだ。それでも落馬するわけにもいかず、賽はベルラベッダから罵倒を受けながら両手に込める力を緩めることはできなかった。
都市の街路はいまだに沈黙を守っていた。避難命令が解かれていないのだろうが、その手際は手品で消したように鮮やかだった。城塞都市の住人は慣れているようで、このような事態は以前にも起こっているのだろうか。
やがて馬の脚が緩む。同時にベルラベッダの身体が強張り、背中から緊張が伝わってきた。
「……着いたぞ、サイ」
無言で賽は馬から降りた。
エティオの馬は主人から置いてけぼりを食らっていた。手綱を止め木にくくり付けられていなかったからか、馬は落ち着かない様子であたりをさ迷っている。
賽の目の前には大聖堂があった。息を殺したような沈黙が辺りを支配していて、この場所だけ気温が低くなった気さえする。
石造りの階段には点々と血痕が足跡のように聖堂内部に続いていた。その傍らには、血を流し尽くして動かなくなった神官たちが虚ろな視線を天上に向けている。シェードの犠牲者だ。
その眼をベルラベッダはそっと閉じた。
「行くぞ」
ベルラベッダが自分自身に言い聞かせるように言った。
聖堂の入り口のロビーで賽とベルラベッダを出迎えたのは、破裂したような死体のオブジェだった。
「なんだよ、これ……!」
元は乳白色だった壁面はどす黒い血液を塗りたくられ真っ赤になっていた。死体が四方から出鱈目に食い千切られたように周囲に散らばり、生臭い血の匂いが賽の鼻を蹂躙する。いや、血の匂いだけではない。この腐臭は、間違いなくシェードのそれだ。
まるで気化した血の海に溺れるようで、唐突に賽の胃袋が痙攣する。
「ぐっ」
口を押えたが身体の反応は止めようがなく、賽は胃の内容物を全て床に戻していた。
まるで神を冒涜するように、壁面や調度品に人々の肉体とその中身がぶちまけられている。「大丈夫か」と賽を気遣うベルラベッダの顔もいつになく険しくなっていた。いったいここで何人殺されたのさえ予想がつかない。しかし、シェードを倒さなければ死者が際限なく増え続けることだけは確実に分かる。
ベルラベッダが生き残った人を発見したらしい。駆け寄り、介抱している。
「シェードは?」
「う、うえ! 上に行きました……」
白衣を鮮血に汚した神官の生き残りが青白い顔をして答える。顔が蒼白なのは、恐怖のためだけではない。足元に転がっている白い腕は、おそらく神官のものだろう。
「わかった。すぐに人が来る、いまはじっとしていろ」
ベルラベッダが努めて優しく声をかけているのが賽にもわかった。上に続く階段には粘液を引きずったようなシェードの足跡があった。シェードは確かにこの聖堂にいる。
ベルラベッダが壁に掛けられている備品の絃刀を抜き、賽に手渡す。
「使え。音叉剣では建物を壊しかねん」
「……そのまえにこれを壊すかもしれないけどね」
賽が絃刀を握ると刀身がうっすらと光を放つ。音叉剣のまばゆい光とは違って頼りなく、賽は漠然とした不安が胸中を満たしてゆくのを感じた。
ベルラベッダが先行し、賽が続くかたちで螺旋階段を駆け上る。階段を濡らしているシェードの足跡に、人間の返り血が混ざって禍々しい渦巻き模様を作っているのが不気味だった。
なぜシェードは上に移動しているのだろうか。なにか狙いがあるのか。そして、足跡はシェードのものだけではない。小さなブーツの足跡は、おそらくエティオのものだ。
「急ぐぞ、エティオ一人であれを仕留めることは難しい。あんな空を飛ぶシェードなど、私は見たことがない」
「……そうだね。ベルラベッダ、エティオはシェードと戦ったことはあるの?」
「ないな。少なくとも私の知るところは。一応、ひと通りの訓練は受けさせたのだが」
それなのに、なぜエティオはシェードを追いかけたのだろうか。見たところ、武器である奏器も持っていなかった。
「途方もない実力を秘めているのかもしれん。あいつの父は先代の奏士団長だからな」
「そうなのか」
「財を築いたのも、そういった功績と人脈あってのことだ。世が世なら、エティオは商人などせずに深窓の令嬢として振る舞っていてもおかしくはない」
しかし、エティオの父親はシェードに殺された。
「団長殿の死については、詳しくは私も知らん。外遊の際に、シェードに襲われたという話だ。父をシェードに喰われ、エティオに残されたのは遺産と使用人のレテ一人だった。残されたあいつが商売に慣れるまで、資産はどんどん騙し取られ、掠め取られていった。今では、資産はあの広いだけが取り柄の屋敷だけという話だ」
「……誰も助けてくれなかったのか」
「助けたさ、私もレテも。でなければ、あいつは今頃どうなっていたか分からん。限りある資産を使い果たして、それこそおまえと同じ奴隷にまで身を落としていたかもしれん」
「……そうなんだ」
「エティオを頼む。これはあいつの友人としての願いだ。それに恩義もある」
「恩義?」
「私はエティオの父上に見いだされたのだ。力任せに剣を振ることしか知らなかった私に型を教えてくださり、口の悪い友人もつくってくださった」
口の悪い友人とは、多分エティオのことだ。
「……わかった。エティオは父親の仇を探しているらしいから」
「さっきのあいつがその仇だといいのだが。人には優先順位というものあるのでな。あいつも大事だが、それ以上に私はこの都市を守らねばならんのだ」
「……」
ベルラベッダにかける言葉が見つからず、賽は階段を上ることに意識を集中した。
「ベルラベッダ、上には何があるんだ?」
「ベルラでいい。上には鐘楼と……急ぐぞ!」
何か危機を喚起させるものがあったらしい。賽の前を行くベルラベッダが脚を速めた。
言いかけていたが、上には鐘楼と何があるのだろうか。
「上にはシェード避けの鐘楼と、司教様の執務室がある。オリゲネス様が危ない!」
螺旋階段を上りきると、突然賽の視界が開けた。
ドーム状の高い天蓋に、巨大な鐘が三つ吊り下げられている。建物と一体化したように鐘は存在を溶け込ませていたが、鐘には黒く禍々しい得体の知れない物体が取り付いていた。
シェードだった。
シェードはいったいどこからそんな力を出せるのか、その黒い体躯を歪ませると鐘から悲鳴のような音がした。金属製の鐘が軋み、形状が少しずつ歪んでいっている。こいつは鐘を破壊しようとしているのだ。
「ぐうっ」
シェードのなかから少女のうめき声がした。
「司教様!」
聞き間違えようがない。うめき声は、確かにオリゲネスの声だった。
どうやって天蓋まで連れ去ったのか、シェードはオリゲネスを鐘に押さえつけて圧迫していた。長い銀髪は解れて床まで垂れ下がり、床に無残に飛び散っている。
「せめて、あいつを引き剥がすことさえできれば」
ベルラベッダが歯噛みする。鐘ごとシェードを叩き斬ることもできるはずだが、その間にはオリゲネスがいる。人質に取られているような状況では手出しができない。奏器は、物理的な破壊力も持っているからだ。
鐘楼のなかで素早く動く影があった。
「エティオ!」
エティオは鐘楼の壁を跳ねるように駆けずり回っていた、
そこにシェードの鎌が迫る。無数のシェードの鎌はまるでゴムのように長く伸び、窓に取り付いているエティオの背を切り裂く。くぐもった悲鳴を上げてエティオが転がり、うずくまるのが見えた。
「危ない!」
賽は背中にエティオをかばい、絃刀を構える。しかしエティオは賽に構うことなく再び駆け出した。
エティオはなにをしようとしているのか。賽はエティオに合わせて移動しながら、次々と襲いかかるシェードの爪を切り払っていくことに集中した。その間にも鐘はどんどん歪な形に変形し、オリゲネスの声も弱々しいものになってゆく。
エティオは鐘楼内に設置された、明かり取りの窓を閉めていた。窓を閉めていくに従って鐘楼内の光が徐々に無くなっていき、視界も不自由になっていく一方だ。
鐘楼の窓という窓を閉めにかかるエティオの狙いが分かったのか、ベルラベッダが呟く。
「逃げ道を……塞いでいる?」
そうだ。闇に包まれつつある鐘楼で、今や出入り口は賽たちが来たばかりの昇降口の扉しかない。たった今エティオによってその扉も閉じられたが、シェードの逃げ道を塞ぐことはこちらの退路も限られてしまうことに他ならない。
加速度的に濃くなっていく闇のなか、絃剣の青い光は視野を確保するにはあまりに頼りなく、風前の灯同然だった。このままではオリゲネスがシェードの餌食になってしまう。賽になかで絶望感が頭をもたげた瞬間、エティオの「耳を塞いで!」という叫びが聞こえた。
反射的に言われた通りに耳をふさぐ。耳が外気を遮断した瞬間、空気が激しく揺らいだ。
――この世の罪を取り除く神の小羊よ。彼らに永久の安息をお与えください――。
歌だ。暗闇の中、エティオの歌が鐘楼内に響き渡っていた。
衝撃波にも似た色を成した音色の奔流。エティオの歌は巨大な蛇のように鐘楼内を暴れ狂い、天井を占拠したシェードを容赦なく打ちのめす。同時に窓が振動に激しく震え、耐え切れなくなった鎧戸が次々と崩壊する。
破れた鎧戸の隙間から、眩い夕陽が差し込んできた。
大量の水風船が地面で破裂したような音が鐘楼の床に炸裂した。床にあるのは力を失ったシェードの残骸で、微動だにしない。
「司教様!」
シェードの拘束から解放されたオリゲネスが落ちてくるのをベルラベッダが受け止めた。
「大事はありませんか」
「おう、大丈夫じゃ。それにしても……」
「はい?」
「素晴らしい唱歌じゃ」
天井のシェードが落ちたことによって、鐘楼の巨大な鐘が厳かに鳴り響く。鐘の音に反応するようにシェードの濡れそぼった体躯が砂のように崩れてゆくのが見えた。
「……すごい」
窓を閉めていたのは自分の歌が拡散するのを防ぐためだったのか。それでも閉鎖された状況で一対一で対決するなんて無茶にもほどがある。
賽がエティオを気遣う言葉を掛けるよりも先に、エティオは賽の胸に飛び込んできた。
「ちょっ、エティオ?」
「久しぶりに歌ったから、お腹すいた……あと」
「なに?」
「失敗したわ……あたしが唱者だってことを、あいつにばらしちゃった」
エティオが指差す方向には、オリゲネスとベルラベッダがいた。
それから三日が過ぎ、空を飛ぶシェードの噂は城塞都市中を駆け巡った。
城壁の内外を問わず、シェードによる犠牲者は親族と別れを惜しむ時間すら与えられずに、郊外に移され火葬にされた。死体の腐敗による、感染症予防のためだ。犠牲者は全員画一的で粗末な木棺の中に納められ、なかには木棺さえ用意されない者もいた。
城塞都市のすぐ近くにある石切り場は城壁の補修や建物の材料を調達する場所だが、火葬場と墓地を兼ねているのは皮肉なことだった。
賽は丘の上に座り、火葬場の煙突から立ち上る煙を眺めていた。奏士の制服を着ているのは、葬儀に参列する際に貸し与えられたからだ。
「こんな所にいたのか」
葬儀が一段落ついたのか、こちらを認めたベルラベッダが走り寄ってきた。合同葬のため、鎧を外した奏士のぴったりした青い制服に身を包んでいる。金髪と白い肌、スタイルの良さが強調されて、賽は少しだけ見とれてしまう。
「……ベルラベッダ」
「サイ、なんだその眼は。私はどこかおかしいか?」
「いつもの鎧よりも、そっちの方がいいなって。鎧に比べて綺麗に見える」
「ば、馬鹿者! 死者に手向ける衣装で欲情するなど、恥を知れ、恥を!」
顔を真っ赤にしているベルラベッダは、さっきまでの気落ちした表情がいくらか緩和されていた。ついさっきまで葬儀が行われていれば、当然だろう。
「ベルラベッダはそのほうがいつもらしくていいよ」
「……すまん、気を使わせてしまったか」
「ベルラベッダほどじゃないよ」
「ベルラでいい。共に死線を潜り抜けてきたというのに、おまえは他人行儀だぞ」
そう言ってベルラベッダは賽の横に腰を下ろし、事件の経過を教えてくれた。
シェードによる鐘楼の襲撃事件は、鐘楼の管理に問題があるとされた。
そもそも鐘楼はシェードに対する抑止の効果があり、稼働させておけばシェードの襲撃事態を防ぐことができたのではないか、という意見だった。
しかし鐘楼の責任者はもうこの世にはいなく、聖堂でシェードの犠牲になっていたので不問に付された。対策としては、シェードの襲撃時に常時鐘を鳴らし続けることと、人員の強化だった。
「……あのシェード、いったいなんだったのかな。ああいったシェードは珍しいの?」
「私も初めて見る種類だ。もっとも、私はこの城塞都市をほとんど出たことのない身だ。奏士団長が外遊などする余裕はないからな」
「そうなんだ」
それでもベルラベッダは賽にシェードについて、おそらく彼女の知る限りを話してくれた。
シェードの根本的な生態は明らかになっていない。ただ、どこから来るかは分かっている。多くのシェードは外海から出没し、濡れそぼった体躯は決して乾くことがない。そのため、水はシェードにとって優位に働くとされ、城塞都市には堀が存在しない。
反面シェードは火と光を忌避する性質があり、そのためか日中の襲撃はないとされる。
奏器が絶対的な武器である事実は、伝承すら残されていない。ただ、役に立つので使う。それがこのゲヘナの人々にとっての共通認識だった。
奏力以外の方法でシェードのカーテンのような皮膚を貫くことは難しい。本体がどこにあるかは生け捕りにしたものがいないので謎だが、身体の中心付近を刺し貫けば傷口を中心に収縮するように消滅する。死骸は残らない。例外的に残るのは鎌のような爪先だけだった。
シェードの爪は軽いながらかなりの強度を持ち、それの輸出がこの城塞都市の基幹産業を担っている。
それがシェードの概要だ。
しかし鐘楼で見たシェードの姿は、一般的なシェードのそれとは明らかに異なっていた。
「エティオが飛び出したのと関係はあるのかな」
「あのシェードが、あいつの父上の仇と似ていたという線が濃いな。本人は何か言わなかったのか?」
「まだなにも。でもあれから、部屋にこもりっぱなしだよ」
部屋というのは、あの厳重に施錠された地下室のことだ。
「でも驚いたな、あいつが唱者だったなんて。唱者は奏士よりも能力的に上の存在で、希少な存在なのだ」
「エティオは君たちに知られたくなかったみたいだけど」
「おそらく、あいつは奏士団の勧誘を疎ましく思っているのだろう。反省しよう」
そう言ってベルラベッダが頭を下げた。
「いや、いいんだ。ベルラベ……ベルラの気持ちは分かるから」
「そう言ってくれると、私も嬉しい。そうだ、エティオに伝えておいてくれるか」
「なにを?」
「おまえを奏士団に勧誘はしないと。サイもだ。おまえたちは自分たちの商売に生きろ」
「いや、それは言わないよ」
「何でだ? 私を許してくれないのか?」ベルラベッダが目尻に涙をため、泣きそうな顔になった。この人は、かなり涙腺が緩いらしい。
「違うよ。そういうのは、自分で伝えたほうがいいって話」
「歓迎してくれるだろうか、あいつは」
「友達なんでしょう?」
「……まあ、そうだが」
「なら許してくれるはずだよ。友達なんだから。それと」
「まだ何かあるのか?」
「聞かせてよ。エティオとの馴れ初め」
「……実に不愉快な記憶だ。面白くもないぞ?」
ベルラベッダは不敵な笑みを浮かべた。
彼女は律儀に、彼女自身とエティオのことを話してくれた。
ベルラベッダも賽とおなじ異邦人で、ここに漂着したのはエティオの一年ほど後だったらしい。ゲヘナに着くなり不安で自暴自棄に陥っていたベルラベッダを救ったのは、オリゲネス司教だった。
ベルラベッダは司教付きの奏士というかたちで、住み込みでオリゲネスに雇われたのだ。
なんでも、奏士団長になるまで間のベルラベッダはエティオの屋敷に護衛というかたちで定期的に訪れていたらしい。もっとも、それはエティオの遊び相手を兼ねていたのだが。
「まったくあいつは、人の苦労も知らずに家を出ては街で遊び呆けてばかりだった」愚痴をこぼすベルラベッダは、なぜか楽しそうだった。
「分かってると思うよ。友達なら。家の中ばかりじゃ息が詰まるからさ、連れ出したかったんじゃない?」
「あいつの友達は、奴隷というのだ!」いったい外出した先で何があったのだろうか。
「僕はその奴隷なんだけど……ベルラベッダは、エティオに会いに行くんじゃなかったの?」
「ううむ、そうだった。しかし、警戒されかねん。あいつの唱歌を聞かされたあとでは、また勧誘に来たと思われてしまう」
「その奏士の服じゃなくて、普通の女の子の服装だと、警戒されなくていいかもしれない」
「……確かに。しかし、恥ずかしいな。人前であまり着たことがないから」
「きっと似合うと思うよ」
「……おまえは、私のことを女として見てくれるのだな」
ベルラベッダは頬を赤らめて、身体を少しでも小さく見せようとしているかのように縮こまっていた。
「どうしてそんなこと聞くのさ。ベルラベッダは女の子じゃないの? 生物学的に」
「生物学的にも中身もわたしは女だ!」やおらベルラベッダが叫びながら立ち上がった。
「……ごめん、気に障ったかな」
「城壁の上でおまえに助けてもらった時、嬉しかったのだ。今まで、助けることばかりしていたからな」
「大変なんだね、ベルラベッダは」
「お姫様抱っこなど私には縁のない物と思っていたが、いざされてみると……いいものだな」
嬉しそうに恥ずかしがるベルラベッダの姿は、いかめしい奏士の制服を着ていながら年相応の少女に見えた。
屋敷の正門にさしかかったとき、早馬が土埃を巻き上げながら賽を追い越した。埃にさらされ、賽が顔をしかめるのにも構わずに騎手は無言で馬から降りる。
騎手は馬の鞍にくくりつけてある鞄から手紙と受領証を取り出し、賽にサインを求める。用意された羽根ペンでサインをすると、早馬は来た時と同じく疾風のように路地を走り抜けていった。
「……なんなんだ」
受領証と引き換えに賽が渡されたのは赤い封蝋をされた手紙だった。
門扉をくぐり中庭を抜け、玄関に辿り着くとレテが待っていた。
レテが両手を出すので奏士の制服の黒いジャケットを脱いで差し出すと、何を思ったのかいきなり鼻を近づけて匂いをくんかくんかと嗅ぎ始めた。
「ち、ちょっと? 当人の前でそれは、どうかと思うけど」
「……女の匂いがする」
「え?」
「それになんだ、この長い髪は」
「え? 金髪で目立つから帰って来る前に確かめたんだけど」
「そうか、奴隷は金髪の女に会ってきたのか」
「そ、そりゃ事実だけれど。あと、何なんだよその奴隷ってのは」
賽のことを奴隷と呼ぶレテはぞんざいな口のきき方だったが、いつもに増して不機嫌なのは何かあるのだろうか。
「ならなんでこんなに遅くなる? ご主人様はおまえの帰りをずっと待っていたんだぞ」
「……ごめん! すぐ食べるから!」
「急がないでもいい。すぐに食事を温めるから」
仏頂面のレテは賽のジャケットに顔をうずめながら厨房に引き返していった。そんなに自分、いやベルラベッダはいい匂いがするのだろうか。
きっとエティオが怒っているに違いない。賽は走る寸前の早足で廊下を急いだ。
食堂のテーブルには食器だけが並べられていて、エティオがテーブルに突っ伏して寝ていた。肩を揺すって起こすと「……ふえ? お父様?」と、エティオが焦点の定まらない目で賽をみていた。
寝ぼけ眼のエティオは、自分のことを父親と間違えたらしい。
「サイごめん、調べものしてたから寝ちゃって」
「いいよそんなの。ごめん、遅くなって。ただいま」
「おかえり、サイ! すっかり奏士の格好が板についてきたわね」
「そうかな。貸してもらったんだけど」
待たせたにもかかわらず、エティオの機嫌が悪くなっていないのは幸いだった。賽は襟を緩めながら椅子に腰を下ろした。異世界でも七五三のように制服に着られてしまうのは、賽が持って生まれた気質なのかもしれない。
「わざわざ仕立ててもらったんだから、返さなくてもいいんじゃない? サイには他所向きの服もないんだしさ」
「そうかな」
「奏士の制服、あたしも仕立ててもらおうかなあ。なんだか羨ましくなってきちゃった」
「エティオもこれだけの屋敷を持ってるんだったら、制服どころかドレスの二、三着くらいあるんじゃないの?」
「うーん、あるにはあるんだけどね。社交パーティとか疲れるし。でも、サイが見てくれるっていうなら着てもいいよ? すごいのを」
「……あんまりきわどくないのでお願いします」
食事の用意ができたらしく、鍋を持ってきたレテが豆のスープを食器に注いだ。香しい匂いが食欲をそそる。
食事をしながら、賽とエティオの会話は続く。
「……あの時、なんで一人で鐘楼まで行ったんだよ。どうなることかと思ったよ」
「へー、サイ心配してくれたんだ、嬉しいな」
「茶化すなよ。なにかあったんだろ」
損得勘定を第一にするエティオが、自ら望んでシェードを追うとは考えにくい。きっと損得勘定を超えた理由があるはずだ。
「鋭いね、サイは。確かにあたしには狙いがあった。あの蛇みたいな形のシェード、あれは固有名をウロボロスって言うのよ」
「……ウロボロス」
言葉の持つ得体の知れなさに、賽はごくりと唾を飲み込んだ。
ウロボロスの名前は賽も知っている。自らの尾を食らう蛇。矛盾であり、不死性の象徴ともされる。知ったのはゲームかなにかだったか。しかし、それが実際に自分の目の前に現れるとなると話は別だ。ゲームと違って、現実は心臓を貫かれれば一発で死亡する、やり直しは効かない。
エティオがウロボロスを追う理由を想像するなら、答えはひとつしかない。
「そのウロボロスが、エティオのお父さんを殺した……?」
「そう。でも、あれは違ったみたい」
あっさりとエティオは断言したが、賽には違和感があった。
ベルラベッダの話によると、エティオは父親の死に目に会っていない。
なのに、父親を殺したウロボロスと鐘楼で倒したウロボロスの見分けがつく。
なぜ見分けがつく? 父親を殺したウロボロスは、なにか特徴があるのだろうか。
「あ、ポケットの。それなに?」
目ざとくエティオが賽のポケットからはみ出ている白い紙を指さした。
「あ、手紙。これ早馬が持ってきたんだ」
賽が封筒をエティオに渡す。エティオは何の気なしに受け取ったようだったが、その封筒を封印している赤い封蝋を見るとみるみるうちに顔つきが険しくなった。
「……エティオ?」
エティオは問いかけに答えることなく黙って封筒を食卓のナイフで行儀悪く封蝋を切り飛ばした。そして中の手紙に食い入るように見入っている。
「いけない。サイ、取引で準備できてない商品、全部キャンセルしてきて」
「ええ?」
「早く。聞こえなかったの?」
手紙を読んだエティオは、まるで人が変わってしまったようだ。エティオはそのままデザートを運んできたレテとすれ違い、早足で廊下を抜ける。
「ご主人、デザートの用意が……」
「悪い、レテ。出立の準備をして」
「急用か?」
「そうよ、急用。急いで準備しないと……レテ、しばらくまた留守になるわ」
決意に満ちたエティオの言葉にレテが身体を硬直させる。
「……また、行くのか」
「ええ。ウロボロスの消息がつかめたらしいわ。今度こそ確実に仕留めてみせる、お父様のためにも」