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邪馬台国はどこですか?

作者: 波留 六

大作家もすなる邪馬台国場所探しといふものを、人ぞ知れぬ物書きもしてみむとて、するなり。


 かつて松本清張の『陸行水行』を読んで以来、邪馬台国の謎は私の心を捉えてきました。最近、『映像版マンガ日本史』を観て、再びその思いが蘇ってきました。いつかこのテーマを、物語として綴ってみたいと思いを馳せつつ、現時点での私の考えを描いてみます。


■卑弥呼について


『映像版マンガ日本史』を見ました。説明によると『週刊マンガ日本史 改定版』(朝日新聞出版)をライトアニメの手法で映像化したものだそうです。

 この物語では、卑弥呼が超能力を用いて敵の作戦を見抜き、その情報をもとに兵を率いた弟が敵の裏をかく作戦で戦乱を勝ち抜きます。さらに、彼女は現代までの未来を見通していたという設定です。なぜ未来が現代までなのかは不明ですが、とにかく凄い超能力者として描かれています。野球場のナイター照明のように鏡をずらりと並べて卑弥呼を照らす演出は印象的でした。

 しかし、これを日本史と言ってよいのでしょうか。


■魏は卑弥呼の能力を評価できなかった


『魏志』東夷伝倭人条には次のように書かれています。


名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國

(名をヒミコという。鬼道を使って民を惑わす。年老いており、夫はいない。弟がいて統治の補佐をしている)


 この『鬼道』という言葉が一人歩きしています。

『まんが日本史』というアニメでも、御幣ごへいを振り回し、呻くように言葉にならない何かを呟く場面があります。これが『鬼道』なのでしょうか。

 本当にそんなことで卑弥呼は邪馬台国や周辺国を統治できたのでしょうか。


 当時の邪馬台国周辺は水田稲作を行っており、田植えから稲刈りまで適切な時期の判断が必要でした。また、水の分配を正しく行う必要もありました。これらを管理・運営する能力を持つ者が求められていたのです。その管理者こそ卑弥呼だったのではないでしょうか。

 その中で、自らの権威を高めるために神格化することはあったでしょうが、それは本分ではありません。

 彼女の使命は統治者として稲作を正しく管理し、民を飢えさせないことにありました。


 その使命は成功していたと考えられます。

 卑弥呼は魏に使者を送るほどの経済的余裕を持っていました。また、男子は全員、顔や体に入れ墨を入れていたとされます。呪術的意味合いでしょうが、日々の生活に余裕がなければこうしたことはできません。また彼女の死に際し、『徑百餘歩』ほどの巨大墳墓をつくり、『徇葬者奴婢百餘人』とあります。奴隷は魏にも献上され、マンパワーも余っていたといえるでしょう。

 この頃の中国では、飢饉と戦乱により人口が5000万人から1000~2000万人にまで減少したとも言われています。えらい違いです。


 では、誰が『鬼道を使って民を惑わす』と言ったのでしょうか。

『鬼道』は呪術・祭祀・占卜を総称する言葉で、必ずしも『悪事』や『妖術』の意味ではありません。しかし、『民を惑わす』となれば話は別です。

 当然、邪馬台国の使者がそう述べたはずはありません。使者の言葉を受けた魏の側が、そのように理解したのです。

 当時の魏の中心地は黄河流域にあり、栽培していたのは小麦や高粱でした。これらは秋に種をまき、春に収穫します。水耕稲作ほど水の管理を必要としません。魏の人々は季節が逆転したように見える稲作や、その管理法を異様に感じたのかもしれません。

 長江流域では水耕栽培が行われていましたが、当時は戦乱で分断され、さらに、日本の稲作・水管理体制は奇異に映ったのかもしれません。また、使者を迎えた魏の担当官は水耕栽培に疎かったのかもしれません。

 こうして『倭』は以前からの呼称のままですが、『邪馬台国の卑弥呼』という表記が当てられ、『鬼道を使って民を惑わす』と記されたのです。


 話はそれますが、『まんが日本史』では時折、史実と異なる創作が加えられます。例えば、奈良の大仏建立に奔走した行基が体制に迎合して信仰を失ったかのように描かれたり、宇佐八幡神託事件で実際には道鏡を天皇とせよという神託があったにもかかわらず、和気清麻呂がそれを捻じ曲げたかのように描かれます。放送当時の時代背景を考えれば仕方ない部分もありますが、教育的影響や視聴者への誤解の可能性を考慮し事実が確認できない脚色は避けてほしいものです。


■邪馬台国とは何か


『魏志』東夷伝倭人条には次のように書かれています。


 南至邪馬壹國 女王之所都

(南へ進むと、邪馬壹國に至る。女王の都である)


 ここで書かれている『邪馬壹國』の『壹』は、異本では『臺』と記されており、原本は『邪馬臺國』であった可能性が高いと考えられています。当時の中国音を復元すると、『ヤマト』に近い音で発音されていたと推測されています。この説をもとに、後の国号『大和』との関連性を考察してみましょう。


 この『ヤマト』という呼び名に対し、『大和』という漢字が当てられるようになったのは、飛鳥時代から奈良時代にかけてのことです。なぜこの字が選ばれたのでしょうか。飛鳥・奈良時代の大和朝廷は、周辺の国々を支配下に置き、その勢力を九州から関東地方にまで広げていました。まさに『大きな和の世界』を築き上げた時代だったのです。


 邪馬台国は国号ではなかったのではと推測します。

 漢代には百余国、邪馬台国時代には三十国あったとされる倭の国々。それらを統合した国家連合を示す言葉こそが、『ヤマト』だったとは考えられないでしょうか。

 つまり『大和』とは国号ではなく、当時の『ヤマト』という言葉が、複数の国をまとめた首長連合や集合国家を指す言葉だったと考えることが可能です。


 邪馬台国が栄えた時代、複数の『ヤマト』と呼ばれる国家連合が存在したと考えられます。そして、そのうちの一つ、あるいは新たに誕生したヤマトが飛鳥・奈良時代に唯一の王朝となり、ここに国号として『大和』が使われるようになり、その朝廷の置かれた奈良が『大和』となったのです。


■縄文時代から弥生時代への移行について


 岡山県、朝寝鼻貝塚の縄文時代晩期(約3000年前)の地層からは、イネのプラントオパール(イネの珪酸体)が発見されており、陸稲栽培が行われていた可能性が指摘されています。

 福岡県板付遺跡や佐賀県菜畑遺跡で紀元前10世紀頃の水田跡が見つかっており、これが現時点での日本最古級の稲作痕跡です。この頃から、大陸から伝わった稲作によって、緩やかに採集生活から農耕生活へ移行していったと考えられています。


 稲作の伝来ルートとしては、朝鮮半島経由説が長らく有力視されてきましたが、近年のイネのDNA分析などの研究から、中国南部からの直接伝来説が有力視される傾向にあります。これは、稲作が温暖な気候を好む南方系の植物であるという性質とも一致します。

 現代の稲作こそ、日本全国、北海道にまで伝わっていますが、それは第二次世界大戦以降、品種改良が行われた結果であり、本来の稲は南方の熱帯地方の植物なのです。

 南方でしか育たないはずの稲が、西の邪馬台国で育てられている。魏の者はこれを『鬼道』と考えたのかもしれません。


 日本人のDNA研究により、縄文人と、大陸から渡来した人々の混血によって、現代の日本人が形成されたという説が有力になっています。弥生期に渡来した人々の数は数千人から数万人規模の少数だったいわれています。

 何故、縄文文化の中で稲作が緩やかに日本に浸透していったのでしょうか。


 それには技術的・社会的インフラが必要とされています。水田稲作は、単に種籾を持ってきて植えれば成立するわけではなく、灌漑設備・水路・堤防の建設、用水調整の共同作業が必須です。

 縄文時代の集落は小規模で分散していました。

 縄文社会は、狩猟・漁労・採集が行われ、高い安定性を持っており、食料不足が恒常的に起きていたわけではないとされています。


 この中の狩猟については、大型草食哺乳類を追って日本にやってきた者たちにより早期(一万年前)に狩り尽くされてしまいます。それ以降の縄文人は集落の貝塚に見られるように、漁労・採集が食料の中心であったと考えられています。

 ですが漁労・採集では、定住生活をする人々の生活を支えることは難しかったのではないでしょうか。年によってその収穫量が大きく増減し、飽食であることもあれば飢饉に見舞われることもあったはずです。その証拠として縄文中期の人口は二〇万人とされています。ここから縄文後期へかけて、8万人へと減っていくのです。

 一刻も早く水田稲作に移行する必要はあったのではないでしょうか。

 にもかかわらず、日本に稲作が浸透していくのは緩やかなものでした。極度の村社会であり、孤立して稲作の情報がつたわって来ることはなかったという理由は考えにくいです。なぜなら、磨製石器の原料となる黒曜石は小笠原諸島から取れたものであり、また縄文人が装飾に使ったとされる瑪瑙は、新潟で採れるものです。それらが、全国の各集落跡から発掘されているのです。集落間の交流はあったのです。


 しかし、稲作に移行できなかった理由も当時の日本の人口にあるのです。今の日本の小都市にも満たない人々が、全国に散らばって生活を送っていました。

 この状況ではマンパワーを必要とする稲作への移行ができなかったのです。


 縄文中期から後期にかけて人口が減少した理由は、一般的に次のように考えられています。

・気候変動(寒冷化と乾燥化)により生態系に打撃を与えた。海産資源や植物資源が減少。

・海面低下により、定住場所で暮らすことが困難になった。沿岸の干潟・内湾が減少し、貝や魚の漁場が縮小した。

・森林資源(燃料・建材)の過剰な消費により、環境収容力が限界に達した。

・集落間の交易が行われたことにより感染症が流行した。


 このような状況で稲作など始められたでしょうか。しかし、この気候変動こそが日本に稲作を広めたのだと考えます。

 定住場所を失った人々は、新たなる定住場所を求めさまようことになります。そこで、元から暮らしていた、あるいは先にその場所で暮らし始めた人々との摩擦が生じます。これにより、支配体制が誕生し、また稲作に必要なマンパワーが確保できるようになったのです。


 気候変動が社会変動をもたらした例として、同時期の中国では紀元前16世紀に殷王朝が誕生しました。気候変動は人々を流動させるポンプの役割を持ち、一箇所に集められた人々は集団としての顔を持ち始めます。


 こうして弥生時代は幕を明け、卑弥呼の時代へと至っていくのです。


■確かにあった時代。しかし、想像は実態を掴むことなく幾重にもひろがり……


 当時の日本にはクニを束ねたヤマトと呼ばれる国家連合がいくつか存在した。

 巻向遺跡も吉野ケ里遺跡もその一つ。

 卑弥呼がどのヤマトの酋長だったのかは……、いつか誰かが正解にたどり着く日を夢見て終わります。

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良いですねぇ。 歴史ロマンは大好きですよ。 こういのは読んでて楽しくなります 魏志倭人伝の記述がかなりいい加減なものは確定のようですが、 金印の出土位置、銅鏡の出土数などどちらにも軍配が上げ難いそうで…
邪馬台国も卑弥呼様もいたはずなのになぜはっきりしないのか永遠の謎ですね。 ただ謎は謎のままにせず生きている間でなくてもいいので解き明かしてほしいです。
いつか正解を見てみたいものです! 邪馬台国にはロマンが溢れてますよね!
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