(80)旅《山岳の国》⑤
フォンは、故郷へ帰ったような感覚だった。
雪を被り、天を突く峰々。澄み切った大気には、生気に満ちたエナジーが溢れている。
フォンが生まれ育った場所も、丁度こんな山の中だった。
山道を歩いていても、心ここにあらず。岩陰に、老師やサファルの姿を探してしまう。
不意に、髪が引っ張られた。ロッシュだ。
「野菜を探してきてくれないかな。カボは肉が食べられないのよ」
中腹を越えた頃から、植物が姿を消した。季節のせいか標高のせいか、両方かも知れない。
「分かった」
「それから、お願いするときは丁寧な口調でね。フォンはぶっきらぼうなところがあるから、くれぐれも気をつけてね」
「分かった」
リシュの姿が見えなくなるのを待って、体を大気に溶かす。
まだ行ったことのな小さな集落を探し、その外れに姿を現す。
最初の人家の戸を叩く。中年の男性が顔を出す。
できる限り、丁寧な言葉で話す。
「すみませんが、何か野菜を恵んでいただけませんでしょうか」
「あんた、修行僧かい?」
「はい」ロッシュがそう言っていたから、そうだろう。
「それにしちゃあ、変わった格好だな」
「この国の者ではないのです。沙漠の向こうの更にその向こうから来ました」間違いではない。
「それは、大変だな。野菜で良いのかい?」
「はい。我々は肉食はしませんので」これは嘘だ。我々ではなく、カボだけだ。
「ちょっと、待ってな」
男は奥に引っ込んだ。
中から、咳の音と子供の泣く声が聞こえる。男はそれをなだめながら、何か探しているようだ。
「すまないね。これぐらいしかなくて」
男が差し出したざるには、小さなイモが一つと干からびた青葉が一株乗っていた。
どうやら、食べ物に困っているのに分けてくれるようだ。無償では申し訳ない。
「ありがとうございます。お礼に、何かお手伝いをさせてください」
「手伝いと言ってもなあ、この季節、手伝ってもらえるような作業はないし……」
男が考え込む。そこで、こちらから問う。
「咳が聞こえましたが、どなたかご病気ですか?」
男の顔が曇る。
「家内と子供が熱を出して寝込んでいるんだ」
「実は私は医術の心得があります。拝見させてください」
「本当ですか」
男は喜んで、フォンを家に入れてくれた。
なるほど、部屋の奥のベッドに、女性と子供が二人、横たわっている。そして、部屋の中には、病の元が発するエナジーが渦巻いている。見覚えのある色合いだ。
「この村で、同じ症状の方が、他にもいるのではありませんか?」
「ああ、何人かいるけど、やっぱりうつる病気かい?」
「はい。きっと」
これは、多分、ジャックが言っていた、インフルエンザだ。
病を治すことは容易い。輪を使えば。
サラナーンでは当たり前だったが、ここでは隠さねばならぬ。さて、どうするか。
そうだ。ジャックの真似をすればいいんだ。
母親の手を取り、脈を診る振りをする。それから、服の上から胸に手を当て(寸止めで触れない)、そこに巣食うウイルスを殺す。(病の元凶を殺すことは戒律に反しない)。
あとは、……。
「水分を十分とれば、すぐに良くなりますよ。この病はこの季節に流行りやすいので、うがいと手洗いを心掛けてください。それから、お湯を沸かして空気の乾燥を防いでください。それから、一時ごとに窓を開けて空気を入れ替えてください」
こんなものだったかな?
「ありがとうございます」
「では、他の家にも案内してくれますか? この病気は何度でもかかりますから、みんな一緒によくならないと、またうつってしまいます」
男の案内で、フォンは集落を回って治療した。それぞれの家で同じことをし、同じ注意をする。全部回り終えた時には、すっかり夜になっていた。
そして、フォンが手にしたざるは、野菜が山盛りになっていた。それぞれの家で、感謝の言葉と共に少しずつ積み重なった結果だ。
「今夜はうちに泊まってください」
男の申し出を、丁重に断る。
「私は、修行の身。野宿が基本です」
「そうおっしゃらずに、ぜひ」
「いえ。先を急ぎますので」
「先って、もう夜ですよ」
「大丈夫です」
逃げるように村を後にする。
(すっかり遅くなった。ロッシュが怒っているだろう)
ロッシュが自分を心配することはないと分かっていた。しかし、カボがお腹を空かせているから、気をもんでいるだろうとも思っていた。
そっと戻り、様子を伺う。ロッシュがテントの前で目を吊り上げて待っていた。
「遅い」
その声に、リシュも顔を出した。
「ああ、良かった。無事にたどり着いたんだね」
そうだ。リシュは心配する人だ。申し訳ない。
「すみませんでした。山があまりに美しいので見惚れていました」
適当な言い訳だが、他に思いつかない。
ロッシュが髪を引っ張る。
「それより」
「ああ」
ちらっとリシュを見る。彼は肩をすくめ、「どうぞ、ごゆっくり」とテントに引っ込んだ。
何となく、申し訳ない。
野菜を入れたざるを出すと、ロッシュの表情がぱっと明るくなった。
服の内側から、カボが顔を出す。彼もうれしそうだ。さっそく葉物に手を出す。
食べるカボを見つめながら、ぽつぽつと今日のことを話す。話すほどに、ロッシュの表情が穏やかになっていく。
「それは、良いことしたね」
「人助けになったかな」
「十分なってるよ」
「良かった」
「じゃあ、今度からも、その手で頼むよ」
ロッシュは、やはりドライだ。
星明かりの下、一人空を見ながら考える。
『力は、人々のために使わねばならぬ』
老師がおっしゃったことが、少し分かって来た気がする。
サラナーンの人々は、輪でも円でも、力のある人はそれを自分たちのために使って当然だと考えていたので、お礼をもらうということは一度もなかった。感謝の言葉さえ、ほとんど聞かなかった。
しかし、この国では、『ありがとう』という言葉はそこここで聞かれ、それが心に積もるたびに豊かな気持ちになっていく。
そういう点では、ここは故郷より住みよいところだ。
うん。この山に住むのは楽しいかもしれない。
フォンは、いつか必ず来るロッシュとの別れを思い、その後の身の振り方をちらと考えた。




