夜のビデオカメラ
プロローグ
突然だが、あなたは自分が夜寝ている姿をビデオカメラで撮影した事はあるか。
大多数の人は、そんな意味のない事をした覚えは過去にないだろう。
しかし、仮に撮影しなければならない状況に陥り、その映像を見なければならないとしたら、あなたは見る事ができるか。そこに、この世の物とは思えない何かが映っていたら、あなたはどうするだろうか。
僕は今、まさにそれを考えている。
僕の目の前に丸い机に置かれたリモコン。
このリモコンから発せられた信号は、薄っぺらいテレビと繋がったDVDレコーダーに届く。そしてすでに再生状態にあるビデオカメラの映像をテレビに映し出すのだ。
リモコンの『入力切り替え』と書かれたボタンを一度押せば、この動作が始まる。
それは未知の扉を開く合図だ。
僕はリモコンを手に取った。
瞬間、背中が凍り付く。
背骨を直接捕まれたような感覚だった。
ゆっくり首を回して後ろを見る。
そこには今朝から変わらず、僕の服が散乱していた。
肩を撫で下ろす。
気を取り直しリモコンをテレビに構えた。
『入力切り替え』と書かれたボタンに親指をかざしたところで指が止まる。
駄目だ、押せない......。
「やっぱり明日にしよう」
僕の頭で僕が囁く。
「嫌だ。あんな思いはもうしたくない」
そうだ。押さなくてはならない。
押さないと何も解決しないじゃないか。
何が起こっているのか確かめなくてはならない、自分自身の目で。
心臓が高鳴る。
押せ。
押すんだ。
押せ!
押せ!!
押した。
テレビの画面が切り替わろうとする。
その一瞬はスローだった。
〇・二秒を無数に切り刻み、僕の脳が走馬灯のように数日前の出来事を鮮明に思い出させた。
1
このアパートに住んでもうすぐ半年になる。それは同時に大学に行く為に僕が実家を離れて半年ということを意味していた。
父の知り合いから紹介してもらったこのアパートだが、格安な上に生活に必要な物は全て揃っていた。
外観こそ古いが、住み心地はいい。
僕の部屋を上から見たとすれば、縦長の2LDKと言ったところだ。玄関や浴室、WC、洗面室は右側に並んで、それらを壁で隔てて簡単な台所と、広い空間を取った寝室と居間がある。
一人で生活するにはもったいない部屋だとつくづく思っている。
大学は午後五時頃終わり、その足でアパート近くのコンビニで十時まで小遣い稼ぎ。そこで簡単な夕食を買って、アパートに戻る、という生活を半年続けてきた。
僕のイメージしていた、華やかな大学生活はまだない。
今日も全く変わらない一日だった。このまま機械になってしまうのではないのかと心配だ。
『合田 凌』と書かれた表札の部屋の鍵を開ける。
「おかえりなさい」
そう言ってくれる人がいればいいのだが。
玄関の棚にいつもの様に鍵を置く。
六畳ほどある居間に入り、肩からたすきに下げていた鞄を白い机の横に置いた。
ジーンズのポケットから携帯を出して時間を確認する。
午後十一時。
バイト先の先輩に長い間引き止められていたおかげで、いつもより遅くなってしまった。
女の子を紹介しろだって?
二十後半になってフリーターじゃあ一生できませんよ。
面と向かってはっきりと言ってやりたかったが、バイトの中での立場もあるので言う事はできなかった。
十九年生きてきて彼女ができた事のない僕が言えた事でもないが。
机の前に胡座をかきテレビのリモコンを取った。テレビを付ける。無音だった部屋に賑やかな音が鳴る。
適当にチャンネルを回していくが、何も見たい番組がなかった。
僕は一つ息を吐く。
下らないバラエティ番組でチャンネルを止めて僕は寝室に入った。
寝室にはポツンとシングルベッドが置かれ、ベランダに続く窓がある。
僕は薄暗い部屋をベッドの横のランプで明るく照らす。
ちょうどベッドの足を向ける方向にあるクローゼットを開けて、とりあえず部屋着に着替えた。
さて、明日は何を着て行こう。
大学に毎日通うのも僕にとっては酷な事だった。毎日服装を変えて行かないと友達にまたその服か、と突っ込みを入れられる。そう思うと制服だった高校の方がよっぽど楽だった。
僕はハンガーに掛かった長袖のシャツを見つけ、明日はこれにしようと決めた。
居間に戻って課題をしようと思った時、僕の頬を何かが掠める。
予想外の出来事にびくり、と反応した。
頬を手で擦ると、手に冷たい感触が伝わる。
水?
予想通りに擦った手には水が付いていた。
雨漏りかと思い天井を見上げる。特に濡れた様子はなかった。次に、床に敷いたカーペットを手でなぞる。こちらも濡れている様子はなく、さらさらとした感触だ。
再び天井を見上げる。やはり濡れた様子はない。
僕は首を傾げた。何とも不思議な事だ。染みすら滲んでない天井から水滴が落ちて来たのだから。
ひとまず、コップを下に置いておこう。とは言っても、水滴が落ちて来たのは僕に当たった一滴だけで、しかもその水滴は肩に当たって消えてしまった為に落下地点が分からない。
僕は溜め息を吐く。
台所からコップを出そうとした時、見慣れないコップがあった。歪な形の何かを飲むには不便そうなコップ――というより陶器だ。なぜあるのかは知らないが、たまたま目に入ったそれを寝室の適当な場所に置く。うまく入ってくれるといいのだが。
まだ半年だというのにこんな様子では困る。本格的になって来たら管理人に言わないと。でもあのおばさんはちょっと苦手だな。
風呂に入り明日の準備をする。準備をしている最中に課題の書かれた紙を見たが見ていない事にした。
今日はもう寝よう。早く寝て、明日を頑張ろう。
僕は枕に顔を押し付けて静かに目を閉じた。
2
自分の意識とは関係無く、柔らかな春の熱を感知した目がゆっくり開いた。
いつものように窓から雀の声が聴こえる。さらに朝日が神々しく床と僕の服を照らしていた。
服......?
僕は寝た体制のまま固まった。
しばらくして起き上がる。
辺りを見渡すとクローゼットは開けられ、ハンガーに掛かっていた服は部屋中に散らかり、靴下や下着が入っている。引き出しも全て開けられて中身はばら蒔かれている。
どういう事だろうか。
寝起きの頭をフル回転させて真っ先に思い付いたのは空き巣だ。
思い立った僕は寝室を出て居間に入る。寝室とは対照的に、居間は荒らされてはいなかった。
昨日と変わらずに机の横に置いてあるカバンの中身を確認する。
財布......中身はある。
引き出しに入っていた通帳もあった。
よかった。空き巣ではないらしい。
安堵の溜め息を吐く。
しかし、空き巣ではないとは言え寝室のあの散らかり様はなんだろうか。
自然になるのか? それとも最近空き巣は荒らすだけ荒らして、何も盗らずにその場を去るのが流行っているのだろうか?
浴室と台所も見ておく。荒らされた形跡はない。
だが何も盗られてはいなくとも、これは立派な犯罪だ。警察に言った方がいいだろう。
携帯の時計を見た。デジタル時計が八時半を示している。
何はともあれ服をとっとと片付けて、早く大学に行かないと間に合わない。
――――――――――
「は!? 空き巣!?」
大学の講堂で隣の男――荒井 啓一はややオーバーに驚いた。
講堂に響いた彼の声でほぼ全員が一番後ろの僕たちを見た。
「バカ、声でけぇよ」
僕は肩をすくめて啓一に言う。
「後ろの二人、みんなの眠気を覚ますのはいいが、静かにしなさい」
前に立つ講師が嫌味を言った。つられて何人かが小さく笑う。
何だか恥ずかしくなって顔が熱くなるのを感じた。
先生はみんなの反応に満足したようですぐに講義に戻った。
「ったく面白くもねぇ」
啓一は頬杖を付いて舌打ちする。
「で? 空き巣だって?」
「うん。寝室だけ荒されてるだけで何も盗られなかったし......何かその手の話聴かないか?」
「いいや全く。って言うか住んでる地区が全然違うだろ」
そうだった。
彼はこの大学に入って初めての友達だ。高校の友達が次々と就職していく中で僕は一人、県外のこの大学に入学した。昼休みに一人で昼食を食べている所を話し掛けられたのは、そう昔の話ではない。
「そうか......」
息を吐くように言う。
「鍵は?」
「掛かってた」
啓一は他人事のように「ふーん」と洩らす。
「ずいぶんご丁寧な空き巣だな。金目の物が何もないから、白けて帰ったんじゃないのか?」
「財布も通帳もあったんだぞ」
「へー、じゃあストーカーとか?」
啓一が言った途端、悪寒が背筋を走った。講義の内容を機械的に書いていた手が止まる。
「いやいや、ないない」と慌て否定した。
「そうだな、百パーないな。お前にストーカーか付いたら天地がひっくり返ってる」
事実かも知れないけどそこまで言わなくても......いや、そのくらい言ってくれた方が今は安心するか。
「警察に行った方がいいかな?」
「意味ないって。別に何も盗られてないんだろ? しかも、ただの不法侵入だ。警察もパトロールするだけさ。意味ないって」
「......だよね」
残念そうに僕は言う。
「今日もバイトか?」
「うん」
「稼ぐのもいいけど、単位落とすなよ」
「うん」
啓一の言葉に気の抜けた返事をする。
「空き巣の事は気に病むなよ。何も盗らなかったんだからさ」
「うん」
励ますように言ってくれたが、啓一にしてみれば他人事だ。
僕は息を吐いて、肩を落とした。
「――であるから、この場合はここにこれを代入――」
つまらない講義が子守唄に聴こえてきた。
――――――――――――――
「あれ、今日は学食じゃないの?」
長い講義を終えて昼食の時間。
僕と啓一は決まって学食だった。というのも、弁当を作る人もいなければ、作る気もないからだ。
しかし、今日の啓一は違うらしい。
「悪いな。今日はこれだ」
そう言うと僕に小指を立てて見せた。どうやら恋人さんと食べるらしい。
いつの間にか出来ていたようだ。
「あ......そう。羨ましいな」
我慢できない心の声が表に出た。
「ま、そう腐るな。次の講義には間に合うからよ」
......鼻の下伸ばして何を言うか。
啓一は笑顔で手を振ると、待っているであろう恋人のもとへ向かった。
一人取り残されて、取り合えず僕は食堂に向かう。
食堂はいつも混んでいる。今日も例外ではない。多くの人たちが、がやがや騒ぎながら食べている。
いつもは啓一と来るから感じないが、一人で来ると妙な孤独感があった。入学当初を思い出す。
今日の昼食――カレーを持ち、空いている席を探す。なるべく人がいなくて、欲を言えば隅っこの席がいい。
席を探していると、隅の方に空いている席を見つけた。朝は運がなかったが、昼から運が向いているのかもしれない。
僕は素早く座って早速食べ始めた。
ほぼ毎日食べているので何の感想も持たないが今日は違った。カレーの味は変わらないが、僕の心境は重くて、多少ながらカレーを不味くさせていた、スプーンがあまり進まない。
やはり空き巣なのだろうか。空き巣が寝室を荒らすだけ荒らして、鍵まで閉めて帰って行った。何も盗る事なく。
自分で考えてみてアホらしく思えてきた。
「す、すいません......隣いいですか?」
意識の外からの声にスプーンを落としそうになった。
声の方を見ると、そこには女の子が立っていた。茶髪掛かったショートの髪に、赤渕の眼鏡が似合う女の子だ。
僕は一瞬目を見開いた。
「と......隣?」
「え、えっと、じゃあ......前の席いいですか?」
彼女はおどおどしていた。まるで何かに焦っているようだ。僕も人の事を言えたものではないが。
「どうぞ」
顔は澄ましていると思うが、内心は正反対だ。
隅っこで一人昼食を食べる男など誰も気にも留めない。ましてや話し掛けるなど、時間の無駄もいいところなのに。
「あ、ありがとうございます」
震えているようなその声に僕は緊張していた。何なのだろう、この空気は。
彼女は僕の真正面の席に腰を下ろし、両手の昼食を置く。僕と同じカレーだ。僕より量は少ないが。
しばらく無言のままお互い食べていた。
「あ、あのどこの学部なんですか?」
スプーンに取ったカレーが僕の口に入る前に彼女は言った。
改めて正面から見ると、顔立ちは幼さを感じさせる。眼鏡で強調された丸い目が僕を真っ直ぐに見ていた
「経済学部ですよ」
僕はスプーンのカレーを皿に置く。
「ほんとですか!? じゃあ私と同じですね」
言った途端、彼女は笑顔を見せる。まさに全力の笑顔だ。
少し見惚れてしまったが、彼女はさっきの講義の時にいただろうか? 入学して約半年経っているが僕は彼女を初めて見る。
「そ、そうなんですか」
「はい」と大きく頷く。
「入ったはいいんですけど、難しくて」
「難しいですよね。僕もついて行くので精一杯です」
僕は彼女との会話に集中していた。
「単位は取ってますか?」
「一応は――苦しいですけど」
「凄いですね。私......今度の単位落としそうで......」
「ヤバいですね。何の単位ですか?」
「えっと......金本先生の授業です」
「あ〜。あの先生のレポートはコツがいるんですよ」
そう言って僕は昼食の間、彼女にレポートのコツとやらを教えていた。実際、コツがあるのかと言われると、啓一の受け入りだがある事にはある。
女の子とまともに会話するのは多分二年ぶりだろう。バイト先の女子高校生にさえ見向きもされない僕には新鮮な時間だった。
それに加えて彼女は、だんだんと話していくうちに打ち解けてくれたのかわりとよく喋ってくれた。いつかの啓一の女友達とは比べ物にならないくらい話し易かった。
「有本 紗英って言います。糸へんと少ないとを書いて、英語の英でサエって読みます。もしよかったら......またお話してくれませんか?」
僕は「はい」と即答した。断る理由はないが、こう改まって言われると恥ずかしい。
――――――――――――――
「紗英さんねぇ......」
午後の講義――僕と啓一はいつもの席に座り、ぼーっと必死に話す講師を眺めていた。
早速食堂での事を話したが、恋人と会っていた彼は興味がないらしい。
「で、いるの?」
僕もそれが気になっていた。
紗英さんは僕や啓一と同じく経済学部だと言っていたのに、この講堂にはいないからだ。今の講義は必修ではないからいないくても不思議ではないが。
「いないね」と軽く答える。
「お前に話しかけるなんて、その子も物好きだな」
一言多い。しかし啓一の言う事はもっともだ。
食堂の隅で一人昼食を食べる男など誰も声を掛けない。しかも可愛い女の子なんて、もはや都市伝説だ。
「それで? どうすんの?」
「とりあえずもう少し様子を見るよ」
「策士だねえ」
「......やっぱり行こうか」
「早とちりは禁物だぜ? こういうのはじっくり時間を掛けた方がいいんだよ」
僕は唸った。
啓一の言うようにじっくり待つのもいいかもしれないが、それはそれで不安だ。何せ相手はわざわざ僕のいた寝室を荒して置いて何も盗らなかった。
きっと空き巣に馴れているに違いない。そして怯えている僕を見て笑っているのだ。
「しかし凌も隅に置けないなあ。一人でいるところを話し掛けられるなんて」
「は?」
「いやだってそうじゃん。言ってみれば逆ナンだぜ? 貴重な経験だな」
「なあ、啓一......」
「ん?」と間の抜けた顔で僕を見る啓一。
「やっぱ何でもない」
「おいおい。気になるじゃんか」
「おやすみ」
この講義も寝ることにした。
4
「凌さん後お願いしますね。十時に上がっていいから」
バイト先の小太り店長が言った。
僕は「はい」と短く返し、時計を見る。八時半を指していた。
後一時間半。一人なら頑張ろうという気になれるのだが、今日は......
「佳奈ちゃんもね」
彼女がいた。
「は〜い」
彼女は最近入って来た女子高生だ。
格別可愛い訳でではなく僕との仲は最悪。何かあったという事もないが、どうやら僕が気にくわないらしく話し掛けても睨まれて適当な返事をされる。
店長は彼女の適当な返事を聞いて店を出た。珍しく急用らしい。
焦りながら店を出ていく小太り店長。転がった方が早いと思いますよ。
店内には僕と佳奈ちゃ......佳奈さんだけが残され、僕はぼーっと、レジから客のいない店内を眺めていた。
「......」
別に沈黙は嫌じゃない。しかしながら、彼女がいることによってやり切れないものがあった。
どこからともなく小さな鏡を出して髪を直している。僕はそれを注意することなく見て見ぬ振りをしていた。
何分か経って来客。
「いらっしゃいませー」
マニュアル通りの挨拶。
入って来た中年くらいの男は、特に店内を見回る事もなく僕のレジに来た。
「四十九番」
そして一言、無表情に言う。
コンビニのレジで番号を言う時は煙草を買う時だ。僕は後ろの棚にずらっと並べられた煙草から四十九番を取る。
男に見せた。
「こちらでよろしいですか?」
僕の確認に目線をどこかに向けながら頷く男。何となく腹が立つがこんな事は日常茶飯事。慣れっこだ。
僕はパッケージのバーコードを機械に通す。
機械から『年齢確認が必要な商品です』といつものように流れた。男は二十歳以下には到底見えないので無視する。
「四百四十円、丁度お預かりいたします」
僕が煙草の値段を言う前に男はお金を出していた。もちろん無表情で。
受け取ったお金を手のひらで確認し清算する。すぐにレシートが出てきた。
「レシートは......」
僕が言いかけた時には、すでに男は煙草を取り帰って行った。
「ありがとうございました」
小さな声で呟く。
何となく不愉快だった。いくら愛想が悪い客でも、あそこまで徹底されると腹が立つ。
「嫌な客......」
僕は誰にも聞こえないように呟く。
「そうですね〜。いらっしゃいませ〜」
そして佳奈さんの適当なさらっと言った言葉で余計に腹が立つ。
「いらっしゃいませー」
来客の顔もろくに確認せず気の抜けた挨拶をする。
入って来た客は小柄なようで、棚に隠れてしまった。
暇な僕は爪をいじる。
「あの......」
か細い声ではっとする。
「あ、すいま......紗英さん?」
僕の目の前には今日の昼初めて顔を合わせた紗英さんだった。
彼女はにっこり笑う。
「ここでバイトしてるんですね」
呆気に取られて目を丸くする僕に対して、紗英さんは特に以外といった様子もなく落ち着いた様子だ。
「まあ......はい」
「これ、お願いします」
彼女は缶ジュースを一本出す。
「百二十円になります」
「百二十円丁度お預かりします」
頭が混乱していた。
びっくりもしたし、なぜ彼女がこのコンビニに来たのか気になった。これまで一度も来なかったのに。
僕のマニュアル通りの応対に、彼女は常に「はい」と答えてくれた。
他の客がいない店内で二人のやり取りが微かに響いた。
「レシートは――」
「貰います」
きっぱり言った紗英さんにレシートを渡した。
レシートと缶ジュースを手に、彼女は笑顔を見せる。
「また来ますね」
「は、はい」
眼鏡の奥から真っ直ぐ見つめられて言葉が詰まった。
「ありがとうございました〜」
彼女の後ろ姿を佳奈さんが気だるそうな声で送る。
僕も言わなければならいのだが、不思議な感情が僕を包んでいてそれに浸っていた。
「合田さん?」
佳奈さんの声で我に返る。
「な、何でしょう?」
「......さっきの人、知り合いですか?」
彼女の顔は半分笑っていた。僕に女の子の知り合いがいたことが意外だったのだろう。
それにしても実に不快になる表情だ。どうやったらこんな表情にできるのか。
「え、ええ。まあ」
僕は気恥ずかしそうに答えた。
「ふ〜ん」
面白くなさそうな気だるい返事を聞いて僕は一息吐いた。
時計を見ると後五分で九時になるようだ。
鬱陶しい彼女を帰らせようか。
「そろそろ九時だから佳奈さん上がっていいよ」
「ホントだ」
佳奈さんは一度時計を確認すると、そそくさと事務室に入って行った。
「お先で〜す」
相変わらず早い。事務室に入ってまだ五分ほどだろう。
僕は誰もいなくなったコンビニで時が経つのを待っていた。
そして、その間ずっと紗英さんの事を考えていた。
――――――――――――
「ただいま」
返ってくる事のない挨拶を僕はする。
そして当然のように虚しく響いただけだった。
バイト中と帰り道、紗英さんがなぜコンビニに来たのかを考えていたが答えなど出るはずもなく、単なる偶然だと自分を納得させた。
それでも腑に落ちないが、我が家に帰ってきたらそれよりも重要な案件を思い出してしまった。
一先ず部屋中の鍵をチェック。
大丈夫だ。全て掛かっている。問題ない。
そういえば雨漏りはどうなったのだろうか。朝部屋を片付けたはいいがすっかり忘れていた。
もしかしたら倒れていて、床に水を染み込ませているかもしれない。
僕はあわててコップを探した。しかし、あの陶器のコップは見つからない。
床が濡れている様子はないので昨日の一滴だけだったようだ。
僕はベッドに座り、前屈みになって考え込んだ。
コップがないということは誰かが持ち出したのだろうか? だとすれば、寝室を荒らしたやつに違いない。
でも、コップなんか盗んでどうするのだろう。
いくらコップマニアでも、人の家に忍び込んで、しかも台所のコップではなく、わざわざ寝室の陶器のコップを盗んで行くなんて絶対にどうかしている。もしかしたらあの陶器のコップは貴重な骨董品なのか? だとしたら惜しい事をした。そんな事はあり得ないが。なぜなら、あれは骨董品でも何でもないからだ。恐らく父親が引っ越す時に勝手にダンボールに入れたのだろう。
さて、寝室で唯一なくなったのは陶器のコップだけだから、服を散乱させたのは偽造工作のつもりか。全く訳が分からない。
嫌がらせだとしても中途半端だ。何かが壊れていた訳でもなければ、靴に画鋲が入っていた訳も――いやそれは少し違うか。
何にせよ、もう荒らされる事はないだろう。
そう願いたい。
時間を見ると十二時を指していた。しかし大学で寝たせいか、全く眠たくない。
どうしたものか......
とりあえずシャワーを浴びて、教科書を眺めながらテレビを見ていた。
『夏目前! 本当にあった恐怖体験スペシャル!』
という安っぽい番組だ。
「おいおい、まだ五月だぞ......」
思わず僕は呟く。
僕は心霊現象や体験は信じる方ではなかった。娯楽としてはいいだろうが、僕自体体験した事がない。
それでもチャンネルを変えないのは、怖い物見たさだろうか。
教科書を眺めながらテレビに眼を配る。
古い廃墟に見たことないアイドルを夜中に一人で撮影させる、という企画のようだ。
しばらくして、テレビから女性の悲鳴。どうやら幽霊を見たらしく、その方向に手のカメラを向ける。
そこには白い服に身を包み、長い黒髪の女性が、かなりはっきりと映っていた。
女性はヒステリックに叫びながら走って引き返す。
......一人で暗い廃墟に行ったら、例え幽霊でなくとも突然出てきたら怖いだろう。
番組の成り行きを見ているうちに、僕と無関係には思えなくなってきた。
特に『心霊体験再現VTR』などというコーナーで一人で暮らしている女性の部屋が朝起きたら荒らされていた、という話しは最早僕の体験だ。
僕は教科書を捲ろうとしていた手を止めてそれを見ていた。
荒らされた様を見た女性は、その日から不可解な現象に悩まされる事になる。
壁の向こうから異音がしたり、窓に手形があったりと、そこら辺はよくありそうな作り話の範疇だった。
しかし、似ている点がいくつかある。
最終的に、彼女は霊的な何かに押し入れに引きずり込まれてしまう。
「......冗談じゃない」
僕はテレビの電源を消した。
とてもじゃないが見ていられない。無駄に恐怖感を煽られてしまった。
気分転換に何か飲もう。飲みかけのジュースがあったはずだ。
そう思って立ち上がった時、不意に携帯が鳴った。
啓一からだ。何だろう。
「もしもし」
『あ、凌? 今暇?』
啓一が十二時過ぎて電話を掛けてくるときは大体が遊びに行く時だ。
「暇だけど遊びに行くのは無理だ」
『つれないなぁ、だったら......』
急にノイズが入った。テレビでよくある砂嵐のような音が不規則に聴こえる。
「ノイズが入っているな。よく聴こえないぞ」
『......』
ついにノイズのみとなってしまった。
「おい啓一」
『......ほし......い......』
ノイズに混じった低い女性の声が間違いなく聴こえた。
一瞬で背筋が凍る。
『ころ......して......やる』
次の言葉が聴こえる前に僕は通話を切った。
しばらく携帯を見つめる。頭が混乱していた。
整理がつかない。
もう一度掛け直してみるか。
駄目だ。また聴こえてしまったら、きっと頭がおかしくなってしまう。
怖い。
あの女性の声は明らかにヤバい感じの声だ。
ついさっきテレビで見た白い女が目に浮かぶ。
僕は生唾を呑んだ。
また電話が掛かってきた。また啓一だ。
またあの声かもしれない。
出るかどうか躊躇っていると、やがて切れた。
僕はひとまず安堵する。
また携帯が鳴った。今度はメールだ。
さすがにメールで怖い思いはしないだろう。
メールは啓一からで内容は『ドッキリ大成功(笑)』だった。
見た途端理解した。
すぐさま啓一に電話をかける。
啓一はすぐに出た。
『もしもーし』
腹が立つくらいに軽快な声だ。
「もしもしじゃねーよ......びっくりしたじゃんか」
僕の心中にあったのは、怒りとは程遠い落ち着きだった。
『びっくりした?』
「した」
啓一の笑い声。
『悪い、悪い。ちょうどホラー番組やっててよ、それ見て掛けたんだ』
そういう事は僕じゃなくて彼女にやってくれ、と思う。
「暇人」
『実際暇だけどな。まぁそろそろ寝るよ』
「はいはい。おやすみ」
『おう。あ、一応気を付けろよ』
「うん。ありがとう」
『じゃーなー』
ぷつん、と電話が切れた。
啓一のさりげない気遣いは好きだ。彼の良い所を一つ言え、と言われたら真っ先にその事を言うだろう。それ以外は知らないが。
それより、そんな気遣いが出来るのなら本気なのか悪戯なのか分からない事は止めてほしい。
僕は一息付いた。
そろそろ寝るとしよう。啓一のおかげでなんだか疲れてしまった。
僕は一通り片付けてから寝室のベッドに入り目を閉じる。
だが甘かった。僕は想像してしまったのだ。
寝室に得体の知れない何かがいることを。
目を開けたら、何かが僕を見下ろしている感じがした。
僕は想像を振り払って別の事を考える。
有本紗英という人物についてだ。彼女の事を考えれば、そんな妄想などいつの間にか消えるだろう。
今日一日、間を置いて二回も彼女に会った。学食で話し掛けられた時は、今日は運がいい程度にしか思っていなかったが、コンビニで会った時は運命的な物を感じた。
明日また会えたらいろいろ訊いてみようと思う。
無意識の内に意識が遠退いて行った。
4
朝。
人に一日の中で好きな時間帯は何か、と訊かれたら、僕は朝と答える。
しかし昨日に続いて今日も、朝は最悪のものとなった。
「くそったれ」
僕は自分でも驚くくらいの下品な言葉を呟いた。
また荒らされていたのだ。
昨日の朝と同じように服が散乱している。気にくわなかったのは、昨日無くなったと思われる陶器のコップが散乱した服の上に横たわっていたことだ。
完全にバカにされている。
無駄とは思ったが、念のため部屋の鍵と貴重品を調べる。玄関、窓どれも鍵は掛かっているし、通帳や財布も同じ位置にあった。
二度目の侵入も何も盗る事なく立ち去ったようだ。
僕はしばらく考えた。
これで二度目の侵入になる訳だが、もしかしてこれからずっと荒らされ続けるのだろうか。
そんな事は願い下げだ。
やはり警察に話した方がいいのだろうか。しかし被害にあっているのは多分僕の部屋だけだ。
その事を考えると、言っても言わなくても同じ事だろうと思う。
僕は散らかった部屋を見てため息を吐いた。
片付けて大学へ行こう。
――――――――――――――
大学――いつもの席で啓一とつまらない講義を聞き流しながら、いつものように話していた。
「またか」
「まただ」
僕は今朝の出来事を啓一に話した。啓一はこうなる事を分かっていたみたいに言う。
「昨日盗ったコップを返すなんて、律儀な泥棒さんだな。案外、いいやつなんじゃないか?」
「寝室を荒らされてなかったらな」
仮に啓一の言う所の「いいやつ」だったとして、僕にどうしろというのか。
「もしかして、幽霊さんだったりして〜」
手を奇妙に動かしてからかう啓一。
「そういえば、昨日のあれはなんだったんだ?」
「電話の事か? 実はな、パソコンでホラー系の音を探してたらたまたま見つけたんだよ」
「種も仕掛けもあるって事?」
「そゆこと〜」
暇を持て余してホラーの音源を探すとは、啓一もなかなかの暇人だ。
「そういうのは彼女にやってあげろよ」
「無理無理、俺の彼女はデリケートなの」
僕は「はいはい」と軽く流した。
この様子だと彼女の事を相当大切に思っているらしい。
「よく出来た音源だったろ?」
悔しいが確かに怖かった。
「まあな。『欲しい』って言っていたけど、どういう意味?」
「欲しい?」
「最初にそう言ってたろ?」
「ちょっと待て、お前に電話する前に一度確認したが、言ってなかったぞ」
その言葉を聞いて固まった。
僕と彼の間にしばしの沈黙が流れる。
「おいおい冗談はよせよ?」
啓一の言葉に俺は無言だった。
冗談ではない。確かに聴こえたのだ。『欲しい』と。
「まさか......お前のそれってマジで幽霊の仕業なんじゃ......」
僕の顔が強ばっていたのか、僕の顔を見た途端、啓一のへらへらした笑みが消える。
「......かもね」
「かもね、って......結構ヤバいんじゃ」
「大丈夫だよ。コップを丁寧に返してくれる幽霊がいてたまるか」
苦し紛れの否定をする。
「そ、そうだよな」
僕と啓一は顔を見合わせて笑った。
――――――――――
食堂はいつもの如く人が多かった。その光景は砂糖に群がる働きアリを思わせる。その中の小さなアリが一匹、群れから離れて片隅で昼食を食べている。
それが僕だ。
啓一は愛しの彼女とどこか僕の知らない世界へと、午後の授業をさぼって行ってしまった。経済学部には啓一以外の知り合いは数人いるが、知り合いであって友達ではない。昼食に誘われないのは、彼らに僕より優先すべき人がいるからだ。
孤独感は慣れるが、周囲の目には慣れるものではない。
さっさと食べて午後の授業の前に一眠りしよう。
僕は半分ほどになったカレーをスプーンですくった。
味もそこそこなカレーを口に運ぼうとしたとき、はっとして手を止める。
「こんにちは、凌さん」
声の方を見ると紗英さんが向かいの席にいた。
「こん......にちは」
予想外の事に驚いて言葉が詰まる。
「昨日振りですね」
彼女は手に持ったカレーを机に置いて座った。
「そうですね」と一瞬見とれながら僕は言う。今日の紗英さんは一段と可愛く見えた。
「驚きました? 昨日のコンビニの事」
「そりゃ、びっくりしましたよ。あのコンビニの近くに住んでるんですか?」
彼女は軽く笑った。
「はい。実はあのコンビニまで百メートルもないんですよ」
僕は感心したように相づちを打った。
「でも、半年前からあそこでバイトしてますけど、来たことないですよね?」
僕が言うと彼女は困った顔をした。
訊くべきではなかったのかもしれない。
「あまりあのコンビニには行きませんからね」
彼女の苦笑いを見て後悔した。
「あ。そういえば――」
気まずい雰囲気が流れるかと思いきや、彼女自ら話題を変えるように切り出す。
「昨日教えてもらったレポート、上手く作ったね、って誉められました」
彼女がぱっと笑って、僕の後悔はどこかに消えた。
「おお! それはよかった!」
ちょっと大げさに喜んで見せて、彼女に合わせてにっこり笑った。
そこから話が弾んだ。
昼休みの一時間など、彼女と話していたら無いに等しく感じる。
午後の授業も彼女の隣で受けた。皆はいつの間にか仲良くなっている僕と彼女に驚いているみたいで、じろじろと観察するように見ていた。しかし残念ながら恋人という関係ではない。
彼女はいろいろな事を僕に話してくれた。好きな音楽や本、最近は映画をよく観る事。そのおかげでまた視力が落ちたことも。
「最近何かありました?」
彼女のこの一言に僕の口が滑った。
「いやー、何か空き巣に入られてるみたいなんだよ」
彼女の驚きの声は講堂に響かずに、休憩時間でざわついた中に消えていった。
「それ本当ですか?」
「うん。今日も朝寝室が荒らされてたんだよね」
軽い気持ちで言ったつもりが、彼女はひどく真剣に捉えたようで
「警察に言った方がいいですよ」
と深刻な表情で言ってくれた。
「でも、何も盗られてないし、部屋にもしっかり鍵が掛かってていたんだよ? 警察が相手にしてくれるかどうか......」
「心配です」
他人事ではない、と言ったような表情を彼女は見せる。啓一とは大違いだ。
「......そうだ!」
彼女がいきなり大きな声を出した。びくりと反応する。
「こんなのはどうでしょう? 寝室にビデオカメラを置いて、一晩部屋を撮るんです。犯人の顔も犯行現場も撮れますよ!」
自信に溢れた言い方であったが、僕には不安が残る。
「また荒らされろと......?」
僕が言うと、彼女は「あっ」と言って肩をすくめた。
「でも警察には言いたくないんですよね? 物的証拠も撮れますし......一晩中起きてます?」
「いや、それは......」
一晩中起きていて空き巣と対峙するなどもっての他だ。そのくらいなら、一晩部屋を録画する方がいくらかまともに聞こえる。
「よかったら、私のビデオカメラ、貸しますよ?」
「それは持ってるから大丈夫だけど、上手くいくかなあ?」
「きっと上手くいきますよ」
紗英さんの笑顔で僕はあっさりと決断した。
――――――――――
「もしもし? 啓一か?」
紗英さんは先に帰り、僕は啓一に電話してビデオカメラについての計画を話すところだった。
「んだよ、今いいとこ」
結局、啓一は大学を休んだ。大体の想像は着くが一体なにをしているのだろうか。
「ビデオカメラで部屋を録ってみようと思うんだ」
「......ちょっと待ってくれ」
そう言って携帯の奥からガタガタと音が聴こえた。啓一が移動しているのだろう。女性の声も僅かに聴こえる。それで僕は、今日一日啓一が何をしていたのか大体の予想はできた。
「よし、いいぞ。ビデオカメラはあるのか?」
どうやら廊下のような場所に出たようで、啓一の声が響いて聴こえる。
「うん。家にある」
「暗視装置は?」
「ないと思うけど、部屋の豆電球を付けておくよ」
「そうか......バイトは?」
「一週間休み取った」
「じゃあ、心配ないな。何かあったらすぐに俺に言えよ? できる限りの事はしてやるから」
「うん。ありがとう」
割りと真剣な啓一の言葉は心強かった。彼なら僕の身に何かあっても任せられる気がした。
「んじゃ、俺もベッドで頑張ってくるわ」
声が一転していつもの軽さを感じさせる声になる。
「ほどほどにな」
電話越しに僕たちは笑って、軽く言葉を交わすと通話を切った。
僕は大学を出てアパートへと帰る。
――――――――――――
帰った僕はまず部屋の戸締まりを確認する。日中は大学に行っていたから当たり前だが、すべて鍵が掛かっていた。
さて、いつもならバイトの時間だが今日から一週間休みだ。店長は渋々ではあるが了承してくれたから問題はないだろう。日頃の真面目な態度が突然の連休を可能にした。
次にビデオカメラだ。確か、実家から持ってきた物があるはずだ。
僕は押し入れの中を探してビデオカメラをひっぱり出した。実家でもあまり使っていなかったから新品同様だ。
説明書に目を通して録画の仕方を確認する。
試しに部屋を録ってみたが、動作に問題はないようだ。
「HDDに保存?」
説明書にそう書かれていた。僕の機械音痴は昔からだ。
しばらく説明書と格闘し、何となく理解した。
どうやらビデオカメラに内蔵されたハードディスクというものに映像が記録されるらしい。
もっと分かりやすく書いてくれ、と心から思う。
ビデオカメラの設置場所は寝室を見渡すことのできる、隅っこのクローゼットの上だ。録画を気づかれないように適当な物を置いて目立たなくする。
準備はできた。
後は、夜を待っていつものように眠るだけだ。
何も考えないよに窓から見える夕日をぼんやりと眺めながら夜を待った。
5
「......寝るか」
テレビも見飽きて、何となく教科書を眺めていた僕は一人呟いた。
午前一時。そろそろ眠気も忍び寄って来てあくびを一つする。
教科書を閉じて立ち上がった。
寝室に入ってベッドに潜り込む。
忘れていた。録画のスイッチを押さないといけない。
僕は寝室の明かりを豆電気にして、ビデオカメラの録画スイッチを押した。途中で充電が切れないようにコードをひっぱってコンセントに挿し込む。
その時、僕の中で緊張が走った。ビデオカメラに何が写るのか分からない不安と、今日を我慢すれば毎朝不快な思いをすることがなくなるという安心からだった。
再びベッドに入って目を閉じる。
緊張で寝付けないと思ったが、不思議とすぐに眠る事ができた。
――――――――
朝。
部屋を荒らされ始めてから三日目の朝だ。
当然の如く寝室には服が散乱している。
すぐに戸締まりを調べるが、やはり開いてはいない。
でも僕は不快な気分ではなかった。むしろその逆だ。
ビデオカメラは昨日と同じ位置にあるということは、寝室を荒らした犯人はばっちり撮れたということだ。
僕はビデオカメラを手に取り、小さな液晶画面で再生しようとした。
すると、再生ボタンの数センチ手前で指が止まる。
嫌な予感がした。
何を思い立ったのか、僕は気が付くとビデオカメラをテレビに接続してテレビ画面で見れるようにしていた。
後はリモコンを操作すれば見れる。
......押せなかった。
僕の頭は思い出さなくてもいい大学の事を思い出させて、僕を大学に向かわせた。
それは単なる逃げだと、大学に到着した僕は悟った。
――――――――――
啓一は今日は休みのようだ。
僕に一言も言わずに彼が休むのは珍しかったが、今日に限って休むとは啓一も酷な事をしてくれる。
つまらない講義は右から左へと流れて全く頭に届かなかった。
僕の頭では、録画した内容を見るべきかどうか、それだけがぐるぐると巡っていた。
「凌さん?」
そんな時に紗英さんが僕の席の隣に座ってくれた。
「あ、おはよう。紗英さん。遅かったね」
はっとして彼女に挨拶する。
「寝坊しちゃって、遅れちゃいました」
そう言う彼女は、たかが遅刻など許される笑顔でそう言った。僕が許しても意味はないのだが。
「で、どうでした?」
笑顔から一転、眉を寄せて彼女は訊いてくる。
「うん。部屋も荒らされてたし、ばっちり撮れてるはずなんだけど、なかなか見れなくてさ」
情けない話だ。
「やっぱり怖いですよね。寝ている時に撮った部屋をみるのは。何が映っているのかも検討つきますし」
「うん」
「......よかったら、私も一緒に見ましょうか?」
「だめ......それはちょっと」
とっさに口から出た言葉がそれだった。直感的に彼女には見せてはならないと感じたのだ。
「そ、そうですよね。私が見ても解決にはならないですよね」
彼女はしょんぼりとしているように見える。随分と悲観的に捉えているようだ。
「いや、ありがたいし嬉しいけど、僕一人で見るべきだと思うんだ」
「......そうですか」
彼女は肩をすくめた。
「そういえばさ、最近のビデオカメラってHDDっていうのに録画するんだね。昨日知ってびっくりしたよ」
僕は無理矢理に話題を変える。
「あ、そうなんですか」
ややぎこちない雰囲気が流れてしまった。
「容量はいくつ何ですか?」
「容量? ってなに?」
「ハードディスクドライヴの容量です。何メガとか何ギガとかの」
全く聞き慣れない言葉だった。
「そういうの苦手なんだよね。僕の頭じゃ難しいよ」
「そうなんですか。私、いろいろ教えてあげますよ。こうみえて詳しいんです」
どうやら紗英さんは機械に強いらしい。本人が言うように、見た目からはそういう印象はないが人は見かけによらない。
紗英さんのパソコン講座は、講師の話しと比べるまでもなくおもしろかった。途中、理解しにくい単語もあったが生き生きと話す彼女を見ているとそんなことはどうでもよく思える。
そのおかげで僕は、家であったことを忘れていあられることができた。
しかし、そんな時間は僕の意思とは無関係に駆け足で過ぎ去る。
帰路に付いた僕は一人の寂しさを改めて噛み締めた。
―――――――――――――――――――
アパートの僕の部屋に着いて沈みかけた太陽を背に鍵を開ける。
「ただい……」
言いかけて止まった。
玄関に足を踏み入れた途端言ってはいけない気がしたのだ。
僕はゆっくりドアを閉めて、注意深く部屋に入っていった。
別に何がいるという訳ではない。居間には今朝準備して結局見ることのなかったビデオカメラがあったし、寝室も今朝と同様荒らされたままだった。
でもこの感じはなんだろうか。
その時、僕は最悪の事態を想像してしまった。
もしかして、霊的な何かの仕業?
その場に固まってしまった。一瞬ではあったが、何かの気配を感じたのだ。
大丈夫だ。そんなはずはない。啓一に驚かされたからそう思うだけだ。
自分に言い聞かせる。
早く録った内容をチェックしよう。
僕は寝室を出て居間の机の前に座った。
6
リモコンを通して伝わった信号は、テレビ画面にビデオカメラに収めた映像を映した。
薄暗い部屋で僕が寝ている。小さく呼吸をしながら気持ちよさように寝ている。
ビデオカメラに表示されている時間は午前二時だ。さすがにまだ現れないだろう。
僕はビデオカメラを操作して早送りする。テレビ画面は急速に動いているように見えるのに、ほとんど動かない僕のおかげで止まっているようにも見える。
午前二時四十五分をビデオカメラの時計が示したとき、僕は早送りを止めた。
……誰かが映っている。しかし、薄暗い部屋の中でははっきりとは見えない。ただ、人間である事は確かだ。
咄嗟に違和感を覚えて巻き戻す。止めた。
その何者かが出現する前だ。
数秒経ってその何者かが現れる。
現れた位置は、カメラの位置の右下からぬっと現れるのだ。
その間、寝室の扉は閉まったままで、開いた様子はない。
その事を知った瞬間鳥肌が立った。
寝室の扉を開かずにカメラの右下から現れたということは、最初からその場所に居たということだ。さらに付け加えるなら、ビデオカメラの位置はクローゼットの上。僕が寝るときはもちろん人など居るはずがない。
という事は?
今もクローゼットの中にいる事になる。
真後ろのクローゼットを目で確認しようとするが、見れなかった。見れるはずがなかった。
さらに僕の思考は止まらない。
僕は荒らされた服を朝クローゼットに片付けていた。まだ録画映像の先は見ていないが、この何者かがクローゼットに戻る様子が映っていたら、僕はすでにその何者かを発見している。
しかしそれは実態のある者に限って言える事だ。
未だに発見していないという事は――
僕は思考を止めた。
そして自分でも驚くほどの速さでビデオカメラとテレビの接続を切り、携帯と財布、家の鍵とそのビデオカメラを持って振り返る事なく家を出た。
ドアを閉めて震える手で鍵を掛ける。
アパートから離れ、すっかり暗くなってしまった細い一本道を歩く。
とりあえずバイト先のコンビニの方へひたすらに歩く。
一本道の脇にある家を何件か通り過ぎて行くと、頭も少しは落ち着いてきた。
僕は立ち止まる。
コンビニまで後数百メートルもない。
僕は携帯をジーンズのポケットから出して啓一に電話をかける。
「もしもし? どうした?」
相変わらずの軽い口調だった。
「今どこ?」
「部屋だけど?」
「一人?」
「そうだ」
僕の問いに戸惑いながらも答える啓一。
「僕のバイト先のコンビニ、どこか分かる?」
「ああ、からかいに行ったことあるからな」
「悪いんだけど、そこまで来てくれないかな?」
「……見たのか?」
啓一の口調が変わった。普段聞かない鋭い口調だった。
「うん」
「……分かった。数十分掛かるけど待っててくれ、なるべく車跳ばすから」
「ありがとう」
「じゃあな」
僕は「うん」と一言返して通話を切った。
コンビニに向かって歩き出す。
大きな通りに出ると人がそこそこいて妙な安心感を感じた。
でも道を歩く人たちにとっては、片手に小型のビデオカメラを持った僕は不思議な人に見えるかもしれない。
コンビニに着いて中に入る。
聴きなれた入店の音が軽快に鳴って僕を迎えてくれた。
レジには店長と僕の存在など気にも留めず髪を弄っている加奈さんがいた。
店内にはそれなりにお客もいるようで、暇というわけでもなさそうだが。
「いらっしゃいませ〜」
小太り店長が言った。続けて加奈さんも髪に視線を向けつつ言う。
「あれ? 凌さん? 大学の用事って聞いたけどどうしたの?」
小太り店長が僕に気づいて言った。特に驚いた様子はない。
「いや〜、ちょっと喉が渇いちゃって。ここでジュースでも買おうかなと」
このコンビニで買う気はさらさらなかったのだが、喉が渇いていたのは事実だ。
「そうなんですか。休むのもたまにはいいですけど、突然言われても困るんだよね」
「あ、はい。すいません」
コンビニの店長なんて所詮こんなものだ。今の僕にはそのぼやきにも反応する元気がなかったようで、気にも留めなかった。
「ところで、そのビデオカメラはなんだい?」
「いや、別に気にしないでください」
僕は愛想良く笑って誤魔化す。
適当に店内をぶらついて数分。
啓一がコンビニに入ってきた。僕を見つけて手招きする。
コンビニを出て啓一の車の助手席に乗った。啓一も運転席に座る。
「ありがとう」
僕は静かに言う。
「いいんだよ。で?」
僕は啓一にビデオカメラを渡した。
受け取った彼は、小さな液晶を見る。
「……なるどね。全部見たか?」
彼は呟いた。
「まだ」
「じゃあ見た方がいい」
険しい顔でビデオカメラを突き出す啓一。僕はそれを受け取り、再生ボタンを押した。
右下から突然現れた何者かは、まず寝ている僕を見下ろしていた。
数分見ていても動く様子がないので、次の行動まで早送りをする。
ビデオカメラの時計で三十分後、ようやく動きを見せた。
何者かはビデオカメラの方に振り向く。
「……っ!」
その時僕は声にならない声を短く発した。
短い髪にシャープな輪郭。
眼鏡こそ掛けていないが、何者かの正体は紗英さんだったのだ。
紗英さんはクローゼットを開いて、次々と服を放り出していく。
小声で「ホシイ......ホシイ......」と言いながら。
一通り服を出すと、満足したのかカメラの右下へと消えていった。
「紗英さんか?」
丁度見終わって頭の整理がつかない僕に啓一は訊いた。
静かに「うん」と答える。
「そんじゃ、行くか」
啓一は言って車のエンジンをかけた。
「どこに?」
「お前の家に決まってんだろ」
――――――――――――――――
「鍵は?」
僕の部屋のドアの前に僕と啓一はいた。
恐らく啓一はクローゼットの中身を確かめるつもりなのだろう。僕は到底賛成できなかったが。
無言で鍵を出す。しかし啓一は手で出さなくていい、と指示した。
鍵が開いていたのだ。確かに閉めたはずなのに。
僕は生唾を呑み込む。
啓一がゆっくりドアノブを回してゆっくりと開いた。
電気が付いている。
さらに玄関には女の子が履くような靴が一足。
啓一はすぐに状況を判断したようで、その靴を見た途端部屋に入り込んだ。
僕も慌てて彼の後を追う。
「啓一!」
居間に入った僕は目の前の光景に動きが止まった。
そこには目を丸くして怯えた様子で立ち尽くす紗英さんと、握り拳を作って今にも殴り掛かりそうな啓一がいた。
「てめえ、ここに何しに来た」
啓一が発した言葉は相手を威圧する声としては十分で、紗英さんは一瞬僕を見る。
「わ、私は......ただ......鍵が開いていて......心配だったから」
彼女の声は喉の奥から絞り出したような声だ。
「鍵が開いていた? ふざけた事言ってんじゃねえ!」
怒鳴りつける声と同時に啓一の手が動く。
「啓一! 待て!」
彼の背中に向かって僕が言うと動きが止まり、彼は振り返った。
その形相はまるで鬼のようだ。
「彼女じゃない」
僕は自分でも驚くほど冷静に言う。頭の中は多少混乱していたが。
「何で言い切れる」
「ビデオカメラで録画する方法は紗英さんが言ったんだ。それにあの暗い中で、眼鏡も掛けずに見えるはずない」
紗英さんは、一体何が起こっているのか、なぜ自分が怒鳴られたのか分かっていないようだ。
「ビデオカメラを貸してくれ」
落ち着いた啓一はそう言った。
僕は手に持っていたビデオカメラを渡す。すると彼は、それをちょっと操作して紗英さんに渡した。
「きゃっ!」
啓一の渡したビデオカメラの液晶を見た途端、紗英さんは小さく悲鳴を上げて身を引く。
「覚えは?」
「ない......ないです。凌さんの部屋に入ったのは初めてなんです」
どうやら紗英さんも混乱しているようだ。
「とりあえず落ち着こう」
僕は二人に座るように勧めた。
二人は黙ってその場に座った。僕も二人と三角形を作るように座る。
「紗英さんは何で僕の部屋に?」
まずはそこだった。紗英さんがこの部屋来た理由を知らないと啓一も頭を冷やせないだろう。
「心配だったんです。ビデオカメラで撮った部屋を見るなんて......少しでも力になれたらと思って部屋に来てみたら鍵は開いていたし、気になって入ったんです。そしたら、凌さんと......啓一さん? が来て、驚いて」
啓一と紗英さんは初対面だったことに今更気づいた。
「なるほど、変な偶然もあるもんだ」
啓一が毒づいた。あまり信じていないようだ。
紗英さんはしょんぼりと下に視線を落とす。
「と、とにかく、ビデオカメラに映っているのは紗英さんじゃないんだね?」
僕が訊くと、彼女は小さく頷いた。
「そんなもん、確かめれば分かるだろ」
啓一は言い放って立ち上がった。そして僕が背中を向けていた寝室にずかずかと入る。居間の電気で僅かに照らされた寝室を見るとなんだか寒気を感じた
「啓一、何を――」
僕が言ったときには、彼は閉じられたクローゼットの引き戸に手を掛けていた。
そして勢いよく開いた。
僕の背中に悪寒が走る。啓一もなのか、そのままクローゼットの中を見つめていた。
「どうしたんですか?」
紗英さんが言った言葉で我に返る。彼女は平気なようだ。
「いや、ちょっと寒気が」
僕は彼女に言った。
啓一は戻ってきてあぐらをかいて座る。行き場のなくった手をお腹の前で組んでいるが、その手は震えていた。
「何かいたか?」
啓一は黙って首を横に振った。それを見てひとまず安心する。
「ただ……」と啓一が続ける。
「なんて言うか……禍々しかった」
僕の悪寒はきっとそれだろう。啓一は何かを間近で感じたみたいだ。
「凌、今日は俺の家に泊まれ」
啓一の申し出に僕は賛成した。こんな部屋には居たくない。ましてや、寝ることなど無理だろう。
「あと……紗英さん?」
啓一が話しかける。
彼女は小さく返事をした。
「さっきはごめん。多分君のせいじゃないと思うけど、今日の所は帰ってくれないか?」
「……分かりました」
紗英さんはやや不機嫌そうに答える。
「あ。凌さん、メールアドレス訊いてもいいですか?」
まるでそれが来た目的であったかのように、ぱっと彼女の顔が明るくなった。
もちろん僕に拒む理由はない。
「いいよ。何かあったあ連絡するね」
携帯を出して赤外線で交換する。
「はい」
彼女は笑顔で答えて、部屋を出て行った。
こんな状況でなかったら小さくガッツポーズをしているところだが、今はそうもいかない。
「青春やってる場合じゃないぞ」
啓一が息を吐きながら言う。
「嫌われたな」
「そういう問題じゃないだろ。ほら、早く行くぞ。この部屋にはあまりいたくない」
僕は軽く準備をして啓一共に部屋を出た。
―――――――――――――――――――――
「あった。凌、これ見てみろよ」
僕は啓一の家にいた。家と言っても彼もアパートなのだが、僕の部屋とは大分雰囲気が違うように感じる。
彼はパソコンを弄りながら、寝る準備をする僕に言った。
パソコンを覗き込む。
「せい……れい?」
「どうやったらそうやって読めるんだよ。生霊だよ」
パソコンの画面には『生霊』と大きく書かれて、その下にずらりと説明が書かれていた。
「俺の予想だけどな、お前の部屋を荒らしてる奴は人間じゃなくて霊だよ。じゃなきゃあんな無意味なことしない」
簡単に『霊』の存在を彼は肯定したが、僕にはまだ信じることができなかった。
「確かに無意味だけど、幽霊の仕業とは考えにくいよ」
「誰かが真夜中に侵入してなんのメッセージもなく立ち去ったのか? そっちの方が考えにくい。鍵も掛かっていたんだろ?」
「そうだけど……」
「しかもビデオカメラにばっちり映ってたんだぜ? しかも映っていたのは、お前が数日前に知り合った紗英さんと来たもんだ。疑い要がない」
「でも紗英は違うって言ってたじゃん」
「ああ、紗英さんは嘘は言っていないし、嘘を吐くようにも見えない。そこでこの生霊のこの部分を見てくれ」
彼がパソコンの画面を指差す。
そこには『怨念だけでなく、強い感情で無意識に他者へ飛ばす事例も見られる』とあった。
「これはつまり……どういうこと?」
この説明を見ても何の事だかさっぱり理解できなかった。
啓一は溜め息を吐く。
「この生霊ってのはな、霊感が強い奴なら意識的に相手に憑かせる事が出来るんだ。多分紗英さんは霊感が強くて、無意識的に飛ばしてしまったんだろうな」
「強い意志で? 僕に?」
「やっぱりか」と彼は洩らす。
「あのなあ、食堂の隅っこで一人で食ってる男に女の子が話し掛けるか? 心配だって言って家まで来るか? 普通だったらねえよ」
「……ということは――」
「惚れてるな。しかもかなり。無意識に生霊を飛ばす程だからな」
「喜んでいいよね?」
「どうだかな。これからのお前に掛かってるよ」
「それってどういう意味?」
「そのまんまの意味」
啓一は鼻で笑う。
「さーて寝るか。原因も分かったことだし」
「対処方とかないのかな?」
「そんなの簡単だろ。ほら、寝るぞ」
僕の言葉は一蹴され、もう少し調べたかったのにパソコンを閉じられた。
彼は自分のベッドに横になる。僕も仕方ないので寝ることにした。
即席のベッドに横になって僕は考えていた。
結局のところ、原因は紗英さんにあったわけだがどう解決すべきなのか。
いくつか考えが浮かぶがどの考えにも疑問符が付いていた。
明日、紗英さんと会って直接確かめてみよう。そうすれば全てわかる。
7
朝起きて僕はすぐに大学へ向かおうとした。
「今日は日曜日だぞ」
啓一に言われて足を止める事になったが。
二人で話した挙句、メールで紗英さんを呼んで話す事にした。
何度か彼女とメールのやり取りをして、お互い知っている喫茶店で昼に待ち合わせすることになった。
啓一に送ってもらい、三十分前にその喫茶店に到着したのは誤算だったが。
「三十分間、台詞でも考えておくんだな」
彼は笑顔で言って愛しの誰かの元へと車を走らせて行った。
一人で待っている間、僕は慣れないコーヒーを頼んで時間を潰す。
喫茶店の中は落ち着いた雰囲気で昼だと言うのに人はあまりいなかった。
ゆったりとした店内のBGMが僕を落ち着かせる。
台詞など考えないようにしていたが、逆にそう意識することで緊張が高まってしまった。
十分後。まだ二十分の時間を残して、店員の「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。
僕は入り口を見る。
紗英さんがいた。
彼女は僕にすぐ気づいて僕の向かいに座る。
「こんにちは」
紗英さんの言葉に僕も返す。
「こんにちは」
「昨日は大丈夫だったんですか?」
心配そうな彼女の顔が僕を焦らす。
「それなんだけど――」
「ご注文は?」
本題を言いかけたとき店員が来て紗英さんに訊いた。空気を読んでくれ。
「えっと、彼と同じものを」
「かしこまりました」
彼女の返事を聞いて店員は奥へと戻る。
僕はそれを見、彼女と目が合って再び口を開いた。
「生霊って知ってる?」
自分が嫌いになるくらいの直球だが、この他にどう切り出していいか分からなかった。
「……生霊ですか?」
紗英さんは突然何を言い出すのか、というような困った顔をしている。
「うん。知ってる?」
「……」
彼女はしらばらく考え込む。その間に運ばれて来たコーヒーにも無反応で、店員はばつの悪そうな顔をして去って行った。
「知っています」
しばらくの沈黙を破り彼女が申し訳なさそうに言った。「えっ」と僕は思わず洩らす。
「……やっぱり飛ばしていたんですね。無意識とは言え、ごめんなさい」
彼女は顔を伏せながら言う。
「あのビデオカメラを見たときから、何となくそんな気はしていたんです。あれは間違いなく私でしたから……」
「紗英さんは霊感が強いの?」
「はい。でも私にとってそれは要らない物でしたし、意識しなければいづれなくなるんじゃないかな、って思っていたんです」
紗英さんが自覚していた事に僕は驚いた。啓一も僕も、彼女は自分自身に霊感があることを知らないでいたと思っていたからだ。
「実は、私の家系は皆霊感が強くて、だからそういった話にはわりと詳しいつもりでいたんですが......」
彼女は、再び申し訳なさそうにうつ向く。
それは彼女が意図的に事を起こしたのではない、という事を十分に表していた。
それを見た僕は、ようやく肝心な事を話す決心ができた。
「……昨日、生霊について調べたんだ。強い気持ちを持っていると、意識をしなくても飛ばしちゃうんだね」
「そう……みたいです」
「今日はね、別に暗い話しをしに来たわけじゃないんだ」
そう、今日はそんな話をしに来たんじゃないのだ。
「今日は僕の気持ちを伝えに来たんだ」
僕の心臓は破裂寸前で、彼女の顔を直視できなかった。
「その前に私もいいですか?」
僕が口ごもっていると、見かねたように彼女が言う。
「あのコップを私に貸してくださいませんか?」
僕は目を丸くする。
コップ? コップって言ったのか? いや、何かの間違えなのかもしれない。
「......コップ?」
僕は聞き直す。
「はい。コップです」
ああ、間違いない。彼女はコップと言っている。
彼女に関連するコップについての情報は、僕の中では一つしかない。しかし、その情報も彼女には直接関係のない話だと思う。
「えっと......消えたコップの事?」
「消えたんですか!?」
彼女は身を乗り出す。まるでその顔は、世界の終わりを見たような顔だ。
店の中にいた客の何人かが興味深そうに見ている。
「なんでなくしたんですか! おじいちゃんの大切な陶器なのに! どこに消えたんですか?!」
彼女のこんな大声は初めて聞いた。泣きそうな顔をしている。
「お、落ち着いて、紗英さん。ちゃんとありますから」
「......あるんですか? 本当にあるんですか?」
僕が頷くと安心したのか、安堵の表情を見せながら座った。
「よかった......」
息を吐くように言う。
余程大切な物らしい。とてもそうには見えなかったが。
「どういう事か、説明してもらえる?」
彼女が落ち着いたのを見て切り出す。
「はい。私の母方のおじいちゃんは陶器を造るのが趣味で、私が幼い頃もいろいろな陶器を見せてもらいました」
ゆっくりとした口調で話す紗英さんに僕は一つ頷いた。
「......長い間会っていなかったのですが、ついこの間他界しました」
衝撃的だったのだろう。さらりと言った彼女の目が物語っていた。
「その陶器って言うのが......」
「はい。凌さんの部屋に勝手に上がってしまった時に台所にあったコップの陶器を見て確信しました。あれはおじいちゃんの言っていた陶器です」
「言っていた?」
「あ、まだ言ってなかったですね。おじいちゃんが他界した次の日に、夢におじいちゃんが会いに来てくれたんです」
僕の近しい身内はまだ死んだことがないので分からないが、死んだ人間が夢に出てくるというのは実際にあるらしい。僕もその手の話は聞いた事があった。
「夢の中でおじいちゃんは言いました。私の大学にいる合田という苗字の男の子が、大切にしたコップを持っていると」
「それが......僕?」
「はい」
力強く彼女は言った。
まさか雨漏りの受け皿代わりにしたあのコップがこんな形で繋がっていたなんて......
「という事はつまり、紗英さんは大学の名簿から僕を探して――」
「その必要はありませんでした。陶器がどこにあるのかも、誰が持っているのかも、全部生霊を通して私に伝わって来ましたから。それが生霊だとは知りませんでした」
......そうだったのか。
開いた口が塞がらないとは正にのことだ。
訊きたい事は山ほどあったが、一つ確実に言える事がある。
「紗英さんの生霊はおじいさんの陶器に引き寄せられたんだね」
紗英さんは小さく頷く。
早とちりしなくて良かったと心から思う。
「貸してくれますか?」
「貸すだけでいいの?」
「......夢の中でおじいちゃんは、今の持ち主に大切に持っていてほしい、と言っていたので、あの陶器はあなたの物です。でも、おじいちゃんに報告しないといけません。陶器は大切にされていると」
彼女はにっこり笑う。
台所に置きっぱなしで大切にしているとは言い難いが、これから大事に保管しよう、と僕は決心する。
「私からはそれだけです。いろいろ迷惑をかけてすみませんでした」
「いやいや、そんな大切な陶器を持てるなんて光栄だよ」
「ところで、凌さんの伝えたい事というのは?」
覚えていてくれたようだ。
しかし、僕は伝える勇気が湧いてこなかった。何せ彼女は僕に興味があったのではなく、陶器に興味があったのだから。
「紗英さんの話に集中してたら忘れちゃったよ」
はははとわざとらしく笑って見せる。
「そう......ですか」
そう言った彼女はどこか残念がっているようにも見えなくもなかった。
エピローグ
紗英さんと話したあの後、僕の部屋が荒らされる事はなくなった。そして、いつも通りの気持ちのいい朝を迎える事ができた。
あることが気になった僕は実家に電話した。
というのも、あの陶器は元々父さんの持ち物だったからだ。
父さんによると、父さんの父――つまり僕の祖父が昔友人から譲って貰ったのだと言う。僕の考えだと、その友人というのが、紗英さんのおじいさんだ。確定はできないけれど。
友人であったであろう僕の祖父と紗英さんのおじいさん。そしてその孫の僕と彼女が同じ大学で同じ学部。
これが運命と言うのか、それともただ世間が狭いだけなのか。
どちらにせよ、僕は紗英さんと会う事ができた。
そして今から彼女のおじいさんのお墓に向かう。大切に包んだ陶器を持って。
「おい、凌。もう行くぞ」
部屋のドアから啓一の声。僕はドアを開けた。
「うん。早く行こう」
僕たちは車に乗る。
「今日、伝えるんだろ? お孫さんを僕にくださいって」
「そうだね、ついでに頼んでおこうか」
「おいおい、今度はおじいさんの霊が出ても俺を呼ぶなよ?」
「冗談だよ。紗英さんにしっかり伝える」
「幸運を」
そんな会話をしながら到着したお墓には、すでに紗英さんがおじいさんのお墓の前にいた。
晴天に照らされた彼女が立ち上がり、ぎこちなくお辞儀をする。僕もつられてお辞儀をした。
顔を上げた彼女はややずれた眼鏡を直し、にっこり笑う。その笑顔はこれまでの中で一番美しかった。
僕も応えるように笑う。
この後、僕は紗英さんのおじいさんに手を合わせ、彼女に思いを伝える訳だが、それはまた別の話。
あとがき
私はホラーが苦手です。
今回の短編を執筆している間結構びくびくしてました。
主人公を見てて、気の毒だなあと思う事も多々ありました。
でもメガネっ娘の生霊ならいいかも(笑)
余計なフラグを立ててしまいが、「夜のビデオカメラ」どうでしたか?
面白かったですか? 面白くなかったですか?
初ホラーなので怖かったと思ってくれれば大成功です。
遅くなりましたが最後まで見てくださりありがとうございました。
まだまだ物書きとしてひよっ子ですが、精進していきますのでよろしくお願いします。
誤字脱字を見つけてしまった方はお手数ですがご一報を。
感想もお待ちしております。