(95)屈辱⑤
アルは夫人のソファに胡坐をかき、何とか逃げ出せないかと考えた。
首輪の鍵は、寝室の鏡台の引き出しにある。それは知っている。しかし、鎖は短く、とてもそこまで届かない。
鎖を手に取って見る。一つ一つの輪を調べ、緩んでいそうなところを探す。それをつかんで広げようとしたが、もちろん、無駄なあがきだった。
ソファの前のテーブルに、鉄扇が置かれている。これを使って、輪をこじ開けられないだろうか?
鉄扇を握りしめ、床にしゃがむと、根元を鎖の輪の一つに突き立ててみた。しかし、鉄扇の方が輪の内径よりも太い。無理やりねじ込もうとしたが、やはり入らない。
輪の継ぎ目に振り下ろせば隙間を広げることができるかもしれない。そう考え、腕を振り上げた。
「止めた方が良い」
懐かしい声に、顔を上げる。
「シムカ」
次の瞬間、二人は抱き合い、唇を重ねていた。
ソファの上でひとしきりじゃれ合った後、シムカは鉄扇を手にした。
「これは母のお気に入りだからね。壊すとどんな罰を食らうか分かったものじゃないよ」
そうしてテーブルに戻した。
「シムカは皇帝と会わなくても良いのかい」
「ちゃんと挨拶はしてきたよ。けれど、もう、大人の時間だからね。彼らは夜通し宴会だ。でも、子供は寝る時間だから、礼を尽くして退出してきたよ」
「じゃあ、ここへは誰も来ない?」
「そう。明日の朝まで、二人の時間を楽しもうよ」
「でも、俺は心から楽しめないよ。公爵の館では自由に動けたけれど、今はこの鎖が俺の行動を制限する」
「だからと言って、外してあげるわけにはいかないよ」
「どうして? せっかくのチャンスなのに」
シムカはため息をついた。
「全然チャンスじゃないよ。港は皇帝の警備で固められている。皇帝がいる間は、島から出るのは無理だ」
それから、焼けただれた背中に口づけした。
「止めてくれ。そいつのせいで俺は心も体もずたずただ。今の望みは、ここから逃げ出したい。それだけだ」
「僕だって、君を助けたいと思っているよ.。母に気をつけるよう注意しておけばよかったと、どれだけ後悔したことか」
「なら、協力してくれ。船さえあればここから逃げられる」
「船って、どんな?」
「小さくてもかまわない。帆を張れて、オールがあれば。そういう船なら、俺は扱える」
「それなら、用意できないことはない」
「いつできる?」
「そんなに早くは無理だよ。少し待って欲しい。きっとチャンスを作るから」
「本当に?」
「ああ。約束するよ」
それから三月が過ぎた。
約束は果たされぬまま、相変わらずの日々が続き、諦めかけた頃だった。
シムカが夫人を訪ねてやって来た。
「母上。お誕生日おめでとうございます」
そう言って、真っ赤なバラの花束を渡す。公爵家の庭に咲いていたのを切って来たようだ。
「まあ。私の好きな品種を、よく覚えていてくれたんだね」
「もちろんですよ。忘れるわけがありません」
二人はハグし、頬に口づけする。
「それから、これは私が作ったケーキです」
夫人は、目を細めて喜んだ。
「まだ、コックの真似事などしておるのか?」
そう言いながら、シムカの入れたお茶を飲み、ケーキに舌鼓を打った。
「本当にお前は美しい。わらわの若い頃によく似ておる」
その声も表情も、シムカへの愛が溢れている。
(でも、この女は、そういう振りができる奴だ)
アルは、冷めた目でそれを見つめた。
二人はソファに並んで座り、会話を楽しんでいる。
アルは、いつものように、夫人の足元に座り、その様子を黙って見ていた。
不意に、夫人があくびをした。
「すみません。話がつまらなかったでしょうか」
「そうではない。とても楽しい。でも、何だか眠くて……」
もう一度あくびをし、夫人は目を閉じた。そして、そのまま眠ってしまった。
「母上、母上」
シムカは夫人を揺り動かす。けれど、反応がない。
シムカが、静かに立ち上がる。
「鍵の場所は?」
「寝室の鏡台。一番下の引き出しだ」
そうして、一年半ぶりに、アルは首輪から解放された。
嬉しくて、シムカを抱きしめ、キスをする。
しかし、彼はすぐ体を離した。
「本当はもう一度君に抱かれたい。でも、母が目覚めるまでにできるだけ遠くに逃げて欲しいから、今日は我慢するよ」
「ありがとう。でも、服がない」
「大丈夫。それも考えている」
シムカは、クローゼットの扉を開いた。そこから動きやすそうなものを選ぶ。
夫人は長身なので、ピッタリとはいかなくても調節すれば上手く着こなせた。さらに、顔を隠すためベールの付いた帽子を被る。
「うん。どう見ても母上だ。これなら誰も気づかないよ」
それから、館から外に出る通路と、そこから港までの道筋を教えてくれた。
アルが復唱すると、シムカは「よし」とうなずいた。
「あとは、歩き方。間違っても、僕の後ろにつかないように。人の後ろを歩くのが大嫌いな人だからね」
夫人の歩き方を真似し、先に立って部屋を出る。後ろをシムカがついて来る。
シムカが指示した通路は、不思議なほど人に会わなかった。
「来た時、人払いしておいたんだ」
その準備の良さに、アルは舌を巻いた。
唯一人払いをかけられなかったという、門に来た。
衛兵は夫人姿のアルを見て、一瞬、眉をしかめた。しかし、後ろにいるシムカを見て、納得したように門を開けてくれた。
「ありがとう。少し散歩してくるからね」
シムカが、衛兵に礼を述べる。もちろん、アルは知らんぷりだ。高飛車な夫人が使用人に礼を言う姿など、見たことがない。そんなことをすれば、かえって怪しまれるだろう。
二人は、堂々と正面から外に出た。
人がいなくなって、急にシムカが笑い出した。
「アルの母上、本物そっくりだよ。歩き方も、人を見下すような姿勢も」
「当たり前だ。この一年半、毎日その態度を見上げてきたんだからな」
その屈辱とも、今日でお別れだ。
港には、小さな帆船が停泊していた。要望通り、オールもついているし、操舵室には屋根もある。
「食料と水は積み込んであるから。操舵は出来るよね?」
「もちろん」
もう一度、深くキスする。
唇を放した後、耳元でささやいた。
「一緒に行こう」
抱きしめた腕に力を籠める。
「それはできない」
シムカは体を離す。
「君が一人で逃げたなら、仮に捕まっても命まで取られないだろう。けれど僕を連れて逃げたなら、徹底的に追いかけられ、確実に殺される」
「でも、俺を逃がしたことで、残った君は罰せられるだろう」
「大丈夫。僕は一応、次期公爵だよ。他に息子はいない。両親は僕に大甘だ。受けたとしても、苦痛を伴うような罰じゃない。それに、僕を殺すことは財産を他所に渡すことになる。二人は決して、そんな選択はしない」
「分かった。じゃあ、きっと迎えに来る」
「良いんだよ。そんなこと。僕はここで楽しく暮らすから」
「ダメだ。必ず、来るから。その時こそ一緒に来て欲しい」
シムカは、少し微笑んでうなずいた。
舟をこぐ。シムカが小さくなっていく。その姿に手を振る。シムカが手を上げて応える。
それが合図だったように、強い風が吹いた。
帆が膨らみ、船が速度を増す。
もう、シムカは見えない。
外海に出る。島が小さくなっていく。
「俺は自由だ!」
声に出して初めて、それが実感できた。
舳先を西に向ける。故郷の海を目指して、船は波を切った。




