(97)狂気②
「あんなに急かしていたくせに、着替えですか?」
ロッシュは、そうぼやいた。
「ええ。体は泥だらけですし、服もボロボロ。その恰好は、王太子に会うには礼儀が足りません。ここに来る前に気づいて、着替えてきて欲しかったです」
強い口調でそう言われ、自分の身なりを見つめ直す。確かに、礼儀知らずと叱られても当然の格好だ。
反論できなくなったロッシュは、仕方なく、侍女について行くことにした。
侍女が扉を開けると、温かい湿った空気が流れてきた。
「温泉を楽しみにしていたと伺っております。もう入られましたか?」
「そう言えば、まだですね」
「では、お楽しみください」
単純なロッシュは、ちょっと得した気分になり、さっきまでの苛立ちが飛んで行った。
しかし、服を脱ぐとなると、カボが見つかってしまう。
「あのぉ、一人で入りたいのですが」
「お背中を流させていただきますよ」
「いえ、結構です」
「しかし、そうするようにと、命令を受けております」
「ならば、ロッシュに追い出されたとお伝えください」
「しかし、……」
「とにかく、一人でできるから出て行ってください」
何とか二人を追い出すと、入れ替わりにフォンが姿を現した。
「フォン。どうして」
「静かに」
ロッシュが、慌てて口元を押さえる。
「リシュが熱を出して寝ています」
「あいつ、視察とか、嘘つきやがったな」
「バラのトゲに毒が塗ってあったようです」
それに、カボが反応した。
「それ、リロイ王子の時と似てるぞ」
「あの時は、指輪で治ったんだよね」
「うん」
「じゃあ、これ持ってって」
ロッシュは指輪を外した。
指輪を受け取ったフォンの体が、大気に溶けていく。
ところが、完全に消える直前、思い出したように言葉を発した。
「そう言えば、王太子はロッシュと……」
「はあ? ちょっと、何だって?」
返事はなかった。
「最後まで喋ってから消えて欲しいよなあ」
ぼやきながら、手桶で体に湯をかける。
それから、侍女から手渡された、小さな箱のふたを開けた。思わず笑みがこぼれる。
「石鹸だぁ。懐かしーい」
クロキの病院では、毎日のように石鹸とシャンプーを使わせてもらった。
やはり、この国は、パースよりずっと文化が進んでいるのだ。もっとも、シャンプーは見当たらなかった。
体を洗い、ついでに髪も洗う。黒い水が流れていく。
さっぱりした体で湯につかると、このまま溶けていくんじゃないか、と思うほど気持ちが良い。お湯は滑らかで肌に優しく、体の芯まで温めてくれる。確かに、病気やけがによさそうだ。
ほっこりと幸せ気分で温泉を出たが、すぐ、不機嫌が戻って来た。
侍女が待っていて、タオルで拭いた体に、きつい香りの液体やらオイルやらを塗りたくられたのだ。
しかも、脱いだ服が見当たらない。
「私の服は?」
「もう必要ないので処分いたしました」
「必要あるよ。大切な思い出が詰まってる」
サラが見立ててくれた服だ。
「では、洗濯してお持ちします。とりあえず、これをお召しください」
そうだ、着替える約束だったのだと、仕方なく用意された服を受け取った。
デザインはシンプルだが、赤い生地に白い糸で刺しゅうを施し、真珠を縫い留めた、豪華なドレスだ。
ところが、着てみてびっくり。衣服は、上下に分かれていた。しかも、上は胸を隠す大きさしかなく、下着も兼ねているようだ。また、下は巻きスカートになっていて、下手に動くとへそが丸出しになる。それを隠すように、刺繍と真珠が施された長いストールをまとい、腰紐で縛る。スース―と風通しの良い作りが気になったが、これが王太子の前に出るにふさわしい服装と言われれば、我慢するしかない。
次は頭が攻められた。
「なんとお美しい、銀の髪。王太子もお喜びでしょう」
どうやら、石鹸で染粉を洗い流してしまったようだ。白髪の魔女の噂が伝わっていないことを祈るしかない。
侍女はアクセサリを取り出すと、首に耳にと、ロッシュに飾り付けていく。
「こんなに飾り立てないと会えない人なのか? 王太子ってのは」
ロッシュが悪態をついてもお構いなし。最後に、銀の髪に赤いベールを被せ、それを金のティアラで留めて、やっと終了した。
侍女が引き下がったので、大急ぎでカボを呼ぶ。
問題は、内ポケットがないことだった。
「肩に乗って、ストールの内側に隠れておくよ」
「落ちないように気をつけてね」
「ロッシュが暴れ回らない限り、大丈夫さ」
「それは、相手の出方によるね」
そこへ、侍女とラシードが入って来た。
満足そうにロッシュを見つめ、「では」と歩き出す。
謁見室で会うのだろうと思っていたのに、どんどん王宮の奥に進んでいく。
不安を感じ始めた頃、やっとラシードが足を止め、扉を開けた。
「ロッシュ様をお連れしました」
内側から、少し高めの、弾むような男の声がした。
「やっと来たか。構わぬ。一緒に入れ」
ラシードに続いて入ろうとすると、カボが肩をつついた。
「どうした?」
ラシードと距離を置き、小声で聞く。
か細く震えるような声が返って来た。
「今の声。ジャコモに毒を渡した男だ」
(では、犯人は王太子。やはり、リシュの毒は……)
体を緊張が走る。
「どうなされましたか? どうぞお入りください」
ラシードが促す。
ロッシュは心を決め、足を踏み入れた。
最初に目に入ったのは、部屋の真ん中にあるテーブルだった。上には果物を盛り上げた皿が乗っている。その向こうは寝所だろう。半分開いたカーテンの後ろ、一段高くなった場所に、豪奢な寝台が据えられている。
そして、テーブルの左側、大きなソファの上に、王太子が寝そべっていた。
ロッシュに向けられた顔に、はち切れんほどの笑みが広がった。ソファから飛び上がると、両手を広げて近寄って来る。
そこそこの男前だが、その笑顔の裏で何を企んでいるのか。
警戒を怠るな。そう、自戒する。
「会いたかったよ」と、正しいパースの言葉で迎えてくれる。
「パースに行ったことがあるのですか?」
(行って、王子に毒を盛ったのか?)と心の中で問う。
「そう。それでね、見せたいものがあるんだ」
ロッシュは、部屋の右壁の前に立たされた。
壁には巻き上げ式のカーテンがかかっている。
この窓の向こうに、素晴らしい景色があるのだろうか?
王太子が、自らカーテンを巻き上げてくれる。
その後ろに隠されていたのは、窓ではなかった。
一枚の肖像画。
「これは……」
立ちすくむロッシュに微笑む、自分と同じ顔。
「月の乙女だよ」
「どうして、ここに」
「パースの城が落ちる前に持ち出した。あの国で、一番価値のある物だ」
(こいつ、何を考えてる?)
今更ながら、フォンの言葉の続きが気になった。




