(86)思惑①
ホラサーンとの国境が見えてきた。
リシュが旅券を渡したとたん、衛兵が「あっ」と声を上げた。
「少々お待ちください」
慌てたように走って行く衛兵の背を見つめながら、ロッシュはリシュに話しかけた。
「白髪の魔女の噂がここまで届いてたのかな」
「まさか」
リシュは笑ったが、ロッシュは嫌な予感が沸き上がるのを押さえられなかった。
間もなく、衛兵が戻って来た。その後ろを堂々と歩いて来る男を見て、リシュが声を上げた。
「ラシード様!」
リシュは彼に走り寄ると、深々と礼をした。
「まさか迎えに来てくださるとは」
「礼など構わん。それより、姉上はご一緒か?」
「はい。ロッシュ、ラシード様にご挨拶を」
ロッシュは仕方なくリシュの隣に立つと、フードを被ったまま深く頭を垂れた。
ラシードがパースの言葉で言う。
「お顔を拝見できるかな」
リシュが慌てて非礼を詫びた。
「申し訳ありません。旅の途中でもめごとに巻き込まれぬよう、用心して顔を隠してきましたゆえ。ほら、ロッシュ。フードを外して顔を上げて」
ロッシュが顔を上げると同時に、ラシードが感嘆の声を上げた。
「これは、正しく月の乙女だ」
それから、リシュに微笑んだ。
「確かに、この美しさなら心配して当然だ。実は、いろいろな噂が伝わって来てな、気になったので少し前からここで待っていた。よく、無事にここまで連れてきてくれた」
その言葉に、ロッシュは思わず言い返した。
「連れてきてくれたって、別にあんたに頼まれて来た訳じゃないよ。私が家族に会いたかったから来ただけだよ」
「ああ、そうだったか。しかし、王太子殿下はあなたに会えるのを心待ちにしています。直ぐにご挨拶に伺いましょう」
「まず、家族に会ってからね。そのために来たって、言ったでしょ」
「そうですよ。ロッシュはもう十年も家族と離れていたのです。みんなどれだけ心配していたか。まず、家族を安心させたいという思いは、ボクも同じです」
「けれど、ここはホラサーンだ。王太子殿下に礼を尽くすのが筋であろう」
「なぜ、筋なの? この国では、家族より王家が大切にされているの? それって、邦人をないがしろにしているってことじゃないの? ここは、そんなひどい国なの?」
「まさか。そんなことはないが……」
「じゃあ、決まり。私は家族に会いに行く。落ち着いたら王宮にご挨拶に伺う。それで良いでしょ」
ラシードが、渋々という表情でうなずいた。
「どちらにせよ、ダワーヒーまでは警護させていただきます」
「ダワーヒーって、都?」
「はい。ここから十日程の旅になります。ところで、あちらの方は?」
そう言って、ラシードはフォンに目をやった。
ロッシュは、ためらいなく答えた。
「私の恋人だよ」
「恋人! では、ご結婚なされたのですか」
ラシードが慌てる様子を見て、ロッシュはまた嫌な気持ちになった。
「ご結婚はなされていませんが、どちらにせよ、あなたには関係のないことです」
「そうでもないです。何しろ、部下の姉君ですから」
ラシードはそう言って微笑んだが、違和感はぬぐえなかった。
その日は、小さな村で宿を取ることになった。
ラシードは村長の家に行き、一夜の宿を頼んだ。長からすれば、断れるはずがない。
いきなり押し掛けられて慌てている姿を見て、ロッシュは「私は野宿で十分だよ」と断った。
「そうはいきません」
ラシードが食い下がったが、ロッシュは譲らなかった。
「ロッシュ。せっかくだから泊めてもらおうよ」
リシュはそう言ったが、これも突っぱねた。
村はずれにテントを張り、焚火を囲む。
護衛兵たちは、三人を遠巻きにして立っている。
彼らに聞こえぬよう、距離を測りつつ声を潜める。
「彼ら、寝ずの番をするのかな」
「そのようだね」
「私、ラシード様って、どうも好きじゃない。私にどんな価値があるのか知らないけど、何か良からぬことをさせられそうで、嫌だ」
「もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「ロッシュの力を戦に使うつもりかもしれない」
「私の力って……」
リシュは言葉を選ぶように、ゆっくり話し始めた。
「月の乙女の力……。前に話したアトワンの手記には、月の乙女に関する記述もあるんだ。パースを守ったのは、指輪じゃなくて月の乙女だって」
「う、そ、でしょ?」
自分でも、声が裏返るのが分かった。
「嘘じゃない。指を丸めて物凄い魔法を使うって」
そう言って、リシュは親指と人差し指で円を作った。
額から、汗が噴き出すのを感じる。
「でも、それが本当だとしても、私がその魔法を使えるわけないでしょ」
しばらく、答えがなかった。息遣いから、リシュの迷いが伝わって来る。
「私書には、その力は子供に受け継がれることがあって、そういう能力を持った子供が生まれた場合どうするべきか、という対処法が書かれていた」
「ど、どうするんだ?」
恐怖がせり上がって来て、声がかすれた。
「その子に能力の使い方を教え、人知れず国を守る使命を与える」
「人知れず……」
「ボクらは、指輪が国を守っていると教えられ信じてきたけど、本当は月の乙女の魔法で守られていた。だから、乙女亡きあとは負け戦しかできない。けれど、力を継いだ人が現れたら、国を守れる」
「それで、力を持つ子供は生まれたの?」
「多分。三代目の王の時代に、帝国が攻めてきたが指輪の力で全滅した、と公文書にあったから、そのときにいたはずだ。その後戦は起こらなかったので、いたかどうか分からない。周辺諸国は、指輪の力を信じて攻めてこなかったんだ。五百年もね」
リシュは。また言葉を止めた。まだ、何かあるようだ。
「この際、全部話してよ」
リシュはうなずき、口を開いた。
「力を持つ子供は、指が普通の人と違うんだ」
思わず、拳を握り締める。
「ロッシュの指、普通の人とは違うだろう。その指は、肖像画の乙女の指と同じだ」
「だからって……」
「力を持つ人の特徴は、その指だと、はっきり書かれていた。自分が死んだあと、力を受け継ぐ人が現れた時のために、その見分け方と力の使い方を記して残したんだ」
「……」
言葉が出てこない。
「使えるんだろう? 魔法」
ロッシュはふーっと息を吐いて、心を決めた。
「それで、リシュはそのことをラシード様に言っちゃった訳だ」
「うん。あの頃は、まだ子供だったから。だから、ロッシュが最優先っていうのは、そういうことかもしれない」
「ああ、そういうことか」
理解できると、余裕が出てきた。
「この際だからしゃべっちまうけど、確かに、魔法は使えるよ。でも、だからこそ、私を意のままに操ろうなんてできないんだよ。だって、私、強いから」
しゃべってしまうと、心が楽になる。
「でもさあ、知ってたならもっと早く言ってよ。フォンが魔法使いだろうって疑ってたくせに、私のことはちっとも言わないで」
「怖かったんだよ。ロッシュが遠くに行ってしまいそうで」
「けけっ。姉ちゃんはもう、どこへも行かないよ」
「今度からは、何でも話すよ。だからもう、お互い隠し事は止めようよ」
「だね。あーあ。水代、損したなあ」
「水代?」
ロッシュはリシュの耳もとに顔を寄せると、ささやいた。
「水が出せるんだ」
「?」
「手のひら、出して」
疑うような目つきで、リシュが手のひらを差し出す。その上に小さな円を作り、ささやく。
「シャ・ラ」
少量の水が、リシュの手のひらにたまった。
思わず声を上げそうなリシュの唇に、人差し指を突きつける。
リシュが、半開きの口で二、三度首を振る。
その様子は、ロッシュが初めて見た、リシュのおバカな表情だった。




