(98)狂気③
呆然と立ちすくむ、ロッシュの両手首が後ろからつかまれた。
「えっ?」と声を出した時には、もうロープで縛り上げられていた。
「失礼します。念のためです」
それは、ラシードの声。いったいいつ、背後に忍び寄っていたのか、全く気付かなかった。
手のひらを合わせた状態で縛り上げ、さらに二本の親指を合わせて細い紐を巻き付ける。その紐で、次は人差し指どうし、その次は中指と、次々に絡め合わせていく。
振りほどこうと身をよじったが、ラシードの力は強く、動きが取れない。指は、完全に動かせない状態に固定されてしまった。
「何なの。これは」
「ですから、念のためです。月の乙女は、あの肖像画のように指を丸めて魔法を使ったと言いますから、同じ顔のあなたが魔法を使わないとも限らない。王太子殿下に何かあったら大変ですので、念のためです」
「そんな、でたらめ……」
「リシュ君は嘘つきですか?」
ぐっと言葉を飲み込む。
「それでは殿下、ごゆるりとお楽しみください。私は廊下に控えておりますので」
ラシードは一礼すると、にらみつけるロッシュに微笑み、悠々と部屋を出て行った。
王太子は笑顔を崩さず、歌うように語り出した。
「美しいだろう。本当に、美しい。私はね、この肖像画を見て、一目で恋に落ちたのだ。そうしたら、瓜二つの少女がいるというではないか。ロッシュ、そなただ。本当にそっくりだ。そなたは鍛冶屋の娘じゃない。本当は、月の乙女の血を引く王女だろう? 王が王子を欲しがっていたから、取り換えられたのだろう?」
「またその話? ここへ来てから、そのことばかり。何度違うと言えば気がすむの」
王子の笑顔が、少し翳った。
「私はね、そなたのために第一夫人の座を空けて待っていたのだよ。嘘でも良いから認めなさい。春が来れば、父上は七十になる。もう年だから私に王位を譲ると約束してくれたのだ。そうすれば、そなたは王妃になれるのだよ」
「そんなもん、なりたくないし。第一、あんたと結婚する気なんてないからね」
「承諾したから、花嫁衣装を着ているのだろう?」
「ええ? これ、花嫁衣装なのか?」
パースでは、花嫁衣装と言えば白だった。赤など、見たことも聞いたことも無い。
「騙されて着ただけだ。知ってたら着るもんか」
「それでも、身に着けた以上は花嫁だ。王女だと認めれば、王妃だ。違うと言えば、側室にしかなれないのだよ。認めた方が、絶対得だろう?」
「認めないし、側室にもならない。私には恋人がいる」
「そんな男、もう牢に入れたし、すぐにでも死刑にしてあげるよ」
王太子は、ロッシュを抱くと、無理やりキスした。その唇を、思うさま噛む。
「ひー」王子が叫び体を離す。その股間を膝で蹴り上げ、さらに離れた体を回し蹴りする。
「な、何というじゃじゃ馬だ」
言葉と一緒に平手が飛んで来る。それを、ふいとかわす。王太子は勢い余ってバランスを崩す。その軸足を引っ掛けてひっくり返す。倒れたところはテーブルの上で、肘が果物の皿に突っ込んだ。スイカがつぶれ、真っ赤な汁が飛び散る。
「手を縛り上げたぐらいで思うように扱えると思ったら、大間違いだからね」
仁王立ちして、転がる王太子を見下ろす。
「リロイ王子に毒を盛ったのはあんたでしょ」
「誰に毒を盛ったって?」
「覚えてないのか? パースの王子だよ。バラを渡したんだろ? リシュに渡したのと同じバラを」
「ああ、そう言えば、そんなことがあったかな」
「あったかなって、覚えてないとでも言うのか?」
「思い出したよ、今」
そう言って、笑いながら立ち上がる。
「あれは、ラシードの計画だ。彼の計画はいつも上手くいく。いかなかったのはロッシュ、お前が消えた時だけだ」
王太子の口調が変わった。顔の笑みも消えている。
「さんざん私を待たせて、その態度。これで済むと思っているのか?」
そう吐き捨て、テーブルをひっくり返し、肖像画の隣に掛けてあった細身の剣を抜いた。切っ先が、真っ直ぐロッシュに向けられる。
もちろん、ロッシュはひるまない。
その態度に本気で腹を立てたのか、王太子は切り込んできた。
一歩踏み込んだかと思うと、横に払う。もちろんロッシュは身をかわす。しかし、ベールが切れた。
王太子はただの坊ちゃんではない。そう認めざるを得ない剣裁きだ。それに対して、ロッシュは文字通り、打つ手がない。反撃できず、かわすしかない。
すぐ、次の一手が向かって来る。それもかわす。さらに次、次。かわすたびに、ロッシュは追いつめられ、ベールは切り刻まれていく。
とうとう、かわした弾みで、足がソファにつっかえた。
あっと思ったときには、ソファに座らされていた。
王太子の口元が、ゆがんだ笑いを浮かべる。
次の瞬間、切っ先が真っすぐ向かってきた。反射的に体を反らし両足を上げると、足の裏で剣の腹を挟んで止めた。
「な、何を……」
王太子の顔がゆがむ。腕に力を入れ、剣を動かそうとする。ロッシュはさせまいとする。
しばらく睨み合ったが、力負けしたロッシュは、足を横に振り、刃を遠ざけようとした。
自由になった勢いで王太子がよろめくことを期待したが、当ては外れた。
再び白刃がきらめき、ストールが下から上に、持ち上げるように切り離された。弾みで、カボが転がり落ちる。
「あっ」
「何だ、これは? 虫けらか?」
王太子が、剣を振り上げる。
「止めろー」
初めてロッシュは取り乱した。
「ほう。そんな顔もできるのか」
嬉しそうに笑いながら、王太子は剣を持ち替え、床に垂直に振り下ろした。
「ほら」
カボを突き立てた刃が、目の前に差し出される。
小さな胸が上下している。
まだ息がある。
王太子は、カボの正体には興味がないのだろう。無造作に抜き取ると床に投げ捨てた。たちまち、血だまりができる。
「ふん。死んだようだな」
ピクリとも動かないカボを蹴り飛ばす。カボは赤い筋を引いて転がり、肖像画の下で壁にぶつかって止まった。
こみ上げる怒りを抑えられず、唸るように呪いを吐く。
「お前、殺してやる」
「面白い。どうやって?」
王太子は、声を立てて笑い出した。
ひとしきり笑った後、王太子は「そうだ」と手を打った。
ドアを開け、ラシードを呼ぶと何か耳打ちした。
「すぐに」
ラシードの足音が遠ざかる。
すぐと言ったが、かなり待たされた。
その間王太子は、鼻歌を歌いながら剣を振り回していた。
床の果物を突き刺し、それを口に入れる。
ロッシュに向けて刃を突き出し、歪んだ笑いを見せる。
一方、ロッシュはカボが気になって余裕を失っていた。
(そうだ。大気を動かそう)
サラナーンで教えてもらった、円を作らず大気を動かす方法。あれが今、役に立つ。
王太子の様子を伺いながら、カボを包む大気を動かす。
大気と一緒にカボが動く。動いた後に血の筋がつく。
(駄目だ。ばれてしまう)
ベールの切れ端が散らばっているのが目に入る。
それを一枚吹き飛ばし、カボを包み、ゆっくり動かす。
今度は血がこぼれない。ベールはもともと赤なので、血がにじんでも気づかれないだろう。
少しずつ、カボを包んだベールがロッシュに近づいて来る。
王太子は剣を振り回すのに夢中で、足元には目を向けない。
(カボは、死んだふりが得意だ。だから、きっと大丈夫だ)
ベールは、もう、足元まで来た。
(そうだ、指輪をはめれば治るに違いない。指輪を……)
ギョッとした。
指輪は、今リシュが持っている。
指輪がなければ、フォンにも連絡が取れない。
八方塞がりだ。




