(96)狂気①
ロッシュが行ってしまうと、ラシードはフォンを振り返った。
「どうぞ、こちらへ」
フォンは、招かれるまま後をついて行った。
「ロッシュとは、本当のところどういう関係ですか?」
何と答えればよいのだろう?
やはり、
「恋人?」
とたんに、ラシードの目つきが変わった。
「確認しますが、夫婦ではないのですね?」
「それは、違う」
「ならば、良いでしょう」
それから、黙って歩き続けた。
門を幾つもくぐり、歩いて、歩いて、衛兵に守られた建物に着いた。
中は、随分暗かった。
「もう一度確認しますが、ロッシュとは体の関係はないのですよね」
「ロッシュの体に触れたことはない」
「それを聞いて安心しました。実は、リシュ君はこの中にいるのです」
「ここに?」
「お会いになりますか?」
「そうした方が良いのなら」
ラシードの後をついて、暗い廊下を進む。両側には、鉄格子のついた扉が並んでいる。人の気配がする部屋もあるし、しない部屋もある。
フォンは、こういう場所を見るのは、初めてだった。
一番奥まで来て、ぎぎーと、左の扉が開かれた。
「お入りください」
言われるままに入る。
呆れたような声が返って来た。
「あなたは随分素直な人ですね。言われたことを疑わない」
「人を疑うことは、戒律に反する」
「まるで修行僧だな」
「ロッシュも私をそう呼ぶ。ところで、リシュは?」
「ああ、彼は向かいの部屋です」
廊下を隔てた向かいの扉の内に、確かにリシュの気配がする。随分エナジーが少ない。
「病気ですか?」
「そうかもね」
ラシードが指を鳴らすと、大柄で強面の男が一人、のっしのっしと歩いて来た。フォンの足元にしゃがみ込むと、その両足に枷を取り付けた。枷は、長い鎖で、壁に打ち込まれた楔に繋がっていた。
扉が閉ざされ、錠が閉められる。
「申し訳ありませんが、ロッシュのことは諦めてください。彼女は王太子夫人となりますので」
「ロッシュは承知しないだろう」
「してもらいます」
「それは、無理だ」
いきなり、ラシードが吠えた。
「全く。どいつもこいつも、ロッシュのこととなると無理の一点張り。言っておくが、あの女がどれだけ抵抗しても無駄なんだよ。王太子は絶対なんだ」
それから、荒々しく扉を蹴った。鈍い音が、洞窟のような廊下に反響する。
「おい、お前。この男から目を離すな。逃がしたら命はないと思え」
そうして、足音粗く出て行った。
残った牢番は、泣きそうな目でフォンを見上げた。
「逃げないでくれよ。頼むから」
見た目に反して、随分気が弱いようだ。まあ、命がかかっているようだから、仕方ないか。
「逃げない。約束する」
そうは言ったものの、いろいろ心配ごとがある。
部屋の奥で座禅を組むと、牢番がラシードを送って出て行くのを見届け、目を閉じた。
(まずは、リシュの様子だ)
魂を飛ばす。
リシュは、ベッドの上に横たわっていた。額に玉のような汗をうかべ、震えている。
「リシュ」
呼びかけると、うっすら目を開けた。
「どうしたのだ? 熱があるのか」
リシュが力なくうなずく。肯定のサインだ。
「風邪か?」
頭が横に微かに振られ、わずかに開いた唇からかすれた声が漏れた。
「ばらの、さばき」
「ばら? 花の?」
「ああ。トゲだ」
「毒でも塗ってあったのだろうか」
「たぶん。それより、ロッシュは……」
「そうだな。様子を見てくる」
指輪の気配を辿る。
ロッシュの周りには、女官が二人いて何かもめている。
「とにかく、一人でできるから出て行ってください」
ロッシュが二人を追い出すと、フォンは姿を現した。
「フォン。どうして」
「静かに」
ロッシュが、慌てて口元を押さえる。
「リシュが熱を出して寝ています」
「あいつ、視察とか、嘘つきやがったな」
「バラのトゲに毒が塗ってあったようです」
それに、カボが反応した。
「それ、リロイ王子の時と似てるぞ」
「あの時は、指輪で治ったんだよね」
「うん」
「じゃあ、これ持ってって」
ロッシュは指輪を外した。
指輪を受け取り、戻ろうとして思い出した。
「そういえば、王太子はロッシュと結婚したいそうだ」
溶けた体に、ロッシュの驚いた声がくぐもって響いた。
「はあ?」
その響きが消え去らぬうちに、リシュの牢にいた。
牢番はまだいない。今のうちと、彼に指輪をはめる。
「これで大丈夫だ。きっと治るよ」
リシュは、目を閉じたままうなずいた。
自分の牢に戻ろうとして、気づいた。この部屋には水がない。
ジャックは、「熱がある時は水分を取った方が良い」と言っていたはずだ。あと、「額を冷やす」とも。
魂のまま、牢内を飛ぶ。牢番の部屋に、目的のものを見つけた。
しかし、実体がない今、持ち運びできるのは、自分の力で作ったもの——ローブと杖と指輪——だけだ。
仕方なく一度牢に戻ると、体を大気に溶かした。
牢番の部屋に入り、実体化する。戸棚を開け、カップを取り出す。洗い場に掛けてあるタオルを一枚拝借する。人間や動物のような生き物は無理だが、こういう小さな物なら、ローブに隠して運ぶことができる。
もう一度体を溶かし、リシュの部屋に行く。
牢番がいないのを確認し、水を出してタオルを絞り、眠っているリシュの額に乗せる。
もう一度水を出し、カップを満たすと、枕元に置こうとして気づいた。
リシュが抱くようにして握っている、これは、鷹の羽?
アビィのものではない。そうだ、ハリーの羽だ。
どうしてここにあるのだろう? ハリーと出会えたのだろうか?
そのとき、入口の方から慌てたような足音が響いて来た。
急いで自分の部屋に戻る。
すぐ、強面の牢番が走って来た。どうやら探し回っていたようで、息を切らしている。
「い、いつ戻ったの? さっき、いなかったよな」
「いや。そんなことはない。ずっといたよ」
「ホントに?」
「本当だよ。どうやったら出て行けるんだい?」
牢番のいかつい顔が、青ざめて涙にぬれている。
「お願いだからさあ、いなくならないでおくれよ。おいらの命がかかってるんだよ」
「大丈夫。約束は守るよ」
「本当に本当かい」
「本当に本当だ」
「どこへも行かないでくれよ」
牢番は、何度もそう言うと、椅子を運んできて、格子越しに見える位置に座り込んだ。
フォンはため息をついた。
人助けは、本当に難しい。




