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那須くん

作者: 粉 ミル子

 那須くんは、とてもじゃないが利口とはいいがたい少年だった。


 小学六年生にもなって掛け算の七の段が言えない、鬼ごっこに夢中になりすぎて二階の窓から飛び降りた、校庭のイチョウの木に登り頂上で給食を食べた、飼育小屋でうさぎと共に一夜を過ごしひどい風邪を引いた……。当時のエピソードを全て語ろうと思ったら、きっとたくさんの時間が必要になるだろう。

 それはあまりにも無駄なので省略するが、とにかく、那須くんはお馬鹿で風変わりで、少しがさつな男の子だったのだ。そして自分で言うのもなんだが、繊細で病弱、やせっぽっちな女の子だった私は、クラスメイトの彼のことが苦手だった。

 

 今思えば、その「苦手」の中にほんの少し溶けて混ざっていたのはきっと憧憬、羨望にも似た気持ちだった。当時そのことに気付けていたなら、私の少女時代は全く違ったものになっていたと思う。


 那須くんは大きなカメラをよく持ち歩いていた。それは古ぼけてはいたが、子どもの私が一目見てわかるほど立派なものだったので、おそらく親のおさがりか何かだろうと思っていた。

 しかし私は特に親交があったわけではないので、被写体になったこともなければ彼がどんな写真を撮っているのかも知らなかった。ぼんやりと、この人は日頃の行いに似合わずやけに大人びたことを趣味としているのだなぁという認識があっただけだ。


 だから小学校最後の日、卒業式後の校庭で、彼に突然カメラを向けられた私は驚いてしまった。

 引っ越すんだろう、と那須くんは自分の坊主頭を触りながらぶっきらぼうに尋ねた。彼の言うとおり、私は一週間後に東京へ移り、そこの中学校に入学することになっていた。私は生まれつき割りと深刻な持病がある子どもで、引っ越しもその病の権威といわれる医師が東京にいることで決定されたのだ。そんな事情はクラスの大部分に広まっていたので、那須くんがそれを知っていても別段不思議ではない。

 ただ、今までほとんど言葉を交わさず六年間を過ごしてきた彼が、私をカメラのレンズ越しに覗いたことに驚いた。


「死んだらぶっころす」


 わけのわからないことを言う那須くんは、やはり馬鹿だ。

 しかしあまりにも真面目な顔をするので、私は力いっぱい頷いた。

 ぜったい治せよ、一生死ぬなよ、とまた無茶苦茶なことを言うと、彼はおもむろにシャッターを切った。

 そして、私が反射的にピースサインを作ったのを見て、笑った。



 それから私は一生懸命に生きた。那須くんとの約束を破るわけにはいかないと思ったからだ。



 そして今、人並みに健康になった私はあの卒業式以来三十年ぶりに、那須くんと一方的な再会を果たした。

 火曜日の昼下がり、私は自宅のリビングに、彼はテレビの中にいた。

 それはどこか遠い国の戦争を伝える報道番組で、那須くんはその地に滞在し写真を撮り続けている戦場カメラマンとして紹介されていた。ぎりぎりまで刈り込んだ坊主頭はそのままだったが、口周りやあごを覆うもじゃもじゃとした髭のせいで実年齢よりだいぶ老けて見える。

 私は食い入るようにブラウン管を見つめた。那須くんのいる地域は特に戦況が激しく、危険な場所であることは誰の目にも明らかだった。

 彼はあの頃と同じように、カメラを抱え、ぶっきらぼうな態度で、しかし現地の子どもには時折笑顔を見せていた。

「那須くん、死んだらぶっころすよ」

 私はテレビの中の那須くんに言う。汚い言葉を使うなと普段は息子に注意してばかりいるが、今は家に私ひとりだ。誰にも聞かれることはない。


 東京に引っ越した後、一度だけ、小学校時代に仲の良かった女の子たちと会った。

 そのときに教えてもらったことがある。

 那須くんがいつも持ち歩いていたカメラは、彼の父親の形見だった。

 あの頃、那須くんはいつもどんな写真を撮っていたんだろう。あの日、彼がファインダー越しに見た私は、どんな顔をしていたんだろう。心から知りたいと思った。人づてではなく、彼から直接聞きたかった。


 画面に映る彼の腕は、真っ黒に日焼けしていてたくましい。

「生きろよ、那須くん」

 私は同じ地球上の、別世界のように遠い土地にいる彼に届くことを願い、何度も何度も呟いた。







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