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【短編小説】ポインセチア

掲載日:2025/12/20

 喫茶店に入った人たちは少しの時間を寛ぐと、リフレッシュした顔をして出て行く。

「まるで体内巡りだな」

 なにも変わっちゃいない。

 ぎゅっと縮んだストローの包み紙に水滴を垂らすと、水を吸った包み紙は生き物の様に伸びていった。

 頭に生えた耳の様な器官に赤と緑のカバー飾りを付けている女は、それをくるりと回しながら言った。

「好きだよね、それ」

「あぁ」

 俺は曖昧に答えて外を見た。

 だが外には何もない。



 ガムを噛んでいるのか下唇を噛んでいるのかわからなくなってきたのは、おれの四十回目の春が終わろうとしていた頃だった。

 口からガムを噴き出す。

 ガムはライナー軌道で灰皿に収まった。

 煙草に火をつけて灰皿のガムに押し付けると、甘い香りが広がった。

 鼻腔が満たされる。

 束の間の幸福。まやかし。


「で、どうすればいいの?」

 机を挟んで反対側に触った女が訊く。

 次のレースは格下相手に高いオッズが付いている。

「四角を曲がる前に仕掛けろ」

「あー、それじゃ次は早仕掛けが裏目に出て、ってパターンね」

 了解、と言って女は退屈そうににんじんジュースをすすった。

 理解が早くて助かる。

「だが掲示板は外すなよ。賞金は賞金だ」

 出来レースは出来レース。

 その他にあるなら、貰えるものは貰っておくさ。



「はいはい、ちゃんと仕事はしますよ〜」

 女はサイドに結った自分の髪束をモフモフと揉みしだきながら答える。

 視線はおれを向いていなかった。

 その視線がいつかおれをどこかへと連れ出してくれると思っていた時期があった。

 本当ならおれがどこかへと連れ出すべきだ。見たことのない景色まで誘うのがおれの役目だ。


 だがおれは。



 いつからだろうか。

 おれはありとあらゆるものが子宮に思える病気に罹っていた。

 部屋だとか布団だとか車はもちろんのこと、夏祭りで子どもが手にブラ下げた金魚入りのビニール袋ですらそう見えていた。

 学園、社会、パドック、労働。

 おれを囲うもの全てがそうだ。

 おれはおれの環世界と言う子宮でずっと夢を見ている胎児だ。


「やれそうか?」

「まぁ大丈夫っしょ」

 サイドに結った自分の髪束を揉みながら女が言う。

「不安か」

「不安じゃないって言えば嘘だけど、不安じゃない瞬間なんて無いし」

 おれたちは店を出る。

 だが産まれ変わってなんかいない。

 そこは子宮なんかじゃないからだ。



 

 オーバルの子宮に詰め込まれた数万の音符たちが叫ぶ音はその鉄筋の子宮を割らんばかりに響いている。

 夢だとか希望だとか願いだとか、そう言う何かに向かって熱気が迸っている。

「じゃあそれは卵子か?」

 灰皿に吐き捨てた薄緑色の粘体に煙草を押し付ける。甘い香りが漂う。

 お前は甘い香りの子宮なのか?俺はいまそれを焼き破ったのか?


 レース場に向かう長い廊下で、女は急に立ち止まった。

「いよいよっすね〜」

 振り向きざまに、赤と緑のカバーをくるくると回しながら女が言う。

 やはり自分の髪束を揉んでいる。

「不安か?」

「いつも通り」

 そうか、と言った気がする。

 声になってなかったかも知れない。

「走れよ」

 女は少しだけ笑った。




 遠くでゲートが開く音がする。歓声が上がり、一斉に飛び出した女たちが走っているのが見える。

 おれは何分か前の事を思い出していた。

 いまターフの上を走っている女との会話。

 この部屋はおれを包む子宮で、そう考える脳みそは頭蓋骨と言う子宮の中にあって、おれと言う精神は更にその中にあって、お前はおれをここから……


 一際大きく上がった歓声が思考を遮る。

 勝負服と言うにはいささか地味な、しかし特徴的な赤と緑の装飾をつけた女が最終コーナー手前から一気に加速していくのが見えた。

 黒いスカートが揺れている。

 赤と緑の飾り。いや、左足にある菱形の革でできたベルト飾りを見ていた。あの女の足はおれの視線の子宮だ。

 違う、お前がおれの子宮になってくれ。

 いや、おれをその子宮から出してくれ。



 ひときわ大きな歓声が上がる。



 長い最終直線。態とらしいくらいに緑色をした芝生の上を走る女たち。先頭を行く女が急に速度を落とし始めた。

 そしておれを見た気がした。

 そんな訳が無い。

 いくら目が良くたってここまは見えたりしないだろう。おれと目が合うはずがない。

 それでもおれは小さく「そのまま行け」と呟いていた。

 赤と緑の飾りをつけた女はおれの呟きを待っていたかのように加速した。



「ねぇ、どこいくの」

 息を切らせた女がおれに訊く。

 まだ勝負服も着替えていなかった。

「さぁな、ワカらん。とりあえず車に乗れよ、理事長に捕まったらタダじゃ済まねえ」

 おれはキーを回してエンジンをかける。

 こんな旧式、さっさと売り払うべきだろう。

「……車?」

 女は助手席に座ると袖で汗を拭いながら笑った。

「ビョーキ、治ったじゃん」

「なんの?」

「まぁいいですけど。……ガムは?」

「膨らまないからやめた」

 女はまた笑った。



 おれは買ったばかりのにんじんジュースを渡してアクセルを踏んだ。

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