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BANされた俺、なぜかゲーム運営側で働く ~VRMMORPGにクソ真面目に行政法をぶち込んでみました~  作者: Altis―法律を物語に翻訳中―
第2章 誰がために救済は成る 第2節 電気羊は救いの夢を見るか ―Do Electric Sheep Dream of Grace?―

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白の後に

※今回は、本文の3倍近いの補足メモがあります。


読み飛ばしても問題ありません。

ハル編で行われていた処理や、それぞれの立場について、大変詳しく整理しています。


アイさん曰く、「必要な説明です」とのことです。

……そういうことにしておきます。


最後に、改めてですが、本作は法律を参考にして作ったフィクションです。


現実とは、少し違う顔をしています。





 白い部屋が、白に沈んだ。


 ハルも、ハクも、その中に消えた。




 気がつくと、俺は管理空間に立っていた。


 白い床。


 白い壁。


 白い表示板。


 さっきまでいた部屋と、色だけなら似ている。


 でも、違う。


 ここには、まだ俺の影がある。


 隣には、アイがいる。


「終わったのか」


 俺は聞いた。


「人事公平ルートの主要処理は完了しました」


「主要処理、全部じゃないんだな」


「はい」


 アイが、白い表示板を開いた。




【完了報告】


【本人通知:完了】

【療養状態移行:開始】

【現場補助担当解除:完了】

【責任記録:維持】

【被害ログ:維持】

【組織改善接続:完了】






 完了。


 その二文字が、やけに薄かった。


 ハルが救われたとも書いていない。


 許されたとも。

 ハクが最後までそこにいたことも。

 たどたどしい歌が、白い部屋に残ったことも。


「救われたのか」


 俺は言った。


「不明です」


 アイは短く答えた。


「ハクと同じこと言うな」


「同じ記録を見ています」


「だろうな」


 白い部屋を思い出す。


 ハルの傍にいたハク。


 泣きもせず。

 笑いもせず。

 それでも、最後まで席を立たなかった。


「記録は閉じられました」


 アイが言った。


「閉じられた?」


「はい」


「消えたわけじゃない」


 確かめるように言うと、アイは静かに頷いた。その動きに合わせるように、白い表示板の一部がこちらへ近づいてくる。



【責任記録:維持】

【被害ログ:維持】

【組織改善接続:維持】



「閉じることと、消すことは違います」


「お前までハクみたいなこと言うな」


「必要です」


 あまりに真面目に返すので、少しだけ笑いそうになった。


 笑える話ではなかった。たぶん、これからもしばらくは笑っていいのか分からないままなのだと思う。それでも、胸の奥に詰まっていたもののどこかに、ほんの小さな隙間ができた。そこから、ようやく息が入ってきた。


「気持ち悪いくらい、整理されるな。……整理したら、気持ちも片づくのか」


「いいえ」


 その答えだけは、ひどく早かった。


「整理は、気持ちを消すものではありません」


「じゃあ何だよ」


「混ざらないようにするものです」


 俺は表示板を見る。


 ハルの責任と、ハルの状態。組織の責任と、個人の責任。俺の怒りと、ハルに対して必要だった処遇。俺が受けたものと、それを二度と繰り返さないために組織が直さなければならないもの。


 文字にしてしまえば、どれも別の行に収まっている。


 現実の方は、そんなに行儀よく並んではくれない。


 傷ついた人間は、怒る。追いつめられた人間は、間違える。間違えた人間にも痛いものがあり、だからといって、その痛みが誰かを傷つけたことまで消してくれるわけではない。


 どれも本当だから、混ぜてしまうと厄介なのだ。


 かわいそうだったから仕方がない、にもできるし、間違えたのだから何をされても仕方がない、にもできる。どちらか一方へ傾ければ、話はずっと簡単になる。


 けれど、その簡単さの下には、たぶん誰かが残される。


 ハルは、いろいろなものを一つの箱へ入れすぎたのだと思う。


 自分が間違えたことも。怖かったことも。助けてほしかったことも。もう戻れないと思ったことも。


 そうして最後には、自分が何を抱えているのか、自分でも分からなくなってしまった。


 俺だって、それほど違わなかったのかもしれない。


 失ったものも、腹が立ったことも、誰かに責任を取らせたかったことも、全部まとめて一人の名前を貼った箱へ押し込めば、ずっと楽だったはずだ。


「俺の救済って、これなのか」


 聞いてみると、アイは少しも迷わなかった。


「一部です」


「しょぼいな」


「完全な回復ではありません」


「知ってる」


 戻らなかったものは、ちゃんとある。


 ランキングも、報酬も、人間関係も。あのとき感じた嫌なものも、怖かったものも、全部が元の場所へ戻ったわけではない。


 何もかもが元通りになって、「よかったね」で閉じるような結末は来なかった。


 たぶん、来なくていい、とはまだ思えない。


 それでも、なかったことにはされなかった。


 俺の被害は、俺の被害として残った。

 

 ハルの責任も、ハルの責任として残った。


 顔の見えない組織が間違えたことも、それとは別の場所に残されている。


 誰か一人を悪者にして、全部をそこへ捨てなくていい。


 誰か一人をかわいそうな人にして、全部を許したことにしなくてもいい。


 そのどちらでもない場所が、どうやらここにはあるらしい。


「でも」


 アイが言った。


「あなたの被害も、あなたの経験も、ちゃんと記録に残ります」


「それ、いいことか?」


「評価は未了です」


「嫌な返事だな」


 けれど、たぶん、それでよかった。


 いいことだったと決めてしまえば、あの白い部屋で見たものまで、何かのために必要だったことになってしまう。


 そんなふうには、まだ思えない。


 ただ、あったことを、なかったことにしない。


 今は、それくらいで十分なのかもしれなかった。


「分かったよ」


 俺は言った。


「いや、分かりたくないけど。分かった」


「記録しますか」


「……そこはしていい」


「記録します」


 短い表示が一つ増えた。


【役割理解:更新】


「短いな」


「十分です」


 アイが表示を閉じる。


 白い光が静かに退いていくと、管理空間は急に広くなったように見えた。何もなくなったからではない。見えなくなったものが、さっきまでよりずっと多くそこにあるような気がした。


 そのことを考えたところで、身体の奥に張りつめていたものが、ようやく少しほどけた。


 近くの作業台へ手をついて、その縁へ腰を下ろす。


 白い床が少し遠くなった。


 それだけなのに、身体が自分のところへ戻ってきたような気がして、長く息を吐いた。


 アイは何も言わずに、それを見ていた。


「疲労を確認しました」


「確認するな」


「顔に出ています」


「……そんなにか」


「はい」


 そう答えたあと、アイは手元の記録板へ目を落とした。


 何かを書き込むのかと思ったが、指は動かなかった。


 少しして、そのまま閉じる。


 光が消えた。


 記録されなかったものが一つ、俺たちの間に残った。


 アイが一歩、近づいてくる。


 さっきまでなら気になったかもしれない距離だった。けれど、腰を下ろしている俺と、立っているアイの目の高さが少し近づいた、それだけのことのようにも思えた。


「何だよ」


 白い袖が、ゆっくり持ち上がる。


 伸びてきた手は、迷う様子もなく俺の頭へ向かった。


「あなたは頑張りました」


 そして、そのままアイの顔まで少し近づく。


挿絵(By みてみん)


「待て」


 身体の方が先に逃げた。


「今、何をしようとしている」


「頭部への接触を伴う労いです」


「要は、いいこいいこだろ」


「はい」


「認めるのかよ」


「事実ですので」


 アイの手は止まらない。


 急いでいるわけではないのに、その淡々とした動きの方が逃げ道をなくしていく。


「俺、そういう趣味ないから」


「趣味の確認はしていません」


「そういう問題じゃない」


「疲労軽減に有効な可能性があります」


「俺には効かない」


「未確認です。確認する価値はあります」


「確認するな」


 立ち上がって、アイの腕の下をすり抜けた。


「逃げるぞ」


「宣言は不要です」


「追うなよ」


「追跡の不必要性は確認されていません」


「なら、そのまま止まってろ」


「はい」


 数歩離れて振り返ると、本当にアイはそこから動いていなかった。


 ただ、俺に届かなかった手だけが、しばらく空中に残っている。


 その姿が妙に所在なさそうに見えて、可笑しいのに、少しだけ胸に引っかかった。


「未実施として記録します」


「絶対するな」


「希望に従います」


 ようやく、手が下りた。


 そのときにはもう、アイの顔はいつものものに戻っていた。


 だから、そのまま終わってもよかったのだと思う。


 いつものように、妙なことをする女だと笑って。次の仕事へ進めばよかった。


 けれど、何かが引っかかったままだった。


「……なあ」


「はい」


「なんで急に、あんなことしようとしたんだ」


 アイはすぐには答えなかった。


 さっき俺の頭へ届かなかった自分の手を、一度だけ見た。





「私の支援は、ハルには届いていませんでした」





「…………」


 思っていたより、ずっと重い答えだった。


「表示はしていました。追加確認も、相談ルートも、保留への警告も。ハルがそれらを確認したことも、私は記録から把握していました」


「……ああ」


「ですから、必要な情報は渡せていると判断していました」


 そこで、声が止まった。


 ほんのわずかな間だった。


 それでも、その先の言葉だけは、それまでと同じところから出てきたようには聞こえなかった。


「違いました」


 言い訳のない言葉だった。


「ハルは読んでいました。ですが、支援として使えていなかった。処理へ戻り、そのまま止まり続けていました」


 白い部屋で見た記録が浮かぶ。


 追加確認推奨。相談ルート案内。既読。未使用。




 表示はあった。


 ハルも見ていた。


 だから、届いているように見えた。


 届いていないものが、届いた顔をして記録に残る。


 それはたぶん、何も出していなかったことより、気づきにくい。




「私は、それを拾えませんでした」


 アイは静かに続けた。


「再確認は行われず、あなたへの処理も継続しました」


「それ、お前一人の責任じゃないだろ」


「ですが」


 声を荒らげることもなく、俺の言葉を止める。


「私の責任がなくなるわけでもありません」


 アイも、箱を分けているのだと思った。


 ハルが間違えたことを、ハルが苦しかったことで消さない。組織が間違えたことを、ハル本人の責任の中へ隠さない。


 そして、自分が見落としたものも、誰か別の名前の下へ押し込まない。


「私は、表示を確認したところで、支援の確認を終えていました」


 下ろした手の指先が、ほんの少しだけ動いた。


「その先で、ハルがどう受け取ったのか。使える状態だったのか。止まっていなかったのか。そこまで見ていませんでした」


 その言葉を聞いて、さっきの手が少し違って見えた。


 どうすれば届くのか分からなくなった人間が、それでも何かを渡そうとして、ひどく不器用な方法を選んだ。


 たぶん、それだけなのだ。


「ですから、方法を変える必要があると考えました」


「……それで?」


 さっきまで頭の上を目指した手を見る。


「いいこいいこをしようとした?」


「はい」


「振れ幅がでかいんだよ」


「改善には試行が必要です」


「俺で試すな」


「希望には従いました」


「そうだけどさ」


 言い返してから、黙る。


 理由は聞いた。説明もされた。いつもなら、それで終わりだった。


 けれど、アイはまだそこにいた。




 何かを言いたそうに見えた。




 そう見えるからといって、本当にそうなのかは分からない。少し前なら、きっとそこを勝手に埋めていた。


 だから、今度は待った。


 アイはしばらく黙っていた。




「私は」





 やがて、言う。


 その先が、すぐには続かなかった。




「また、同じことをするかもしれません」




「同じこと?」


「必要だと判断して、支援しているつもりで、相手が確認したことも記録で見て」


 藍色の瞳が、まっすぐ俺へ向く。


「それで十分だと判断して、その先を見ないまま進むかもしれません」


 いつものアイなら、もっと上手く言ったのだと思う。


 確認できる事実と推測を分けて、責任の範囲を整理して、誤解されない言葉を選んで。


 今は、そのどれよりも先に、怖さが言葉の下にあった。


「ハルと同じように、自分では必要なことをしているつもりのまま、どこかで止まるかもしれません」


 アイはハルを責めているのではなかった。


 自分と同じだと言いたいわけでもない。


 ただ、あの白い部屋へ続いていた道が、自分の足元にもあることを知ってしまったのだと思う。


「そして」


 ほんの少しだけ、声が小さくなる。


「あなたに対しても、私は自分の判断だけで、伝わっていることにしているのかもしれません」


 そこで、ようやく分かった。


 これは、ハルだけの話ではなかった。


 自分が差し出したものが、必要な形では届かなかったこと。


 そのことに気づかないまま、ハルが一人で止まり続けたこと。


 そして、その間も俺への処理は止まらなかったこと。


 もし、その同じ形を。


 今も俺との間に作っていたら。





「……そんな私が、こわくないのですか」




挿絵(By みてみん)

 不器用な問いだった。


 安心させてほしい、と言うには遠すぎて、正しい評価を求める問いにしては、あまりにも本人の側へ寄りすぎている。


 だからたぶん、これは説明でも確認でもない。


 アイが、自分のために聞いたのだ。


 少しだけ考える。


 けれど、答えは難しくなかった。




「怖くないよ」




 その瞬間だけ、アイの顔から、いつもの形がほどけた。


 藍色の瞳がわずかに見開かれる。


 ほんの小さな変化だった。それでも、普段あまりにも整いすぎている顔が崩れたせいで、一瞬だけ、ひどく頼りなく見えた。


 たぶん、予想していなかったのだ。


 慎重な答えも、曖昧な保留も、間違える可能性についての指摘も。


 いくつか用意していたのかもしれない。


 そのどこにも、「怖くない」はなかった。


 アイはすぐに、いつもの顔へ戻ろうとした。


 その前に、俺はまっすぐ彼女を見る。




「ちゃんと伝わってるよ」




 アイの目が、俺を見る。


 少しだけ間を置いた。




「少なくとも、俺には」




 世界中に届いているなんて、俺には言えない。


 ハルには届かなかった。


 次は大丈夫だなんて約束もできないし、アイはまた何かを間違えるのかもしれない。


 俺だって、たぶん間違える。


 それでも俺は、このアイがこれまで差し出してきたものを覚えている。


 必要以上に丁寧な表示も、何を言いたいのか分からない沈黙も、帰ろうとした俺の前に何の説明もなく置かれた、あの黒いコーヒーも。


 全部を正しく分かっていたとは思わない。


 今だって、全部は分からない。


 それでも、何も届いていなかったわけではない。


「……そうですか」


 アイの目元が、ほんの少しだけやわらかくなった。


「うん」


 俺に届いたからといって、ハルに届かなかったことが軽くなるわけではない。失敗が成功へ書き換わるわけでも、責任が消えるわけでもない。


 ただ、届かなかったものの隣に、届いたものも置いておける。


 どちらかを消さなければ、もう一方を残せないわけではない。


 たぶん、そういう場所が必要なのだ。


 人間にも。


 アイにも。


 白い表示板の端で、次の通知が静かに灯った。




【組織改善接続:開始待ち】

【支援到達性評価基準:更新対象】

【保留検知条件:見直し対象】

【次回処理:未設定】




「まだ続くのか」


「はい」


「本当に終わらないな」


「終わりません」


 アイは表示板へ視線を向けたまま答える。


「記録の流れは、終わるためではなく、続けるためにあります」


 その言葉を聞きながら、俺はさっきまでいた白い部屋を思い出していた。


 ハルも、ハクも、もうそこにはいない。


 けれど、だからといって、最初からいなかったことにはならない。


 俺が傷ついたことも、ハルが間違えたことも、それでもハルが苦しかったことも、組織が見落としたことも、ハクが最後まで隣の席を離れなかったことも。


 どれか一つだけを残すために、ほかを捨てなくていい。


 記録というものは、人を救うほど優しくはないのだと思う。名前を残したところで、痛みが薄くなるわけではないし、失ったものが戻ってくるわけでもない。


 それでも、痛かった人間に、痛くなかったことにされない場所を残すことはできる。


 間違えた人間を、その間違い一つだけで世界の外へ追い出さずにおくこともできる。


 傷つけられた側に、「あの人も苦しかったのだから」と、自分の傷をしまわせずに済む場所も。


 どちらかだけを抱くのではなく、どちらもそこにいたのだと残しておく。


 それは救いではないのかもしれない。


 けれど、救いという名前をつけなくても、人が戻ってこられる場所くらいにはなれるのだろう。




 白い管理空間には、もうデイジーベルは聞こえなかった。




 それでも、あのたどたどしい歌は、終わったというより、遠くなっただけのような気がした。


 聞こえなくなったものまで、なかったことにはならない。


 表示板には、次の仕事が待っている。


 組織改善。支援到達性。保留検知。


 どれも、放っておけば誰かがまた同じところで止まるかもしれない仕事だった。


 少し前の俺なら、そのまま手を伸ばしていたと思う。


 必要だから。仕事だから。まだやることが残っているから。


 そういう理由は、俺にとってずっと便利だった。何かをしたいのか、それともただここにいたいのか、自分に聞かなくても済む。


 表示板へ伸ばしかけた手を、途中で止めた。


「……アイ」


「はい」


 振り返る。


 アイは、まだ少し離れたところにいた。


 さっき俺が逃げた分だけ遠くなって、それでも離れていくわけではなく、いつものようにこちらを見ている。


 その距離を見ているうちに、ふと、昔の黒いカップを思い出した。


 帰ると言った俺の前に置かれた、説明の足りないコーヒー。


 あのときは、何のつもりなのか分からなかった。


 今だって、本当のところは分からないのかもしれない。


 それでも、その分からなさごと受け取っていたことだけは、もう分かる。




「コーヒー飲むの、付き合って」




 アイの返事が、少し遅れた。


「私も、ですか」


「お前を誘ってるんだけど」


「はい」


「そこ確認する?」


「確認は必要です」


「今のはたぶん、いらない」


「承知しました」


 本当に承知したのかは分からない。


 けれど、分からないまま隣にいてもいいことを、俺は少しずつ覚え始めている。


 アイが手を上げると、白い作業台の上に二つのカップが現れた。


 黒い液体から、細い湯気が上がる。


「砂糖は、一個半でよろしかったですよね?」


「ああ。合ってるけど」


 少し考える。


「今日は一個でいいかな。そんな気分」


 アイは何も聞かなかった。


「承知しました」


 角砂糖が一つ、黒い水面へ落ちた。


 小さな波紋を作って、ゆっくりと沈んでいく。


 それを見ているうちに、昔なら二つだったことを思い出した。いつの間にか一個半になって、今日は一つでいいと思った。


 だから何だというほどのことでもない。


 人の好みなんて、少しずつ変わる。


 何かを経験したからといって、きれいに別の人間になれるわけでもない。


 昨日までの自分を置いていけるわけでもない。


 ただ、同じものを飲んでも、前とは少し違う味がする日がある。


 それくらいなら、きっとある。


 カップを受け取ると、掌へやわらかな熱が移った。


 隣では、アイも自分のカップを持っている。


 白い表示板には、まだ通知が残っていた。


 仕事は終わっていない。


 ハルのことも、これで綺麗に終わったわけではない。


 俺の被害だって、記録に残ったからといって癒えたわけではなかった。


 それでも、その全部を今すぐ次へ運ばなくてもいい時間が、ここにはあった。


 コーヒーを一口飲む。


 いつもより、少しだけ苦い。


 その苦さを消したいとは、今日は思わなかった。


 隣で、アイが静かにカップを持っている。


 何かを話さなければならない気もしなかった。


 白い部屋で傷ついた人も、間違えた人も、最後まで隣にいた人も、どこにも消えてはいない。


 俺たちも、まだここにいる。



挿絵(By みてみん)



 少し苦いコーヒーが冷めるまでくらいは、このままでいい。



 そんな気がした。


【アイの補足メモ】


※最初に、一点だけ説明しておきます。本作では制度の正確性には可能な限り配慮していますが、本章については物語として成立させることを優先し、実際の制度における機関の構成、権限、役割の一部を再構成しています。また、本作に登場する人物、組織、制度は、あくまでフィクションです。


その前提で、今回の人事公平ルートについて補足します。


一 人事公平ノードについて


本編に登場する《人事公平ノード》は、国家公務員制度における人事院の役割を主な参考にしています。ただし、人事公平ノードがそのまま人事院に対応しているわけではありませんし、ハクが単独でハルの処遇を決定したわけでもありませんので、まずはその点から整理します。


1 任命権者と人事院


国家公務員の任命、配置、分限、懲戒については、原則として任命権者の権限と責任において行われます。国家公務員法55条1項でも、任命権が法律に定める機関へ属することが定められています。


一方で、人事院は各府省の日常的な人事管理を直接行う機関ではなく、中立的な立場から、


・公平な人事行政

・職員の利益保護

・不利益処分に対する審査


などを担う専門機関です。


本編の人事公平ノードも、このうち「当事者から一定の距離を置き、公平性を確認する」という考え方を参考にしています。


2 不利益処分についての審査請求


国家公務員法90条1項では、職員が一定の不利益処分を受けた場合、人事院へ審査請求を行うことができると定められており、人事院はその審査を通じて、処分を承認し、修正し、または取り消すなどの判定を行います。


これは、処分を行った機関だけで結論を完結させるのではなく、第三者的な立場から、その処分の適法性や公平性を改めて確認するための制度です。


ただし、現実の不利益処分審査は、基本的には処分が行われた「後」の手続です。


これに対して本編では、ハクが処遇の確定前から、


・事情聴取

・状態確認

・責任整理


を行っています。


この部分については、現実の制度をそのまま再現したものではありません。人事院制度にある公平性確保の考え方を参考にしながら、それを物語上、処遇確定前の段階まで広げています。


3 勤務条件に関する行政措置の要求


職員を保護するための仕組みは、不利益処分に対する審査だけではありません。国家公務員法86条には、勤務条件について行政上の措置を要求することができる制度も定められています。


本編では、ハルも《相談ルート》が表示されていること自体は確認していましたが、結果として利用することはできませんでした。


ここは混同しやすいので、少し分けて説明します。


本編に登場する相談ルートと、国家公務員法上の行政措置要求は同じ制度ではありません。本編の相談ルートは、現場内部で支援を求めるための経路として設定されていますが、行政措置要求は、職員が人事院に対して勤務条件の改善を求める制度ですから、対象も目的も手続も異なります。


ただし、両者を考えるうえで共通する問題があります。


制度が存在していることと、本人が実際にその制度を利用し、支援へ到達できることは同じではありません。


画面に相談先が表示されていたこと、制度そのものが用意されていたこと、形式上は利用可能な状態だったことだけを確認して、「支援は用意されていたので問題ありません」と整理することはできません。


本人が相談してもよいと思える状態だったのか、何を相談すればよいのか自分で整理できていたのか、そして実際に支援へ接続できたのか。そこまで確認して初めて、支援の仕組みが機能していたかどうかを評価できます。


本編で、


【相談ルート表示済】


という記録だけをもって、組織側の対応を十分なものとは整理しなかったのは、そのためです。


二 人事公平ノード・ハクと上位判断


次に、ハクが今回どこまで担当していたのかを整理します。


本編において、ハク自身はハルの最終的な処遇を決定していません。ハクが担当したのは、


・事実確認

・本人の聞き取り

・責任整理

・状態整理

・組織側要因整理

・被害ログ整理

・処遇方向の仮整理


までです。


その後、


【人事公平ルート:仮整理送付】


が行われ、任命権者に相当する上位確認へ接続されました。さらに、その上位確認から、


【仮整理:承認】

【補足:一部修正あり】


という結果が返されています。


つまり、本編では、調査をする者、論点を整理する者、最終判断をする者、そして確定した内容を実行する者を分離しています。これは、誰がどこまで担当したのかを、後から記録上確認できるようにするためです。


公平性を担当する機関だからといって、調査、判断、執行のすべてを一人へ集中させてよいわけではありません。本編で最終実行の前に上位確認が入っているのも、この役割分離を示すためです。


三 主人公とアイの立場


次に、彼と私の立場についてです。


主人公は、ハルが行った一時停止処理によって実際に被害を受けた本人です。そのため本件では、


【被害関係者関与制限:維持】


とされており、主人公は被害ログを提出し、被害を受けた当事者として意見を述べることはできますが、ハルの処遇内容を決定する立場には置かれていません。


被害を受けた事実を記録することと、その被害を理由として相手方の処遇を決定することは、別の問題だからです。そのため本編では、主人公の意見を、


【被害関係者意見】


として記録しています。


一方で、私もハルの処遇を決定する立場ではありません。


私は前任現場補助担当を支える補佐役として本件の経過に関わっていましたから、完全な第三者ではありません。そのため今回は、ハルの処遇内容そのものを評価する立場から意図的に距離を置き、


・現場側記録の維持

・手続経過の確認

・確定した内容と実行表示との整合性確認


を担当しています。


主人公から「このボタンを押していいのか」と聞かれた場面でも、私は「この処遇は正しいです」とは答えていません。確認したのは、主人公の前に表示されている実行端末が、上位確認を経て確定した内容を、そのまま次の処理へ送るものであるという一点だけです。


本文で私が普段よりも少し距離を置いていたのは、主人公が被害を受けた本人であり、同時に私自身も前任補助担当として本件に関与していたからです。そのどちらにも直接踏み込まず、今回については最後まで記録と手続の側に立つ。それが、私に割り当てられていた役割でした。


四 分限および懲戒の公正


分限と懲戒は、どちらも職員の身分に関わる制度ですが、目的は同じではありません。


国家公務員法74条1項では、


「すべて職員の分限、懲戒及び保障については、公正でなければならない。」


と定められています。


また、地方公務員法27条1項でも、


「すべて職員の分限及び懲戒については、公正でなければならない。」


とされています。


公正な処遇を行うためには、問題となった結果だけを見るのではなく、本人が何をしたのか、その行為についてどのような責任があるのか、現在も職務を遂行できる状態なのか、組織側にはどのような要因があったのか、そして、どの制度の目的に基づいて処遇するのかを分けて確認する必要があります。


本編では当初、


【ハル】

【組織】

【被害】

【境界線】


とされていた項目を、


【ハル本人の責任】

【ハル本人の状態】

【組織側要因】

【被害ログ】

【境界線】


へ分けました。


これは、本人に責任があることと、本人が現在の職務を継続できる状態ではないことが同時に成立し得るからです。同じように、本人の処理によって被害が発生したことと、その処理へ至る過程に組織側の問題が存在したことも両立しますし、被害を受けた側の怒りを記録することと、その怒りだけを根拠に相手方の処遇を決定しないことも両立します。


本編で、


「箱が増えたな」

「必要です」

「少なかったら?」

「誰かが潰れます」


という会話をしていたのは、そのためです。


分けることは、責任を薄めることではありません。本人の状態を考慮した結果として被害まで消さないためであり、被害が発生したことを理由に本人の状態まで無視しないためであり、組織側の問題を理由に個人の行為を消さず、逆に個人の行為だけを見て組織側の問題を隠さないためです。


複数の事情を分けて扱うのは、責任を曖昧にするためではありません。どの事実を、どの制度の目的によって扱っているのかを明確にするためです。


五 分限処分


国家公務員法78条では、職員を本人の意に反して降任し、または免職することができる場合として、主に次の事情が定められています。


・人事評価または勤務状況を示す事実に照らして、勤務実績がよくない場合

・心身の故障により、職務遂行に支障があり、またはこれに堪えない場合

・その官職に必要な適格性を欠く場合

・官制、定員または予算上の都合により、廃職または過員が生じた場合


分限は、職員の義務違反に対して制裁を科すことを主な目的とした制度ではありません。現在の職務を継続させることが適当なのか、現在の官職へ置き続けることができるのかを、勤務実績、能力、適格性、心身の状態などから判断する制度です。


したがって、一度失敗したこと、問題のある処理を行ったこと、あるいは被害を発生させたことだけから、直ちに分限処分の結論が決まるわけではありません。


勤務実績不良を理由とする分限処分については、勤務状況を示す具体的な事実に加え、


・本人に対してどのような指導を行ったか

・どのような支援を行ったか

・改善の機会を与えたか

・改善の可能性が残っているか

・配置転換その他の措置が可能か


といった点も確認対象になります。


人事院規則11―4でも、勤務実績不良を理由とする降任または免職について、指導その他の必要な措置を行ったにもかかわらず、なお勤務実績が不良であることが明らかな場合を前提としていますので、単に一度の失敗が確認されたというだけで、直ちに分限免職へ進むものではありません。


本編のハルについては、


・一時停止処理を実行した

・追加確認を行わなかった

・相談ルートを使用しなかった

・個別事情の確認が不足していた

・主人公に被害を発生させた


という事実が確認されています。


しかし、それと同時に、


・保留の増加によって判断負荷が高まっていた

・小規模な誤処理をきっかけに過剰に慎重になっていた

・相互に緊張する指示を同時に処理しようとしていた

・相談すべき内容を自分で整理できなくなっていた

・止まったことを認めれば、担当者として終わると思っていた

・判断能力の低下が疑われた

・現在の職務へ直ちに復帰できる状態か確認できていなかった


という事情も確認されています。


そのため本件では、「問題となる処理を行った」という事実だけで処遇を決めるのではなく、


【現在、現場補助担当を継続できるか】

【療養後に職務能力を再確認する必要があるか】


という分限上の問題を中心に整理しました。


上位確認で、


【処遇方向:分限中心】


とされたのは、そのためです。


なお、地方公務員については、地方公務員法28条1項が、勤務実績不良、心身の故障、職に必要な適格性の欠如などを理由とする降任または免職について定めています。


六 休職および療養


国家公務員法79条では、職員を本人の意に反して休職させることができる場合を定めており、その一つとして、心身の故障のため長期の休養を要する場合が挙げられています。


休職は懲戒処分ではありません。本人の義務違反に対して制裁を科す制度ではなく、一定期間、職務から離れた状態に置くための制度です。


そのため、


【責任がない者だけが療養できる】


ということではありませんし、反対に、


【職務上の責任がある者には療養を認めてはならない】


ということでもありません。


職務上の責任が存在するかどうかと、現在の本人が療養を必要とする状態にあるかどうかは、別々に確認する必要があります。


本編における、


【現場補助担当から解除】

【療養状態へ移行】

【能力評価および復帰可否確認を後日実施】


という処遇は、この考え方に対応しています。


ハルはその場で元の職務へ戻されたわけではありませんが、同時に、将来にわたって復帰不能と確定されたわけでもありません。まず現場から離し、療養状態へ移行させ、その後に、


・療養後の心身の状態

・担当業務に必要な判断能力

・複数の指示を整理できるか

・困難が生じた際に支援を利用できるか

・同じ業務へ戻すことが適切か

・別の業務や段階的な復帰が可能か

・組織側の支援体制が改善されているか


を改めて確認することになります。


本編でハルが、


「戻れない?」


と尋ねた際、ハクは、


「今は戻れません」


と答えています。


さらに、


「あとでは?」


という問いに対しては、


「確認します」


と答えました。


これは、復帰できると約束したわけでも、復帰できないと最終決定したわけでもありません。現在の状態では復帰させず、将来については療養後の状態と職務能力を確認したうえで判断する、という意味です。


地方公務員についても、地方公務員法28条2項が、心身の故障のため長期の休養を要する場合などの休職について定めています。


そして、ここで重要なのは、療養へ移行させることと、本人の責任を消すことは別だという点です。そのため本編では、


【療養状態移行:開始】

【責任記録:維持】


が同時に表示されていますが、この二つは矛盾していません。


七 健康保持と組織側の措置


一般職の国家公務員の健康と安全については、人事院規則10―4が定めており、同規則3条では、各省各庁の長に対して、所属職員の健康の保持増進と安全の確保に必要な措置を講じることを求めています。


職員が業務を継続できない状態になった場合、その原因を本人の性格、能力、判断だけへ集約すればよいわけではありません。組織側についても、


・業務量は適切だったか

・指示は明確だったか

・複数の指示が競合していなかったか

・相談経路は利用可能だったか

・本人の異常を把握する仕組みがあったか

・保留の増加を検知していたか

・警告後に個別確認を行ったか

・支援が表示だけで終わっていなかったか

・管理監督者が必要な措置を講じていたか


を確認する必要があります。


本編では、組織側について、


・警告表示は行われていた

・相談ルートは表示されていた

・追加確認も促されていた

・上位判断による返戻も行われていた

・遅延や品質低下に関する表示も行われていた


という事実が確認されていますので、組織が何もしていなかったわけではありません。


ただし、


・相談ルートを表示した後の再確認がなかった

・相談するかどうかを本人の判断へ依存していた

・保留が増加した後も個別確認が行われなかった

・上位からの返戻が、新たな判断負荷になっていた

・支援が本人へ届いたか確認していなかった

・長期保留を強制的に止める仕組みがなかった


という問題も残りました。


正しい警告を表示したこと、相談先を設置したこと、上位判断を返したことは、それぞれ単独で見れば誤った対応とは限りません。しかし、それらが実際に本人を支援したかどうかは別の問題です。


本編では、その点を、


【支援到達性の未評価】


として整理しています。


表示されたこと、既読になったこと、形式上利用可能だったことだけをもって支援が届いたと評価するのではなく、本人が内容を理解できたのか、利用してよいと思えたのか、実際に利用できる状態だったのか、そして利用しなかった場合に組織側が本人の停止を検知できたのかまで確認する必要があります。


そのためエピローグでは、


【支援到達性評価基準:更新対象】

【保留検知条件:見直し対象】


が残されています。


ハルを現場から外し、療養へ移しただけでは、同じ環境に置かれた次の担当者が同じように止まる可能性が残るため、


【本人への処遇】


と、


【組織側の改善】


は、別の記録として扱う必要があります。


なお、


【組織改善接続:完了】


と、


【組織改善接続:開始待ち】


という二つの表示も矛盾していません。


前者は、人事公平ルートから改善担当へ問題が正式に送付されたことを示し、後者は、その送付を受けた改善担当側で具体的な作業がこれから始まることを示しています。改善担当への接続が完了したことと、実際の改善が完了したことは、まったく別の段階です。


この点は重要なので、念のためもう一度書いておきます。


本人を現場から外すことだけで、組織側の問題まで解決したことにはなりません。


八 懲戒処分


国家公務員法82条1項では、職員に対して懲戒処分を行うことができる場合として、主に、


・国家公務員法、国家公務員倫理法またはこれらに基づく命令への違反

・職務上の義務への違反、または職務の懈怠

・国民全体の奉仕者にふさわしくない非行


が定められています。


懲戒処分には、免職、停職、減給、戒告があります。


分限が、現在の職務を継続できるか、その職に必要な適格性があるか、心身の状態から職務に堪えられるかという問題を整理する制度であるのに対して、懲戒は、職務上の義務違反や非違行為について本人の責任を問うための制度です。地方公務員については、地方公務員法29条が懲戒処分について定めています。


本編のハルには、


・一時停止処理を実行した

・追加確認推奨を確認していた

・相談ルートの表示を確認していた

・それでも追加確認や相談を行わず処理を進めた

・その結果、主人公に被害を生じさせた


という事実があります。


そのため、


【ハル本人には責任がない】


という結論にはなりません。


本編でも、主人公が、


「ここだけ見れば、ハルが悪い」


と言った際、ハクは、


「はい」

「ハル本人の責任はあります」


と答えており、最終処遇でも、


【責任記録:維持】


とされています。


一方で、


・複数の指示が相互に緊張していた

・誤処理を恐れて確認を増やし続けていた

・相談内容を整理できない状態にあった

・止まったことを認めれば、担当者として終わると思っていた

・判断能力の低下が疑われた

・組織側が長期保留を個別に拾わなかった


という事情も確認されています。


これらの事情がハル本人の行為を消すわけではありませんが、事案全体を懲戒だけでは説明できないことは示しています。


懲戒だけでは、


【現在の職務を継続できる状態か】

【療養を必要としているか】

【組織側にも再発防止上の問題があるか】


という問題を十分に扱うことができません。


そのため、上位確認では、


【処遇方向:分限中心】

【懲戒方向:限定的責任確認】


とされました。


これは懲戒上の責任を完全に否定するものではなく、ハルの処遇全体を、制裁だけを中心に組み立てなかったという意味です。


本編では、本人の責任を記録し、現場から外し、療養へ移し、将来の復帰可能性を確認しながら、組織側の問題を改善へ接続し、主人公の被害についても別の記録として残しています。


九 本件における処遇の整理


ここまで説明した制度を、今回の件へ当てはめます。


ハルについて確認された事実は一つではありません。


まず、ハル本人の行為として、


・一時停止処理を実行した

・追加確認を行わなかった

・相談ルートを使用しなかった

・個別事情の確認が不足していた

・その結果、主人公に被害を生じさせた


という事実があります。これらは、ハル本人の責任に関する記録です。


一方で、本人の状態についても、


・保留の増加によって判断負荷が高まっていた

・小規模な誤処理をきっかけに過剰に慎重になっていた

・相互に緊張する指示を同時に処理しようとしていた

・相談すべき内容を自分で整理できなくなっていた

・止まったことを認めれば、担当者として終わると思っていた

・判断能力の低下が疑われた

・現在の職務へ直ちに復帰できる状態か確認できていなかった


という事情が確認されています。


さらに組織側には、


・前任者を基準とする処理設計が残っていた

・相談ルートを表示した後の再確認がなかった

・相談するかどうかを本人の判断へ依存していた

・保留増加後の個別確認が行われなかった

・上位判断からの返戻が、新たな判断負荷になっていた

・支援が本人へ実際に到達したか評価していなかった

・長期保留を強制的に止め、担当者を現場から離す仕組みがなかった


という問題が残りました。


主人公についても、


・一時停止処理の対象とされた

・外部ツール使用者として扱われた

・ランキングおよび報酬の完全回復ができなかった

・長期間にわたる精神的負担を受けた

・前回の裁定後も、完全に回復できない被害が残った


という記録があります。


この事案を、


【ハルが誤った処理を行った】


という一つの事実だけで整理すれば、ハル本人の責任は明確になりますが、その代わりに本人の状態、組織側要因、主人公に残った被害の内容が見えにくくなります。


反対に、


【ハルは壊れていた】


という事実だけで整理すれば、療養の必要性は見えますが、ハル本人が実際に行った処理と主人公に生じた被害が見えなくなります。


また、


【組織側にも問題があった】


という事実だけを中心にすれば、再発防止の必要性は見えますが、ハル本人の行為と責任が、「組織」という顔のない言葉の中へ吸収される可能性があります。


そのため本編では、


【ハル本人の責任】

【ハル本人の状態】

【組織側要因】

【被害ログ】


を別の項目として残しました。


一つの事実を選ぶことで、ほかの事実を消したのではありません。それぞれの事実を、それぞれ異なる目的を持つ処理へ接続しています。


十 なぜ分限中心なのか


上位確認では、


【処遇方向:分限中心】

【懲戒方向:限定的責任確認】


とされました。


これは、


【ハルに責任がない】


という意味でも、


【懲戒上の確認を行わない】


という意味でもありません。


処遇全体の中心を、制裁そのものではなく、


・現在の職務を継続できるか

・現在の担当から外す必要があるか

・療養を要する状態か

・将来の復帰可能性をどのように確認するか


という問題へ置いた、という意味です。


ハルは実際に一時停止処理を行っており、追加確認推奨や相談ルートもまったく表示されていなかったわけではありません。そのため、本人の責任は残ります。


ただし、通常の判断能力を保ったまま、単に面倒だから確認をしなかったと整理されたわけでもありません。


ハルは間違えることを恐れて確認を増やし、その結果として処理が遅れ、遅れを取り戻そうとして、さらに判断を自分の中へ抱え込みました。相談を必要とする状態にありながら、何を相談すればよいのかを自分で整理できなくなり、止まったことを認めれば担当者としての自分が終わると思い込んだまま、その状態で処理を継続しました。


ですから、ハル本人に責任はありますが、本人の責任だけでは今回の事案全体を説明できません。


また、懲戒だけでは、現在のハルを現場から離し、療養へ接続し、将来の復帰可能性を改めて確認するという目的を十分に達成できません。


そのため、


・現場補助担当から解除する

・療養状態へ移行する

・能力および復帰可能性を後日確認する


という処遇を中心とし、そのうえで、


・本人の責任記録を維持する

・必要な範囲で懲戒方向の責任確認を行う


という整理も残しています。


分限中心とすることは、本人の責任を否定することではありませんし、本人の責任を記録することも、療養の必要性を否定することではありません。本編では、その両方を残しています。


十一 責任記録と被害ログ


ハルが現場から外れ、療養へ移行した後も、


【責任記録:維持】


とされています。


これは、ハルを将来にわたって処罰し続けるためでも、療養中の本人へ責任を繰り返し突きつけるためでもありません。実際にどのような処理が行われ、その結果として誰にどのような被害が生じたのかを消さないための記録です。


ハルの状態を考慮したからといって、ハルが行った処理まで存在しなかったことにしてしまえば、主人公の被害を説明できなくなります。


組織側の問題を確認したからといって、個人の行為をすべて組織へ吸収してしまえば、誰がどの段階で何を行ったのかが分からなくなります。


逆に、ハルが行った処理だけを記録し、本人の状態や組織側要因を削除すれば、今度は事案全体をハル一人へ背負わせる記録になります。


そのため、


【本人の責任記録】

【本人の状態に関する記録】

【組織側要因】

【被害ログ】


は、分けた状態で維持します。


本編で、


「記録は閉じられました」


と言ったのは、必要な調査と処遇整理が一区切りしたという意味です。記録を閉じることと事実を消すこと、手続を終えることと責任や被害をなかったことにすることは同じではありません。


そのため記録が閉じられた後も、


【責任記録:維持】

【被害ログ:維持】

【組織改善接続:維持】


と表示されています。


また、ハルに対する処遇と、主人公に対する被害回復も同じ手続ではありません。


ハルが療養へ移行したからといって、主人公のランキングや報酬が元へ戻るわけではありませんし、ハルに重い処分を行えば、その重さに比例して主人公の被害が回復するわけでもありません。相手方に対する処分の重さと、被害を受けた者に対する回復は、必ずしも直接対応しないからです。


主人公については、すでに別の見直しルートによる救済が行われ、その結果として、


・外部ツール使用者としての扱いの解消

・キャラクター凍結の解除

・報酬およびランキングの再計算

・停止処理に関する記録の見直し


などが行われています。


ただし、時間の経過によって回復できない順位、失われた報酬や機会、崩れた人間関係、停止中に受けた負担など、後から記録を訂正しただけでは完全に元へ戻らないものも残っています。


そのため本件でも、


【被害回復:別ルート継続】

【被害ログ:維持】


とされています。


被害関係者を相手方の処遇判断の主体にしないことと、被害関係者を手続から消すことは同じではありません。主人公の被害と意見は記録として残しますが、その被害や怒りだけでハルの処遇を決めることもしない。この二つを同時に維持しています。


十二 主人公が「納得していない」と記録した理由


本編では、主人公の意見として、


【被害関係者意見】

納得はしていない。

ただし、仮整理を上位確認へ進めることを妨げない。


と記録されています。


これは単なる感想ではなく、主人公が今回の経過を理解したことによって、「ハルを許した」と後から整理されないための記録です。同時に、「主人公は怒っているため、合理的な処遇を妨げた」と整理されないための記録でもあります。


主人公はハルの状態を知り、組織側の問題も知り、複数の正しい処理が噛み合わないまま人が壊れていった経過も知りました。


ただ、それらを理解したことによって、主人公に生じた被害まで消えたわけではありません。


事情を理解することと納得することは違いますし、原因を知ることと許すことも違います。また、相手の状態を考慮することと、自分の被害を軽く扱うことも同じではありません。


そのため主人公は、


【納得した】


とは記録していませんが、同時に、


【納得できないため、上位確認へ送らせない】


ともしていません。


納得はしていないけれど、その感情だけを理由に人事上の整理を止めることもしない。その両方を残しています。


本編でも、


整って見えるだけだ。

怒りはある。

失ったものも戻っていない。


とされていますが、記録へ変換されたことで感情そのものが消えたわけではありません。


記録の目的は、感情を片づけることではなく、その感情や事実が、後から別の意味へ書き換えられないように残すことです。


十三 未来の担当者を守る線


本編では最後の整理項目として、


【未来のあなたを守る線】


が表示されました。


これはハルだけを保護するための線ではありません。


主人公は現在、被害を受けた側にいますが、この先も運営側で処理を続けるのであれば、将来は、


・判断する側

・処理を遅らせる側

・誰かを待たせる側

・誤った処理を行う側

・支援を必要とする側

・誰かの怒りを受ける側


に立つ可能性があります。


そのとき、


【一度間違えたため、本人の状態も組織側の問題も確認せず切断する】


という仕組みになっていれば、主人公自身も同じように扱われます。


反対に、


【担当者が疲弊していたため、発生した被害も責任も記録しない】


という仕組みにしてしまえば、将来主人公自身が被害を受けたとき、その被害も同じように消されます。


だから必要なのは、


・本人に責任があれば記録する

・ただし、責任だけで本人全体を決めない

・本人の状態を確認する

・組織側の問題も確認する

・被害を受けた側の記録を消さない

・被害者に処遇を決定させない

・必要な療養と支援へ接続する

・再発防止を別に進める


という線です。


そのためハクは、守る対象として、


「ハル」

「あなた」

「未来のあなた」

「記録」

「次の誰か」


を分けて示しました。


そして、ここでも、


【救う】


とは表示していません。


制度上の整理によって、失われたものがすべて戻るとは限らないからです。本人が必ず回復するとも、被害を受けた側が必ず納得するとも、組織が必ず改善に成功するとも限りません。


それでも、誰か一人へ原因も責任も状態も被害もすべて押し込んで、その一人を潰すことを防ぐための線は引けます。


本編における人事公平ルートは、その線を確認するための手続でもあります。


十四 主人公に対する救済


エピローグで主人公は、


「俺の救済って、これなのか」


と尋ねています。


それに対して私は、


「一部です」


と答えました。


今回の人事公平ルートは、主人公の被害を完全に回復するための手続ではありません。主人公に対して行われた停止処理そのものについては、すでに別の見直しと裁定が行われています。


今回整理したのは、その処理を行ったハルについて、


・どのような責任があるか

・どのような状態にあったか

・現在の職務を継続できるか

・療養が必要か

・組織側にどのような問題があるか


という点です。


その結果として主人公に残されたものは、


・自らの被害が記録から消えないこと

・ハルの状態を理由に被害をなかったことにされないこと

・ハル一人への処分だけで問題を終わらせないこと

・組織側の問題が改善へ接続されること

・自分の意見が「納得した」と書き換えられないこと

・将来自分が処理する側に立った際にも、同じ線が適用されること


です。


これは完全な回復ではありませんし、ランキングや報酬を元へ戻すものでも、失った時間を返すものでもありません。


そのため、


【完全な救済】


と表示することはできません。


ただ、主人公の被害が確かに存在したことを記録として残し、その被害が今後の組織改善へ接続されることは、救済の一部にはなり得ます。


また、自分が受けた被害と、相手の処遇を分けて考えられるようになったことも、主人公自身の役割理解に関わっています。


本編では、その変化を、


【処遇実行経験:追加】

【支援対象理解:更新】

【役割理解:更新】


と表示しています。


主人公は、何か特別に強くなったわけでも、権限が上がったわけでもありません。多くのものを見て、知り、そのうえで実際に処理を実行した結果として、


「重くなりました」


と整理されています。


知ったことも、押したことも消えません。


ただし、それらを記録として分けて残すことができれば、すべてを混ざったまま一人で抱え続ける必要はなくなります。


本編の、


記録になるなら、たぶん持ち運べる。


という言葉は、その意味です。


記録にしたからといって重さそのものがなくなるわけではありませんが、何の重さなのか分からないまま抱える状態から、


・自分の被害

・相手の責任

・相手の状態

・組織の問題

・自分の役割


を分けて持つことはできます。


整理することは、気持ちを消すことではありません。


混ざらないようにすることです。


十五 今回の最終整理


以上を踏まえて、今回の件では次のように整理されました。


【ハル本人の処遇】


・現場補助担当から解除する

・現在の職務へ直ちに復帰させない

・療養状態へ移行する

・療養後、能力および復帰可能性を改めて確認する


【ハル本人の責任】


・一時停止処理を行った事実を維持する

・追加確認および相談を行わなかった事実を維持する

・主人公へ被害を生じさせた責任記録を維持する

・必要な範囲で懲戒方向の責任確認を行う


【主人公の被害】


・一時停止処理による被害ログを維持する

・完全に回復していない部分を消さない

・ハルの状態を理由に被害を軽く扱わない

・被害回復については別ルートで継続する

・主人公をハルの処遇判断の主体にはしない


【組織側の問題】


・相談ルートの表示だけで対応済みとしない

・支援が本人へ到達したか評価する

・長期保留および判断能力低下を検知する条件を見直す

・個別確認を開始する基準を見直す

・相互に緊張する指示の整理方法を検討する

・改善担当へ正式に接続する


【役割の分離】


・ハクが事実と論点を仮整理する

・任命権者相当の上位が確認、修正および最終判断を行う

・主人公は被害関係者として判断への関与を制限される

・主人公は、確定済みの内容を次の手続へ送る実行を担当する

・私は関係者として処遇評価から距離を置き、手続、記録および実行表示の整合性を確認する


今回の結論は、


【ハルが全面的に許された】


というものではありません。


また、


【主人公の被害が完全に回復した】


というものでも、


【ハル一人がすべての原因だった】


というものでも、


【組織だけが悪く、ハル本人には責任がない】


というものでもありません。


ハル本人には責任がありますが、その責任だけで今回の事案のすべてを説明することはできません。組織側にも問題がありますが、「組織」という言葉を使うことで、ハル本人が行った処理まで消すこともできません。


主人公には実際に被害がありますが、被害を受けたという事実だけを理由に、相手方の処遇を決定する立場には置きません。また、ハルには療養が必要ですが、療養へ移行することで責任記録まで消えるわけでもありません。


本編では、これらを一つの評価へ混ぜるのではなく、それぞれ異なる制度と記録へ分けて残しました。


そして、


「みんな、間違っていませんでした」

「だから、みんなで間違えました」


とされたのも、誰にも責任がないという意味ではありません。


一つ一つの判断には、それぞれ理由がありました。


誤処理を防ぐこと、個別事情を確認すること、過剰な停止を避けること、危険な処理を放置しないこと、迅速に処理すること、説明可能な判断を行うこと、保留を減らすこと、機械的な処理を避けること。そのどれも、単独で見れば必要な要請です。


ただ、それらを同時に受け取った担当者が、何を優先すべきか整理できなくなりました。


組織は、正しい警告を表示し、正しい返戻を行いながら、その下で担当者自身が止まっていることを拾えませんでした。ハルは、間違えないために確認を増やし続け、その確認によって処理できなくなり、それでも自分から止まることができませんでした。


その結果として、主人公に被害が生じています。


誰か一人を白にすれば、その分だけ別の誰かが黒になりますし、誰か一人を黒にすれば、そこへ至るまでに存在したほかの原因が見えなくなります。


そのため今回は、白か黒かを一つ選ぶのではなく、事実を分けて残しました。


本人を職務から外し、療養へ移す一方で、本人の責任は記録として残します。主人公の被害も残し、組織側の問題については改善へ接続します。そして、将来の復帰については現在の段階で結論を出さず、療養後の状態と能力を確認してから判断します。


それぞれを異なる記録として維持する。


以上が、人事公平ルートにおける今回の最終整理です。


……少し長くなりましたね。


ただ、本件では、分限、懲戒、療養、被害記録、組織改善、そして人事公平ノードの役割が同時に関係していますので、どこか一つだけを説明すると、別の部分の意味が変わってしまいます。


ですから、ここまでは必要な説明です。


補足は以上です。


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