(79)旅《山岳の国》④
いよいよ、最後の峰に取り掛かった。
「これを越えれば、すぐファラスだよ」
「ファラスって、平原の国だよね。放牧民が馬で駆け巡ってるんだよね」
「まあ、最近は小麦栽培が盛んで、放牧の方は少なくなったって聞くけどね」
「それって、またホラサーンが要らぬちょっかいをだしてんじゃないよね」
「まあ、多分、その通りで……」
「ほんっとに、ろくでもない国だな。私が叩き潰してやる」
「ちょっと待てよ。そしたらボクは、失業だよ」
「良いじゃん。あんな国とは手を切るに越したことはない」
リシュは言い返せなかった。確かに、そう感じ始めている自分がいる。
「それより、今日から言葉の練習をしよう」
「言葉?」
「そう、ホラサーンで使われている、ホラン語の練習」
「ケッ。必要ないよ」
「ダメだよ。いいかい、ナラインの東側まではサルヴァーンの支配力が及んでいたから、サヴァル語、つまりパースの言葉が通じたよ。でも、この山を越えた西側は、ホラサーンの影響の方が大きい。だから、話す言葉もホラン語だ。日常会話に必要な最低限の言葉は覚えてもらわないと、意思疎通が図れないからね」
ロッシュの顔がみるみる澱んでいく。
「私、勉強は苦手なんだよ」
「知ってるよ。いつもボクが教えてあげたからね」
パースの民は、何につけ寛大だった。学校もそうだった。必要と感じればいつでも行けるし、必要なければ行かなくても良い。そんな方針だった。
そのため、たいていの子供は、家業を継ぐのに必要な知識を得れば行かなくなった。
例えば、ナッシュは鍛冶仕事に夢中だったので、最低限の読み書きしかできない。レオもそうだ。ところが、フェルおじさんは、大人になってから専門的なことを知りたくなったと、学校に行き直した経歴があるらしい。そして、そういう大人は結構いた。
だから、パースの学校では、年齢が様々な人が机を並べて学んでいた。
そうすると、今度は、落第しても平気な人間が出てくる。ロッシュのように。
一方、リシュの理解度は並外れている。結果、五歳違いの弟は、入学してわずか一年で姉を教える羽目になった。
「とにかく、ホラサーンの影響は大陸中に広がっているから、これからはホラン語が世界の共通言語になる。覚えておいて損はないよ。じゃあ、最初は『こんにちは』から……」
ぼやいているロッシュにかまわず、リシュはレッスンを始めた。
ロッシュに言葉を教えるのは予想以上に大変だったが、その分、余計なことを考えずに済むので気が楽だった。とは言え、学習量が多いと、今度はロッシュが拗ねて口を利かなくなる。仕方なく休憩を取ると、ハリーのことが思い出され、思考は、ラシードの上をさまよう。
リシュがラシードのお抱えになってすぐ、兵士たちに尋ねられた。
「お前、ラシード様の愛人だって、本当か?」と。
あの頃はまだパースにいたので、そんな噂は当然のように舞っていたのだろう。リシュが否定すると、兵士の噂は次の標的に向かうのだった。
「じゃあ、やっぱりカシム様が本命かな」
「知りませんよ、そんなこと。ご自分で聞いてください」
もちろん、そんなこと、怖くて誰も聞けやしないと分かっていた。
ところが、ホラサーンに移ってからも、そういうことを聞かれるのには閉口した。
大体において、軍というのは荒くれ男の集団だ。戦が始まれば、女性との交流は当然途絶える。となると、我慢せず、隙を見て娼館に通うか侵略先で強姦するか、あるいは男同士でことを済ませるか、いずれかの方法を選ぶ輩は必ず出てくる。
ラシードはそれらを厳禁していたが、戦が終わった後までは規制できない。
我先に女性との交流を求めて走る部下たちを冷ややかに見つめるラシードに、リシュは密かなあこがれを抱いていた。
彼は、崇高なのだと。
しかし、他の者はそうは思わないようだった。
何しろ、ラシードもカシムも、見た目が麗しい。
ラシードは精悍で、男の色気とはこういうものかと、リシュをして思わせるものがある。
一方、カシムは中世的な魅力があり、それがまた、女性ファンを呼ぶようだった。
かくいうリシュも、年上から年下まで、年齢を問わず、女性からの誘いがあった。
その三者が、誘いを次々断るものだから、そういう噂が立つのも無理はないのだろう。
しかし、ホラサーンでは同性愛は禁じられている。
そういう噂があれば、たいてい尋問が行われ、刑が執行される。実際、カシムに声をかけた男性は捕らえられ、尋問の末、処刑になったと聞いている。
「カシム様は、尋問を受けなかったのかい?」
誰かが聞いていた。
「ああ。彼が訴えた方だからね」
「ラシード様が本命だから訴えたんじゃないのか?」
「噂だけじゃあ、教会も尋問できないってことさ」
「でも、二人とも、あの年で女に全く興味がないんだろう」
「全く、ってことは無いようだよ。若い頃はそれなりにあったみたいで、今は忙しいんじゃないかな」
そう言う人もいた。
だから、ある時、聞いてみた。
「ラシード様は、どうして結婚しないのですか?」と。
それは、リシュが十五、ラシードは三十五になったばかりだった。
その日、王室主催の宴会があり、ラシードに連れられて初めて王宮に足を踏み入れた。
すれ違う貴族の女性たちは、皆、ため息交じりに彼を見つめていた。何しろ、ラシードは顔だけの男ではない。王太子の信任が厚い、出世頭だ。
けれど、彼が女性と語らうのを、その日、一度も見なかった。
それで、宿舎に戻った時、聞いてみたのだ。
「女性がお嫌いですか? それとも、男性がお好き、とか?」
それは、ほんのからかいの気持ちだった。
しかし、振り返ったラシードの目を見た時、後悔した。それほど、冷たい、軽蔑の色が浮かんでいた。
「すみません。下世話な話でした」
一呼吸おいて、ラシードが落ち着いた声で言った。
「もしそうだとしたら、どうだと言うのだ」
リシュは返答に戸惑った。「そう」がどちらを指すのか分からなかったからだ。
黙っていると、ラシードの腕が伸びてきた。「えっ?」と思ったときには肩を抱かれ、唇を奪われていた。
短い、けれど激しく深いキスだった。
解放された時、リシュはぺたんと座り込んでいた。
頭の上から、ラシードの冷静な声が降って来る。
「男色は、この国では極刑だ。言葉には気をつけろ」
それからしばらくは、顔を見ることさえ恥ずかしくてできなかった。もう一度したい訳ではなかったが、彼が自分のことをどう思っているのかと思うと落ち着かなかった。
(きっとあれからだ。ボクがラシード様の言葉に疑いを持たなくなったのは)
ロッシュが、「リシュらしくない」と言う、その原因はそこかも知れない。ファーストキスの衝撃が、自分から物事を批判的に見る思考を奪ったのだとしたら……。
ひょっとしたら、そこまで計算してのキスだったかもしれない。ラシードなら、それくらいするだろう。
ため息をついて、天を仰いだ。
(ガキだったなあ)
ラシードと離れて陸路を取ったのは正解かも知れない。冷静に考える自分を取り戻すことができた。
自分はラシードに、かなりの情報を素直に報告してしまった。
(彼が特に興味を持っていたのは何だっただろう)
アトワンの手記。それから、ロッシュ。とにかくロッシュ。あとは、指輪……。
(まさか!)
一つの予想が頭に浮かんだ。
それは、打ち消そうとすればするほど、離れなくなった。




