上村お嬢様はお寝坊さん
俺は、着慣れないメイド服を揺らしながら、とある部屋の前の廊下をうろちょろしていた。
時折、足を止めては扉を見る。そこに書かれていた上村真帆という名前を見ると、またうろちょろしだす。くそ……自分でも思うが、俺って情けないな、まったく。
このままじゃ埒があかないと思った俺は、立ち止まり、深呼吸する。
「ふぅ……大丈夫だ、大丈夫。何もやましいことはしていないんだから」
決心した俺は、上村真帆と書かれた扉と相対する。おもむろに腕を上げて、コンコンとノックした。
しかし、数秒待っても反応は返ってこない。
聞こえなかったのだろうか? そう思って、もう一度ノックしてみる。だが、またしても反応は返ってこない。扉の向こうは静かなままだった。
「これは、入れと言っているのか……?」
ごくりと生唾を飲み込む。扉を開けようと腕を伸ばしたが、寸でのところで思い止まる。
「いやいやいや、早とちりは良くない! 起きているか、確認してないじゃないか!」
そうだ。彼女はまだ寝ているかもしれないのだ。返事がなかったら、入ればいい。うん、この方針でいこう。
「ひぃふぅ……」
さっきから、ドクドクと心臓が早鐘を打つ音が、耳に響いていた。手に汗を握っている。全力疾走した後のように、息が荒い。
こんなんでこれから先やっていけるのか、今から不安になってきた。
「よし!」
ぱんと頬を叩き気合いを入れ直す。
「上村さん、起きてるかー?」
耳を澄ませてみるも、返事はしない。いよいよ、寝ている可能性が高くなってきた。
「入るからな! 言ったからな!」
叫びながら、扉を勢いよく開ける。甘い香りが、鼻腔を擽った。女の子の部屋とはこんなに良い匂いがするものなのか。初めての経験だったので、新鮮だった。
部屋は、何もないわけではないが、特筆するべき点もない。俺の部屋とそう大差ない。
ただお嬢様だからだろう、置物はどれも年季の入った高級そうな代物ばかり。
勉強机が角にあり、丸テーブルと椅子が中央に並べられ、大きな鏡が隅に置いてある。左の壁をクローゼットが占拠している。窓の近くに、特大サイズの天蓋付きベッドがある。
そのベッドに、美少女がスヤスヤと気持ちよさそうに、眠っていた。
漆を塗ったようなショートカットの黒髪。寝癖で前髪が浮いて、淡雪のように真っ白なおでこが覗いていた。それが、窓から差し込む朝日に照らされて、透明感に拍車を掛ける。
淡いピンク色の小さな唇が、閉じたり開いたりしている。たまに、「ん……」と可愛らしい寝言が聞こえてくる。
ピンク色のパジャマを着ており、盛り上がりの少ない胸が上下していた。
「か、可愛い……じゃなくて! さっさと起こさないと! 学校に遅刻するからな!」
そこではたと気づく。どうやって起こせばいいんだ? 顎に手を当てて考え出す。
そういえば、アニメだとこういうシチュエーションが定番だったはずだ。
幼馴染みが主人公のために、朝起こしに来る。幼馴染みは布団をひっペがえして、主人公の名前を呼ぶ。主人公は目覚める。すると、幼馴染みは男の生理現象を見てしまう。一悶着あるが、何とか学校へ向かう。
省いた部分があったが、大体こんな感じだろう。
……って、あれ。待って欲しい。よくよく考えれば、俺は上村さんの幼馴染みではないし、アニメの幼馴染みは決まって女の子だ。
「参考にならねぇ!」
頭を抱える。いや……だが、待てよ。別にアニメ通りの配役でやらなくても、いいよな。
俺は女の子でも彼女の幼馴染みでもないが、女の子の幼馴染みだとして。上村さんは女の子だが、主人公に見立ててやればいいよな。
それに、女の子に生理現象なんて……ないよな。うん、ないと思う。彼女いない歴十七年目突入の俺だが、ないと断言できる。たぶん。
ということはアニメのように一悶着もなく、学校へ行ける!
「迷ってる暇はない! やるしかない!」
俺は天蓋付きのベッドの傍らまで寄り、上村から布団を引き剥がした。そして、名前を呼んでみる。だが、上村さんはぴくりとも動かない。まるで死んだように寝ていた。
「ま、マジかよ……」
アニメだと、ここで主人公は目覚めるんだけどな……。上村さんは一筋縄ではいかないらしい。
念のために下半身を確認してみるも、あの現象は起きていない。どうやら数少ない女の子の知識は合っていたようだ。
「にしても、どんだけ深い眠りに落ちてるんだろ、上村さんは……。俺がこんだけ騒いでるというのに」
うーんと、どうしたものかと悩む。
「とりあえずは、目が覚めるまで、名前を呼び続けるか」
今度は彼女の顔辺りまで近寄って、呼ぶことにする。しかし、俺はメイド服の裾を踏んづけてしまい、体勢を崩す。
身体は重力によって落ちていき――ぽふっと柔らかい感触が顔に当たった。何だろうと、触れて見る。マシュマロのような感触は、手に収まる程のサイズ。
まさか……! 女の子の知識が乏しい俺でもわかる。これは、胸だ! あまりにも小くてわかり辛かったが、これは確かに胸だ!
「うむ……んっ、もう朝か……。ふぁっ……」
最悪のタイミングで、上村さんが目覚めなすった!? 慌てて起き上がろうとしたが、時既に遅し。手首を掴まれ、引っ張られる。俺はまた柔らかい感触に包まれる。
「何をしていたんだ、家政婦さん? いや、《家政夫さん》の一ノ瀬哲くん?」
頭上からトーンの高い声が聞こえてくる。怒っているようではなさそうだ。一先ず安心する。
「あ、えっと、その……これは事故だ! 事故なんだ! 信じてくれ!」
「目上の人に対して敬語を使うって教わらなかったのか、家政夫さんは?」
「ごめんなさい、これは事故なんです! 俺は悪いことをしていません! 信じてください! お願いします!」
上村さんとは同い年だ。けれどもそんなことを気にせず、俺は彼女の言う通りに従う。
非があるのは明らかに俺の方だ。言う通りにしなければ、何をされるかわかったものじゃない。
「なら、土下座して謝れ」
「ど、土下座……」
「どうした? やりたくないのか? わたしの言う言葉が聞けないのか? ならば仕方がない、今ここで悲鳴を上げるとしよう。すると、家族の者が何ごとかと来るだろう。そして、この現場を見たらどうなるか……言わなくてもわかるよな?」
「はっ、はい……! よ、喜んでやります!」
威勢良く言うと、上村さんは手を離す。体勢を整えてから、ちらりと窺う。
彼女は満面の笑顔を見せていた。羞恥や怒りで顔を赤くするわけでもなく。泣いているわけでもなく、屈託のない笑みを浮かべていたのだ。
あまりの不気味の悪さに、俺は直ちに指示に従った。額をふかふかの絨毯に擦りつけて、懸命に許しを請う。
「ごめんなさいは? 変態野郎?」
「ごめんなさい……もう二度とこんな真似をしません。……許してください」
情けないが、若干涙声になっていた。
くそ……顔は可愛いくせに、言動が可愛くない! 内心でそう毒づく。
「土下座姿のまま顔を上げるんだ、変態野郎」
「はい!」
最早、上村さんの犬になりつつあるな。その内、お手をしろと言われたらやりそうだ。 そんなことを思いながら顔を上げる。
上村さんはベッドの縁に足を組んで座って、切れ長の瞳で俺を見下していた。
相変わらずの邪気のない笑顔。目尻を下げて、靨を作り、極上の笑みを作る。この状況ではなかったら、きっと可愛いと思えたことだろう。
「最後に何か言いたかったことはあるか? 変態野郎」
笑顔を崩さずに毒を吐き、小首を傾げて問い掛けてくる。
「えっ、ちょっと待って! いや、待ってください!」
「『えっ、ちょっと待って! いや、待ってください!』が、最後の言葉なんだな」
「違います! 最後ってどういう意味ですか!」
「それが、最後に言いたかった言葉か。まぁいい。弁解の言葉や無実を証明する言葉を期待していたのだがな。……最後の意味について聞きたいのなら仕方がない。特別に教えてやろう」
ああ、そんな! 何てことだ! 嵌められた! その方法があったなら予め教えてくれてもよかったのに。
仕方なく大人しく、何を言われるのだろうかと、正座して待つ。
まさかとは思うが、打ち首とか切腹とかさせられるわけじゃないよな。いくら上村さんでもそんなことはしないよな。
……そう思いたいが不安は払拭できなかった。今までの言動からしてそれが一番可能性として高いのは確かだったから。
すぅっと息を吸う音がして、上村さんを見れば、小さな口を目一杯開けている。
これから告げる言葉に楽しみを見いだしているのか、一段と笑みを刻んでいた。
「最後……つまり本日付をもって、一ノ瀬哲くんを解雇することを決定した」
そうして俺は、笑えない冗談を最後に聞くことになったのだった。