二章 城塞都市アンティオス
ベルラベッダがナイフを取り出し、ベッドにくくりつけられていた賽の縄を解いた。自由になったと思った矢先に、代わりに両手には鉄の枷を嵌められていた。
賽は落ち着かない気持ちで鉄の枷を見る。枷は重く、角が削れていて使い込まれた跡があった。この道具でベルラベッダは、幾度となく自分のような異邦人を拘束してきたのだろうか。
「厳重だね」
「悪く思うな。エティオの口利きがあるとはいえ、おまえはまだこのアンティオスの市民ではない」
「アンティオス?」
「城塞都市アンティオス。ここの名前で、おまえが見た城壁の内側だ」
「ああ」
「来い」とベルラベッダが言ったので、賽はベッドを下りて立ち上がった。床は磨き上げられた大理石で出来ていて、足の裏にひんやりとした感触がある。自分は裸足だった。
「ちょっと、ベルラ、サイをどこに連れていく気?」噛み付くようなエティオの声にベルラベッダが振り返った。
「どこって、決まっているだろう。市民登録だ。異邦人は市民登録を済ませなくてはここでの生活はできん」
「ちょっと待ってよ、こっちの奴隷の手続きもまだ終わってないのよ?」
「あいかわらず趣味が悪いな……それは後にしてくれ。市民登録が先だ」
「ベルラ、変なこと吹き込んだら承知しないから!」
「はいはい……さあ行くぞ、サイとやら」
頭から湯気を出して怒っているエティオに見送られながら、ベルラベッダに連れられて賽は部屋を後にした。
部屋を出て最初に賽が通されたのは、隣の医務室だった。
簡単な問診と身体検査。少量だが血も抜かれた。向こうは賽のような異邦人の扱いに慣れているようだったが、自らの名前を憶えていることに担当の医師は驚きを隠せないようだった。
賽はボロボロの学生服から飾り気のない粗末な服に着替えをさせられ、次に通されたのは体育館のように広い場所だった。
「謁見の間だ」
ベルラベッダの声が建物の中で反響した。
天井を見上げる。果ての見えない高い天蓋、壮大な彫刻の描かれた巨大な壁に大木のような乳白色の柱。周囲にある全てのものが精緻な芸術品のようで、賽は粗末な衣服に身を包む自分が場違いな存在に思えた。
なぜか鉄の枷は外されていた。
「間もなく司教様がおいでになる。あのお方は準備に手間がかかるのだ……それまでしばし待て」
賽の後ろに立っているベルラベッダが気の抜けた声で言った。豪華な結婚式場のようなその場所には、自分とベルラベッダ、それ以外の人物はいなかった。
「……ねえベルラベッダさん」
「なんだ」
「戒めを解いてくれるのはありがたいんだけどさ、危険だって思わないの?」
「おまえがか。それはありえないな」ベルラベッダが肩をすくめる。
「出てきた司教って人を僕が人質にとっちゃうかもしれないよ?」
「ほう。人質に取って、それからどうする」
「当面の水と食料、移動手段を用意してもらう」
「それからそれから?」
「この世界から出る手助けをしてもらう」
それを聞いたベルラベッダはくっくっくっ、と押し殺したような笑い声を上げた。
「……何かおかしい?」
「いや、誰もかれも、異邦人とは似たようなことを考えるものだな、と」
「考えを行動に移した人は? 成功者はいたのかな」
「狼藉を働いた者はおるが、成功者はいない。ここで異邦人が少しでも怪しい動きを見せれば、背後にいる私が即座に斬り捨てているからだ」
「……そりゃ、どうも」
話が終わるのを見計らったかのように、頭上から降りそそぐ荘厳な音色が建物全体を震撼させた。いくつもの管が複雑に絡み合い、お互いの音を融合、調和させるように響き渡る音。その音は建物の壁に組み込まれているパイプオルガンが発信源のようだった。
「司教、オリゲネス様だ。粗相のないようにな」
そう言ってベルラベッダは跪いて首を垂れた。どうやら向こうの準備ができたらしい。賽もそれにならった。
「司教オリゲネスである、面を上げい」
幼いが理知的な声がしたので、賽は顔を上げた。
距離は約五メートル。教壇のような一段高くなった場所に、白い法衣を着た少女の姿があった。
見た目から歳は小学生くらいに見えた。彼女がオリゲネスだろうか。後ろ左右に包みを持った女官にかしずかれているのは、女官は護衛か何かだろうか。
白い法衣は金色の刺繍で縁取りされていて、冠は宝石に彩られている。豪華な衣装に身を包んでいる姿は、まるで国王のようにも見える。しかし彼女は国王と呼ぶには威厳が足りないように見えた。おそらく衣装に着られるようなくらい小柄なことが原因なのかもしれない。
ひとつだけ、異様な点があった。少女は長い銀髪をしていたが、その髪が異様な長さをしていた。よく見ると左右の女官が持っている包みは髪の毛を束ねたもので、更に後ろにも同じように髪を持つ女官が控えていた。ひょっとしたら、そのさらに向こう、もっと向こうにも同じように髪の毛を持っている人間がいるのかもしれない。
「驚いた、こんな……」
「こんな美少女がこの街の最高権力者であると?」
「……こんなちんちくりんが我が物顔で偉そうにふんぞり返ってるなんて。二世議員か何かなの?」
賽の言葉に、無い胸を誇張するようにふんぞり返っていたオリゲネスがバランスを崩してよろめいた。彼女は賽を指さして叫ぶ。
「ベルラベッダ、この者を不敬罪で引っ立てい! 地下墓所の図書整理八十万年の刑じゃ!」
「はいはい司教様、あまりお怒りになられると成長が止まるって医師が申していましたよ?」
「それとこれは関係ない! 身体的な悪口はルール違反じゃぞ、むがー!」
喚くオリゲネスをベルラベッダは子供をあやすような口調で、まともに相手にしない。いつものことなのだろうか。それでも小さな司教が落ち着きを取り戻すまでに、しばらくの時間がかかった。
ようやく呼吸を整えたオリゲネスが「奏士団長!」と命じると、奏士団長――ベルラベッダが賽の隣に歩み出て、音叉を手渡した。あのときエティオが差し出してきたのと同一のものだ。
オリゲネスは言う。
「これを発動させてみるがいい、異邦人。おまえの能力、いかほどのものか知りたい」
「……」
あの時、自分は音叉から光の刃を出現させた。
あれを再現させることで、音叉から伸びる光の刃で自分の力を推し量ろうとしているのか。力があると思われれば危険な役割を押し付けられることが簡単に予想できる。ましてや自分は異邦人――余所者だ。賽の頭の中で一瞬、手を抜くことを考えたが「剣の長さがおまえの処遇を決める、精進せよ」と言われては、必死にならざるを得ない。
「精進って、どうすれば」
「その剣に念を込めればいいこと。簡単なことじゃ」
「……じゃあ」
先のシェードとの戦いを思い出すように、賽は両手で剣を握る。
――伸びろ!
空気を裂く、特有の鋭く乾いた音がした。一瞬にも満たない時間のあと、賽の目の前にはシェードたちを倒したときと同様に、途方もない長さを持つ光の柱が出現していた。天井を貫かんばかりの長さだが、光の柱が大聖堂の天蓋に達することはなかった。
「よし、止め!」
オリゲネスが両手を打つと、光の柱が空気に溶け込むように消え去った。どういう理屈なのだろうか、しかし説明されたところでこの世界の理屈を土台から勉強しなければ理解することは不可能だろう。
ベルラベッダが無言で賽の手から剣の柄を奪い、礼節を尽くした手つきでオリゲネスに献上する。オリゲネスは剣を検分すると、その大きな瞳が驚き、畏怖、そんな類の感情を映し出していた。
「……これほどの奏力を持つ者は珍しい。ここアンティオス、いやゲヘナでも、十年に一度の逸材と言っていいじゃろう」
「司教様! お気持ちは分かりますが、来たばかりの異邦人にそんなことを吹き込まれてはこの者の増長を招きます。ここは」
慌てたようにベルラベッダが詰め寄るのに対して、オリゲネスは薄く笑った。
「親切じゃな、奏士団長は。しかし、異邦人の能力を正確に測ることも我が務め。こればかりは、嘘偽りなく当人に伝えねばならん」
「……出過ぎた物言いでした、お許しください」
自分よりも位の高い相手だからか、それともオリゲネスに一部の理を感じたのか、ベルラベッダが引き下がって首を垂れた。
「オリゲネスさん、奏力って?」
「この世界で生きる力じゃ。よかったなお主は。これだけの奏力があれば、とりあえず勤め口には困るまい」
そうだ、自分は異邦人と言われる立場だが、いつまでもお客様扱いしてくれるわけではないのだ。生きるためには働かなくてはならないが、賽自身はバイトの経験もない。奏力とやらがあるとはいえ、こんな自分にちゃんと働ける場所があるのだろうか。
考えていると、エティオのことを思い出した。奴隷とか言っていたが、それはオリゲネスに伝えるべきなのだろうか。
「さて、異邦人。これからがお楽しみじゃ」
少女らしく表情を緩ませたオリゲネスは落ち着かない様子で中央の祭壇上にある分厚い本を手に取った。
「……なんですか、お楽しみって」
賽の質問にオリゲネスが答えることはなかった。彼女は辞書のような厚さの本を取り出し、両手でページをめくり始めた。
本のページを引き裂く寸前の勢いで荒々しくオリゲネスはページをめくり続ける。ページは進んでは戻り、大きく進んでは最初に戻る。不規則に乱れ飛ぶページが、やがて突然ぴたりと止まった。
オリゲネスが本を閉じ、顔を上げる。その眼はまるで松明の炎の様に爛々と輝いていた。
こちらを指さしてオリゲネスは宣言する。
「お主の名前が決定した。名前はバゲダモンじゃ!」
「……バケモン?」
「違う、バゲダモンじゃ! よい名前じゃろう」
「……少し、考えさせてください」
この儀式が異邦人の力を試すのと同時に、命名式であることに賽は気が付いた。異邦人は名前がないと聞く。オリゲネスが持っている本はおそらく人名事典だ。
だからと言って、賽は与えられるまでもなくちゃんと自分の名前を持っている。十七年間を共に過ごしてきた、大切なものだ。自分を構成する要素の一部と言っても過言ではない。いまさら改名しなさいと言われても、簡単にはできない。
しかし、バゲダモンはないだろ、バゲダモンは。
後ろを見ると、ベルラベッダが肩を震わせて笑いをこらえていた。ちゃんと伝えてなかったのかよ!
「……あの、オリゲネスさん?」
「おう、異邦人。気に入らぬのなら、ヘタレイオスではどうじゃ」
「雄々しいのかヘタレなのかよく分からない」
「キボンヌでは不満か?」
「……それも却下。僕にはちゃんとした、」
「フニヤディ! どうじゃ、よい名前じゃろう」
「……人の話を聞いてくださいよ」
延々とオリゲネスの提案と賽の却下が続き、しまいに双方とも肩で息を始めたのを不憫に思ったのか、それとも付き合っていられないと感じたのか。ベルラベッダがオリゲネスに対して切り出した。
「司教様、この異邦人、名前を持っているらしいのです。サイ、という名前を」
「……もうそれでよい、それで」疲れたようにオリゲネスは手をひらひらさせ、「バゲダモン、異存はないな?」と、賽に念押しした。
「いや、僕の名前は賽だし」
「サイ、お主は性格が悪いな。では解散」
法衣をひるがえし、小さな肩を揺らしながらオリゲネスが退出していった。賽がなかなか言い出さなかったので、無駄に疲れさせたようだ。それにしても名前を持っている異邦人は特別なはずなのに、この扱いでオリゲネスはいいのだろうか。
「嫌われちゃったかな、ベルラベッダさん」
「気にするな、いつもあんなものだ」
諸々の手続きを終え、賽がベルラベッダから解放されたのはそれから随分経ってからだった。
「ふう」
賽が首に下げている金属の板は、身分証だった。正式には、都市生活許可証。銀色の、軍票のような形だ。これがなければここで働くことはもちろん、住所を持つことすらできないらしい。
賽が出てきた場所は大聖堂の出入り口のロビーだった。
ロビーは構造こそ謁見の間と大差ないが、雑多な人の群れで溢れている。異世界とはいっても、人々の外見は賽がいた世界と変わりがないようだ。この建物は手続きをする役所のようなものなのだろうか。
「待ってたよサイ! さびしかったー」
公衆の面前だというのに、人ゴミを掻き分けてきたエティオが抱きついてきた。あまりのことに賽は目を白黒させるも、
「ここではハグなんて親戚同士の挨拶みたいなものだから。それより契約早くしましょ?」
エティオが賽の額に張り付けるように契約書を取り出して見せる。賽はこの世界の人々の言葉は分かるが、契約書の文字までは分からない。手に取ってまじまじと見てみると、十分な強度を持った上等な紙であるらしかった。書類の下のほうにこまごまと但し書きが添えられているのはどの世界でも同じようだ。
その但し書きこそが契約者が一番目を通さなければならないこと、それも自分の世界と同じであるに違いない。契約書を目の前にして賽は漠然とした危機感を持った。
なぜなら、文字が読めないからだ。なんとか、文字が読めなくとも契約内容を把握する手段はないだろうか。
「うーん、エティオ」
「なになに? なにか不備でもある?」エティオが身と胸を乗り出してくる。
「僕、文字が読めないんだね」
「読めなくても大丈夫よ! ここに名前を書いてくれればいいんだから」
「契約内容を知りたいんだけど。奴隷なんて言ってたし」
「……ジ、ジョウダンよ! ちゃんとした契約だから、いい条件だと思うわよ? あたし的に」
「僕的じゃないんだ」
「むー、信用されてないー」頬を膨らませるエティオの可愛さに騙されまいと、賽は視線を逸らす。
「書類、読めないから音読してくれる?」
「え……?」エティオの顔がわずかにこわばった。
「だからさ、読み上げてくれれば分かるから。信用したいんだ、エティオのこと」
「……ちっ、そうきたか」舌打ちの音が聞こえたのは気のせいだろうか。
「何か言った?」
「ううん、何も! じゃあ、はじめるわよ? 一回しか言わないからよく聞いてね?」
「エティオ、早口はナシだよ」
「……ちっ」
今度は聞こえるように舌打ちした後、エティオは歌うように契約書の読み上げを始めた。
一、契約者は雇い主との間に専属契約を結ぶものとする。
二、契約の際、契約金が発生する。契約金はギルドの定めた一定額を保障するものとする。
三、雇い主は契約期間中、契約者の衣食住を保障する。
四、契約期間は半年。なお、契約更新時には雇い主が別途契約料を負担するものとする。
五、契約期間の途中において、契約者が契約の解除を申し出る場合には日額換算による契約料を返還するものとする。
ここまでエティオは文書の内容を朗々と自信たっぷりに読み上げた。聞いた限りでは、確かに賽にも納得できる内容だった。
「でしょ! これなら安心ね、サイ!」
「いや、まだだよ。全部読んでないよね、エティオ。目線が紙の途中で止まってた」
「……いや、まぁ」
エティオが誤魔化すように頭をかくが、賽にも大事なところだ、手加減はできない。
「読んで。上から下まで」
「ぐぬぬ……じゃあ、続けるわよ?」
急にエティオの声が小さくなったので、賽は間近まで耳を寄せなくてはならなかった。
六、契約における業種においては雇い主は可能な限り契約者の事情や特性に考慮する……。
七.契約者の精神的、及び肉体的保障においては、ぐすっ、雇い主は一切の責任を持たない。
「はいこれまでが上から下までっ!」書類を読み上げたエティオは涙目になっていた。
「やっぱり。おかしいと思った」
契約内容をわざわざエティオに音読させてよかった。
六番目は何の変哲もないルールに見えるが、最後に「考慮する」と書かれている。これは考慮さえすればいいのであって、強制力は一切ない。ルールとしてはザルだった。
問題は最後、七番目だ。契約者、つまり賽の危険や不調を雇い主であるエティオは一切考えなくていいということだ。つまり、契約者の使い捨てを合法化するアンフェアなルールだ。
「じゃあさ、じゃあさ、ここのところだけ変えるから。それなら文句ないでしょ?」
「……できれば、逆にしてくれるとうれしいな」
「どんな?」
「契約者の精神的、肉体的なケアを雇い主は負うものとする。これならいいよ」
「うん、サイの言うとおりにする!」
「……じゃあ、それでいいよ」
「契約成立ってこと? やったー!」
再びエティオに抱きつかれたが、賽はのけぞる身体と心のバランスをかろうじて保った。契約にまだ不透明なところは残っているが、どっちにしても路頭に迷っている自分は職を探さないといけない。そのためには契約は必須と言えた。
エティオという代理人が仕事を探してくれるのなら、それに越したことはない。仕事をしている間に、元の世界に戻る方法を探せばいい。賽は考えをまとめると、急に身体の緊張が解けていくのがわかった。
賽はさらさらと羽根ペンを走らせ、契約書をエティオに渡した。
「はい、これ」
「じゃあ、当分はあたしの言うことに従ってね!」契約書を受け取りながら上機嫌のエティオが言う。
「うん」
「じゃあ手始めに、これ持って」
賽はエティオから荷物を預かった。……重い。
ロビーから出ると、空が藍色に染まっていた。この世界の夜らしい。
自分たちの出てきた建物を振り返ると、それは巨大で精巧な尖塔だった。雲を突かんばかりにそびえたっている尖塔は、ほかに高い建物のないこの辺りではどこにいても目立つ存在だった。
「どう、すごいでしょ」エティオが自慢げに笑う。
エティオが言うにはこの建物――大聖堂は、ここに住む代々の住人たちが代を重ねて少しずつ建造していったという。
「さあ、行きましょうか」
「……どこに?」
「そりゃ、あたしの家よ」
「いいの?」
「経費節減。それに家だって住んでなきゃガタがくるし」
エティオの手招きに従って賽はついてゆく。石畳の街路を歩きながら話をする形になる。
夕暮れの街は物売りや帰途に就く勤め人たちであふれている。荷物を担ぐ人たちのなかに、屈強な男たちが乱雑な列を組んで歩いてゆく。手に持っているのはバイオリンの巨大な絃や、チェロのケース。この世界ではおそらく戦いに使われるのだろうが、どんな効果があるのかは想像の余地を出ることがない。
「あれは奏士の連中ね」と、エティオが言った。賽の世界でいう、騎士のようなものなのだろうか。
「ひょっとして、僕もあれに駆り出されるのかな」
「それはないよ。奏士団はああ見えて規律が厳しいし、危険も多いわ。それに賽はあたしの専属奴隷だから!」
「……」
街路には露店や屋台が軒を連ね、そこに食事を求める人々が群がっている。狭い石畳の街路の両脇にはどれも似たような建物がそびえ立っていた。葡萄と蔓の看板がある建物は、酒場だろうか。三角屋根の建物はどこかしらバランスが微妙で、隣り合う同じような建物とひしめき合ってお互いを支え合っているように見える。その向こうには、白い城壁がぐるりと街を囲んでいるのが見えた。
賽が見たところ、文明レベルは中世くらいだろうか。うまくやっていけたらいいのだが。ところでエティオの家はどこにあるのだろうか。
「城塞都市の中。城壁の外は無法地帯と言ってもいいから、契約してラッキーだと思うよ?」
「そうだね。うん、そうだ……あと、エティオ」
「なになに?」
「異邦人って、どういう役に立つのかな。普通の人と違うの?」
「来たばかりの異邦人は強い奏力を持ってるからね。サイにもあるでしょ? あの音叉剣みたいにさ」
「うーん、剣が伸びるのがそんなにいいことなの?」
「あの刃は奏力によって形成されているわ。奏力は、シェードを倒すのになくてはならない力なの。シェードは私たちにとって、天敵と言ってもいいから」
「……そういうことは、僕の仕事って」
「お、察しがイイね。あたしは商人をしている。都市から都市を渡り歩くのに、危険はつきものなの。サイには荷物を運ぶあたしの護衛をしてもらうかな」
「……」
これは落とし穴だった。てっきり、奏士団に入らなくていいと言われたので危険な仕事はないと思っていたのだ。場合によっては、ひとりでエティオの従者を務めるよりも、組織化された奏士団にいたほうが比較的安全かもしれない。
「そうは言ってもさ、あたしのところで生活してゆくのにも、いろいろ物入りなのよ? そこらへんは分かってほしいなあ」
そう言ってエティオは賽に紙を見せた。契約書とは違うもので、あれこれ手書きで書かれていて、その隣には数字がある。悪い予感が賽の背筋をちくりと刺した。
「最初に渡したパン一食分、あと城塞都市までの運賃でしょ。それに、あたしの裸は……」
「エティオ、君は自分の貞操をお金で換算できる人なの?」
「最初に言ったじゃん、あたしの裸は高くつくからねって」
頬が紅潮してゆくのを感じる。同時に自分めがけて、周囲の人々の視線が突き刺さっているのを自覚した。どう思われているのだろうか、それにこの紙に記載されているのはまさか慰謝料なのだろうか。
「そんなの、契約料で何とかならない?」
「なるよん」
「じゃあそうしてよ。それで今の話はナシで!」
「はい分かった! お姉さん物わかりのいい子は好きよ!」
エティオに邪気のない笑顔を向けられても、賽は引きつった笑顔を返すのが精いっぱいだった。
こうして賽の契約金は本人の手に渡る前に失われてしまった。
「ただいまー!」
玄関の大きなドアを勢いよく開けたエティオの声が、埃とともに広い玄関に響き渡った。沈黙を守る屋敷に、エティオが眉をひそめる。
「……エティオ、どうしたの?」
「どうしたのかな。ハウスキーパーがいたんだけど、逃げたかな? それにしてはちゃんと施錠してあったし……」
エティオは藪睨みの眼をして周囲の様子をうかがっている。
賽が案内されたエティオの屋敷は立派な洋館で、異邦人である賽から見ると歴史ドラマの一部のような印象を受ける。城塞都市と言えば限られた土地と狭い家屋を想像したので、この状況は意外だった。
この無防備な少女は、ラフな性格とは対照的に結構な資産家のお嬢様なのかもしれない。商人には元手となる金銭は不可欠なので、賽の予想はあながち間違っていないだろう。
「ん? どうしたの、サイ?」
「……いや、こういう場所初めてでさ」
「ふーん。サイはどういう家で暮らしてたの?」
「マンション。狭くはないけど、広くもない。母子家庭だったからね」
「難しい言葉はよく分かんないけど、集合住宅ってこと?」
「まあ、そんな感じ」
「集合住宅もいいよね。スラムとか。じゃあそっちにする? 鍵があっても扉を破られちゃうし、超危険だけど」
「……遠慮しておきます」
「でも掃除とか家の補修とか、手の届く範囲の家がいいよね。お父様が残してくれた家だけど、この大きさは一人じゃちょっと持て余しちゃって」
「……一人暮らしなの?」
「あたしが旅に出た一か月前に、ハウスキーパーに任せたんだけどねえ。料金は後払いにしたから、きっといるはずだけど」
「ハウスキーパーに逃げられるって、よくあることなの?」
「一応お父様の代から雇ってた古参なんだけどね……参ったなあ」
エティオが片手でわしわしと髪を掻いた。古参というからにはハウスキーパー、いわゆる家政婦の人は結構な歳なのだろうか。
賽があてがわれた部屋は、二階の西にある部屋だった。ベッドや鏡など家具もそろっていて、元は客室として使っていたらしい。
「とりあえず食事を用意するから待ってて。厨房は一階の西の端ね」
「うん」
「長く家を空けてたから少し埃がたまってるけどね。食事の用意をするからそれまでくつろいでいて」
部屋に残された賽の後ろで、バタンとドアが閉まった。拍子に大量の埃が滝となって天井から降り注いできた。
「これが……少し?」
まるで煙幕のように埃が賽の視界を塞いでいた。息を止めて窓際へ急ぐ。窓枠は留め金が溶接されたように固くなっていたが、なんとか外して窓を開けると新鮮な空気が部屋に入ってきた。
「ふう」
息をついた賽は早々に結論を出した。こんな環境は人の住む部屋じゃない。掃除用具は? せめてベッドや家具の埃だけでも何とかしないと、冗談ではなく本気で呼吸困難に陥る。部屋のドアを開け、長い廊下の端に向かって賽は叫ぶ。
「エティオ! 掃除道具とかないの?」
遠くのほうから、「一階のロビーの端っこにあるよー」とエティオの声が聞こえてきた。来たばかりの順路を辿って賽は一階、玄関ロビーに辿り着く。
「えっと、掃除用具は」
エティオに言われた通りに探してみると、ロビーの端の木箱に大量の掃除用具が乱雑に押し込めれていた。屋敷の規模からみると、きっとこれだけの道具が必要だったのだろうが、今は建物と同様に埃をかぶっている。
「けほっ」
咳き込みながら道具を漁る。はたき、箒、塵取り、そして雑巾。雑巾は風化する寸前まで劣化していた。これで拭いたところで、汚れを上塗りするだけに違いない。
それに雑巾がけをするには水もいる。水を探すなら、水回りのある厨房だ。確か西のほうにあったと聞いた。水道はあるのか分からないが、少なくとも飲み水くらいは確保しているに違いない
掃除道具一式を持って廊下を歩く。長い廊下で、途中にドアをいくつも見かけた。いったいここはどれほどの人が住んでいたのか、そしてなぜ今はエティオ一人なのか。
廊下の突きあたりから水音が聞こえてきた。確か、厨房があると聞いていた。
「エティオ?」
呼びかけてみるが返事がない。そのまま行ってみると、突きあたりにはドアがあった。入り口には何も書かれておらず、賽は無言でドアを開けた。
ドアの向こうは厨房ではなく、脱衣所だった。足元には絨毯の代わりに板張りの床があり、壁沿いにしつらえられた棚には通気性の高い葦のような繊維を編み込んで作られた籠が置かれている。棚にはその他にも、洗面用具やタオルの類が乱雑に置かれていた。
そして、そこには先客がいた。
「あ」
賽は間の抜けた声を上げた。
脱衣所にいたのはメイドだった。彼女がメイドだと分かったのは、濡れた髪になぜかフリルのついたカチューシャだけを着けていたことだ。
壁に向かって着替えをしていたメイドは入浴を終えたばかりなのか頬が上気しているが、怜悧な視線で賽を射抜かんばかりだ。背は低く、身長に比例した身体の成熟具合――つまりはツルペタだ。なぜ賽にそんなことが分かったかというと、メイドはカチューシャの他に何も身に着けていなかったからだ。
つまりは、全裸。
異世界とはいえ、男の自分が裸の女性に遭遇するのは確率の低いことだろう。今自分の人生はエロ確変中なのか。混乱する頭でそう思いながら、急いで目の前のメイドから視線を逸らしてドアを閉めようとするが、それよりもメイドが動く方が速かった。
「侵入者」
そう言って、メイドは手に持っていた着替えの中から何か取り出した。賽も見たことのある物で、少なくとも賽の生活には必要のない物だった。
それはカスタネットだった。メイドが両手に持つカスタネットは金属製で、鈍く光沢を放っている。普通のカスタネットは木製で、金属製のカスタネットがどういう音を出すのか賽は想像しにくい。
金属カスタネットの音はすぐに賽の耳元で炸裂した。
甲高い爆発音がして、賽は反射的に床に転がる。元の場所を見ると、ドアに一抱えほどもある穴が穿かれていた。
「……君が、エティオのメイド?」
「ハウスキーパー。メイドとは違う」
「どう違うの?」
「家の秩序を守ること」
そう言ってメイドは拳を振るう。手のひらに装備したカスタネットが禍々しい光を放ち、逃げる賽を追いかけて次々と脱衣所の壁、床、棚を破壊してゆく。どうやら自分は家の秩序を乱す、排除すべき存在であるらしかった。
「秩序を守るためなら、家を破壊してもいいってのか!」
「それは後で考える」
話にならない。たまらず賽は脱衣所を抜け、浴室に走り込んだ。
浴室はタイル張りで、賽の世界とそう変わったところはない。湯船は石造りで、壁の岩の隙間から湯気と共に水が湯船に流れ落ちている。温泉が引かれているのだろうか。どうせなら散々かいた汗をここで洗い流したかったが、今はそんな場合ではない。
浴室にいる賽の背後で、ぴしゃりと引き戸が閉まった、
「ここで終わらせる」
自分が逃げている隙にバスタオルを羽織ったのか。浴室の出入り口で宣言するメイド少女の言葉に、賽は自分が下手を打ったことを悟った。
逃げるなら廊下であり、エティオに助けを求めるのが一番の解決法だ。しかしここの出入り口はメイドの背に阻まれている。
袋のネズミだということだ。
何か武器はないか。あわてて周囲を探るが、道具と言えば浴場の隅に洗面器と風呂椅子があるくらいだった。
「……?」
そのとき、賽の手元に何かが当たった。
「覚悟」
背を丸めて体を震わせるメイドは飛びかかる寸前の猛獣を思わせた。メイドは賽めがけて距離を縮めるべく床を蹴る。
刹那、賽はメイドの足元にある物を滑らせるように投げた。
それは石鹸だった。
メイドの踏み出す脚が石鹸に取られ、姿勢がそのまま縦に回転する。そして何が起こったのか分からずにメイドが「ふぎゃっ」と短い悲鳴を上げ、タイルの床に背中を打ち付ける。衝撃でバスタオルを脱落させたメイドは石鹸の泡をまき散らしながら、賽のいるところに猛スピードで滑ってくる。
「サイ、何が起こったの!」
がらりと扉を開けてエティオが入ってきた。
「お、ご主人」逆さまになったメイドが声を上げる。
口の端をひくひくさせているエティオは賽の状態を見ると、「……どういうことか、説明してくれるかしら」と乾いた口調で言った。
賽は全裸のメイドと折り重なるようにして倒れていた。しかも泡まみれで、いかなる弁解も不可能な状況だった。
「厨房に行こうと思ったんだけど……僕にもわからない」
「じゃあレテ、説明して……仕事をさぼっていたのは後で聞くから」
レテ、と呼ばれたメイドはぽつりとつぶやくように言った。
「この部外者に、やられていた」
湯気がたゆたう中、エティオが凍りついたように動かなくなった。
ちょっと待て。やられていたってのは戦闘の勝敗で純然とした結果であり、決して不純な行為を差すものではないんだよ。彼女が全裸だったことは僕が見たときには既に全裸だったわけで、そもそも僕はそんなツルペタには興味がないし、あ、でも石鹸のいい匂いがした時にはさすがに少しだけどドキドキした訳で、ああ、僕がいったい何が言いたいかというと。
高速で賽の頭の中を文字で埋め尽くされるが、賽の口から出てくるのはほんのわずかな言葉だった。
「……ごめん」
「奴隷のくせにー!」
エティオが間髪入れずに叫び、渾身の力で風呂桶を投げつけてきた。
メイドは名前をレテといった。
確かにハウスキーパーを自称するだけあり、ものの一時間で屋敷は色でも塗りかえられた様に綺麗になった。
食事は仕込みをしていなかったらしいが、レテの出してくれた食事は賽に言わせれば高級レストランのメニューと錯覚してしまうほどの手の込みようだった。
それでも主食であるパンは保存を前提にしているのか、岩のように硬かった。エティオの食べ方を見ると、スープに浸して食べるのがマナーらしい。ちらちらとエティオのほうを見ながら賽はマナー違反にならないように食事に励んだ。
賽の苦闘をよそに、エティオは無言で具だくさんの野菜スープを木のスプーンで口に運びながら、渋面を崩さずにいた。
「こんなに早く済むのなら、なんで常日頃からやっていないのよ、レテ」
「ご主人が帰るのに合わせてやるつもりだった。ご主人は帰りが明日のはずだったのではないか?」
「だから出迎えもせずに、のほほんと風呂に浸かっていたの?」
「……うん」
「いい? ハウスキーパーっていうのはね、常日頃から屋敷の手入れを任されているのが仕事なの。もちろん空き巣を防ぐ意味もあるけどね」
「すまない、ご主人」
頭を下げるレテに対して、「もういいとは言わないけれど、今後の仕事で見せてもらうわ」とスープを平らげたエティオが言った。
「それからサイに対しても。客人をもてなすのがメイドの仕事じゃないの?」
「……おう。私の身体を好きにしていいぞ、客人」
どういう風に思考が働いたのか。レテに真顔で言われたため、賽はスープを吹き出してしまった。
「そんなことじゃなくて! それにサイの身体はあたしのものなんだからね!」
「……それも違うと思うよ」
「何よ、サイはあたしの奴隷なのよ? そんな口をきいていいと思っているの」
なぜかエティオの眼が据わっていた。態度も微妙に違う。やっぱり、と賽は嘆息した。
契約したので、エティオはこちらの機嫌を取る必要が無くなったのだ。賽はスプーンの手を休めて口を開いた。
「まだ契約は成立してないよ、エティオ」
「はあ? 何言ってるのよ、契約書がここに」
懐から契約書を取り出すエティオの顔色が赤から青に急変した。まるで病人みたいだ。
「……なに、これ! どういうこと? 確かに契約のサインを確認……!」
そうだ。エティオは怠っていたのだ、サインの確認を。賽がしたのは、サインを書くような動作と契約書を丸めて渡しただけだ。
エティオが額に手を当てて呻いていた。
「あちゃーやられたわー、可愛い顔して喰えない男なんだ、サイ」
「一応、念には念をってね」
「……それなら、どうするの? ここを出ていくのなら、好きにしたらじゃない」
「少し気になったんだ。奴隷の件もあるけど、どうして僕をここまで連れてきたのかな」
「それは」
「人には言えないようなことをさせようとしてるんじゃないの?」
エティオが人を必要としているのは分かる。しかし格安で奴隷を得るのなら、他にいくらでも人はいるはずだ。街の様子を見た限りでは、人手不足というわけではないだろう。
エティオが必要としているのは、異邦人だ。しかも、この世界の事情をまだ知らない無垢の異邦人。その条件に賽は適合していた。
「……わかったわ、隠し事はできないようね。あーあ、簡単に騙せそうだったんだけどなあ」
大きく伸びをした後、エティオは「ついて来て」と言って、食堂のドアを開けた。
屋敷の夜の廊下は、所々に蛍のような明かりが燭台に灯されていた。銀灯花といって、森に生息する植物らしい。細い茎に、小さな光る花が鈴なりに咲いている。
賽とエティオは一階に降り、そして階段の陰に隠れたところに足を踏み入れる。そこには木製の蓋があった。蓋を開けると降りる階段があり、エティオは無言でその中に足を踏み入れた。
賽がついて行くと、やはり行き場のない埃が降り積もっている。エティオの持つ燭台の明かりがわずかな光源だった。
「着いたわ」
エティオが無感情の声で言った。エティオの目の前には、厳重に施錠された石の扉があった。扉を開けるまで少しの時間がかかるのは、エティオの持つ光る鍵が奏力で形作られているかららしい。
「奏力の入れ具合で簡単に形が変わるの。防犯のためね」
エティオが光る鍵を回すと金属のかみ合う音がして、引きずる音を立てながら石の扉が開いた。
部屋の中は意外と明るく、燭台には多くの銀灯花が音も立てずに穏やかな光を放っていた。
ここは書斎らしく、壁に埋め込まれた本棚は種々雑多な書物で埋め尽くされている。それだけではない。積み重なった本がいくつも天井に向かって柱を作り、それらをくぐるようにしてエティオは部屋の中心にある重厚なつくりをした机に向かう。賽も同じようにして行った。
「これを見て」
机の上を指さしながらエティオが言う。賽が視線を向けると、少しだけ驚いた。
机の上にあるものは、地図だった。地図の中心にある、河川による亀裂がびっしりとはいった大陸はゲヘナらしい。大陸の周囲には大洋がいくつか区分けされていて、そのなかには馬鹿でかいタコやらイカやら竜やらが描かれていた。
「エティオ、この× 印……なに?」
まるで大陸に傷をつけるように、いたるところに付けられた赤い× 印があった。印の下にはいくつか都市を表すマークがあり、× 印がひどく不吉なものに感じる。
「ああ、それね。あたしが探しているものがある……いや、あった場所よ」
「……何かの、宝なの?」
「ええ、宝ね。少なくとも、あたしにとってはね」エティオは口の端を吊り上げて笑った。
「……エティオ?」
「この印は、あたしのお父様を殺したシェードが目撃された場所なのよ。サイ、あなたはあたしと一緒にそのシェードを追ってもらうわ」