プロローグ
プロローグ
衝撃音の一瞬後、飛行機の客室の天井から何か透明のものが落ちてきた。
宮川賽の目の前でぶらぶらと揺れているそれはよく見ると、酸素マスクだった。
飛行機の客室は怒号と悲鳴、混乱と喧騒に支配されていた。機内のスピーカーから男性の声で乗客にシートベルトやマスクの装着を指示する放送が流れているが、それを聞いている人は皆無だった。
シートベルトを外して歩きまわる者、それを注意する添乗員に怒声を上げながら掴み掛る者、神に祈る者。客室内は死を目前にした人々がどのような行動を取るかを、まるで見本市のように展示していた。
こうやって人々を観察している賽も例外ではなく、死という運命が迫っている。機体の軋む甲高い音は、まさに死神の笑い声だ。
そのなかで賽は冷静に非常時の対処マニュアルを見ていた。
座席下の救命胴衣を身に着け、酸素マスクを口元に当てる。それ以上できることなんてない。あるとすれば神に祈ることと、自分の運命を呪うことくらいだろう。
読み終わると賽は静かにそれを座席前のポケットに戻した。
別に助かりたいなんて思っていないのに、何故無駄なことをするのだろう。
賽は神に祈った。早く殺してくれ。どうせ、真綿で首を絞められるような退屈に殺される毎日だ。終末は早いほうがよかった。
どうせ、自分の右手は死ぬまで動かないのだから。賽は「事故」以来感覚のない自分の右腕を、冷ややかに見下した。
一七年。思えば嫌で長い人生だった。
唐突に客室の中ほどの床が砕け、そこを軸に室内全体が折り畳まれるように曲がる。誰かが上げた絶叫。気流という見えない怪物に飛行機のフレームを引き千切られる。衝撃で屋根を引き剥がされ、酸素マスクも天井ごと空中に投げ出される。
世界が廻る。
賽の頭上には容赦のない青い空が見え、そのなかに飛行機のフレームやひしゃげた巨大な翼、荷物、そしてその持ち主たちが次々と吸い込まれていくのが見えた。
そして、賽自身もそれらの一部になって青い空に溶け込むように消えた。