(75)旅《砂漠の国》⑤
砂漠に戻ったフォンは、オアシスの側を歩いていた。
あと一時ほどで日が沈む。
この世界に来て二週間。今日は朔月、月は出ない。
今いる場所はオアシスの北、三日月の丸く膨らんだ地点だ。その辺りは畑が広がっている。どこもきちんと耕され、種がまかれるのを待っているようだ。
老人が一人岸に佇み、ぼんやりと湖面を見つめている。
何と言うことなく、フォンはその傍らに立ち止まった。
しばらく、並んで湖面を見つめる。
やがて老人が振り返り、口を開いた。
「ほら、あそこ。わしの畑だったんじゃよ」
指さしたところは何かの工事の跡だろうか、掘られた土が積まれている。
「水路ができるはずじゃった」
「畑を潰して水路にしたのですか」
老人はゆっくりうなずいた。
「あそこは、丁度、真ん中じゃからな。水路ができれば、畑地が広がる。収量が増えて、みんなが豊かになる。そう言われてな、この向こうの土地と交換したんじゃ」
老人が示した場所は、水辺から一番遠い畑のまだ向こうだった。
「なぜ、水路はできなかったのですか」
「金が無くなったのよ。材料費が値上がりして、予算が足りなくなったんじゃと。おかげでわしは畑仕事ができなくなり、収入がなくなった。息子も嫁も、宿屋の手伝いをして小銭を稼いできたが、戦が終わって客足は途絶え、宿もどんどん潰れていく。仕方なく息子は他の街へ働きに行った。じゃがな、息子の仕送りで、わしと家内と嫁と二人の子供と、五人が暮らしていくのはもう限界じゃ」
「それで、オアシスに沈むもうと」
「よう分かったな。口が減れば、その分食いつなげるじゃろう」
「でも、今日は止めなさい。月のない夜はさみしい。それに、明日になれば、良いことがあるかもしれません。それより、一緒に歩きましょう。水路ができるはずだった場所を」
「何のために?」
「明日のために」
「よう分からん」
それでも、老人は歩き始めた。
「ほら、ここから水を引いて、この溝がここであっちに伸びて、こっちにも伸びて、ここで橋が架かって……」
独り言のようにつぶやきながら歩く老人の後ろを、フォンは杖を引きずりながら黙ってついて行く。
予定地の端までたどり着くと気が済んだのか、老人は「帰るわ」と、門に向かって歩き始めた。
いましも、太陽は地平に沈もうとしている。
門が、老人の姿を飲み込んで、閉じた。
夜中、フォンは老人と出会った場所に戻って来た。
満天の星がきらめいている。その星々に祈るように両手を挙げた。
地面に突き立てた杖が走り出した。昼間、彼が歩いた道筋を、引きずられた杖がつけた印の上を、深く溝を掘りながら走る。終点まで走ると、杖は勝手に止まった。
呪文を唱える。刻まれた溝から、砂塵が舞い上がる。作りかけの水路に積もっていた砂も一緒に舞い上がり、眠っていたその姿を露にする。
舞い上がった大量の砂は、老人の新しい畑のさらに向こうまで飛んでいく。溝はどんどん広く深くなり、既成の部分と同じ幅、同じ深さまで掘られた。その底に、地面の奥深くから飛び出してきた岩盤が敷き詰められていく。側面には石が隙間なく積み重ねられていく。石はどんどん積み上がり、緩やかなカーブを描いた橋が形作られた。
最後に、オアシスの堰が切られた。水が水路に流れ込む。
「これで良いのだろうか?」
依頼主の前で力を使わず、こっそり希望を叶えるのはなかなか難しいことだ。
老人の望んだ通りにできたのかどうか、一抹の不安を残しながらも、フォンは自分の仕事に満足していた。
これから耕せば、まだ、種まきに間に合うだろう。
さあ、もう夜が明けてしまう。ロッシュが出立するまで少し眠るとしよう。
フォンは意識を風に飛ばした。
重い体は、砂のように空気に溶け込んだ。




