(44)治療④
心配は杞憂だったようで、数時間後にピノが現れた。
「皇太后は帰られたけど、念のため、しばらくここで過ごしてくれるかしら」
言いながら、食事を並べてくれる。
「洗面所もあるから、自由に使ってね」
「実は、さっき使ったけど、水が出なくて」
「ごめんなさい。普段使っていない場所だから、ブレーカーを下ろしてるのね。すぐ上げて来るわ」
そうして、また、鍵をかけて行ってしまった。
ご飯を食べて、食器を洗って片づけて、シャワーを浴びて、寝る。
何もかも満たされているはずだが、落ち着かない夜だった。
二晩過ごして三日目に、やっと元の病室に戻ることができた。
その日、クロキは、変なものをたくさん見せてくれた。
「これは、普通の人の手のひらの骨だよ。レントゲンという特殊な光線を使って撮った写真だ」
彼の言葉には、ロッシュの知識にない単語が幾つもある。従って、理解不能だ。仕方がないので、ただうなずいておく。
「それで、こちらが君の骨だ」
ぱっと見ただけで、違いが分かった。その違いを、クロキが言葉にしてくれる。
「この、白い部分が骨だよ。分かれているところが、関節。指が曲がる部分だね。そして、君はその関節が異常に多い。だから、指をしなやかに曲げることができる」
そこまでは分かった。
しかし、その後、CTとか、MRIとか、訳の分からない写真を何枚も見せられ、脳がどんどん疲弊してきた。
追い打ちをかけるように、クロキの単語が意味不明になる。
「これらのデータをコンピューターで処理し、できたプログラムに誘導され、培養液中の幹細胞が分裂をはじめ、親指のクローンを作る。レーザーで焼かれた筋肉と皮膚も、こうして作ったんだよ。あちらは普通の人間と同じなのですぐできたが、こちらは骨がとても複雑だから時間がかかっているんだ」
話の切れ目を見つけ、ロッシュは飛び込んだ。
「ごめんなさい。これ以上は無理です。何でも言うことを聞きますから、もう堪えてください」
クロキは、目を瞬かせて言葉を詰まらせた。
「こちらこそ済まなかった。拷問していたつもりではないのだが……」
そう頭を掻き、「難しい話は止めよう」と笑った。
「要するに、君の親指を今作っているから、あと一か月ほどしたら手術だよ」
「はい。ありがとうございます。お任せします」
ロッシュは機械的にお礼を言い、お辞儀をした。これ以上は、精神に異常をきたしそうだった。
それから、隣の部屋に行き、実際に育成中の親指を見せてもらった。
透明の円柱が、透明な液体で満たされている。その中に、指が育っていた。
(すごい)と同時に(気持ち悪い)と感じた。
正反対だけれど、どちらも真実、自分の気持ちだ。
「そこで、相談だが」
クロキは、言いにくそうに言葉を一度切った。
「手術の日まで、どこで、どう過ごすか。私から二つ提案するので、良い方を選んで欲しい」
ロッシュの反応を見てから、クロキは言葉を続けた。
「今のところ手術は成功し、経過も順調だ。しかし、まだまだ安静は必要だ」
それは、ロッシュも感じていた。何しろ、先日階段を上っただけで、動けなくなるほど疲れたのだ。
「だから、一つ目は、手術までここに留まる。ただ、これには皇太后が来るかもしれないというリスクがある。僕の予想では、その可能性は大きい。次に二つ目。僕の息子が開いている医院に移る。あちらに皇太后が現れることはまずない。ただし、村人の中には彼女と通じている者もいるから、そこから漏れる恐れがある。
その二か所以外に行くことは、止めて欲しい。症状の経過観察や、適切なリハビリができないからね」
「息子さんのところには、皇太后が行くことはないのですね」
「たぶん」
「じゃあ、そこへ行きます」
会えば、今度は心臓をえぐられるに違いない。
クロキはうなずいた後、付け加えた。
「言い忘れたが、村にはカボを連れて行けない」
「なぜ?」
「小人だから」
ロッシュは息を呑み、うなずいた。
「じゃあ、私も、円使いということは隠さないと駄目ですね」
「その通りだ」
ふと、聞いてみる。
「クロキ先生は、小人も円使いも、殺そうとは思わないんですね」
「僕はね、自分が優位に立つために、他人を見下したり排除したりする思想は大嫌いなんだ」
その言い方も表情も激しい嫌悪がむき出しで、いつも穏やかなクロキとは別人のように感じられた。
三日後、ロッシュはピノの押す車いすに座って、ふもとの村を訪れた。
「この子がサランだね」
手渡されたカルテに目を通したあと、クロキの息子、ガヌーシュはロッシュに向き合った。
それから、一つ一つ、カルテと傷口の照合をした。
胸や手のひらなど、大きな傷跡は目を凝らせば見えるものの、小さいものは全く分からない。
「やっぱり、父さんはすごいな」
ガヌーシュは、クロキとはあまり似ていなかったが、どこかで見たことがあるような面差しでもあった。
彼は、ロッシュに顔を近づけると、小声で、
「皇太后は、絶対、ここには来ない」と断言した。
「ただし、彼女の息のかかった者は、村人にも大勢いるから……」
そこで、彼は言葉を止め、指で円を作る真似をした。
「ばれないように。口にしてもいけない」
ロッシュは強くうなずいた。
診察の後、ガヌーシュの妻で看護師のアニタが、車いすを押してくれた。
病棟は別棟にあり、渡り廊下の突き当りの扉をノックする。
「ここが女性部屋よ」
そこは大部屋で、ベッドが六つ並んでいた。老女と中年女性と幼い少女が、一つ飛ばしにベッドを使っていた。
「一番奥があいているから、そこにしましょう」
隣のベッドの少女が、もう、興味を示して来た。
「お姉さん、名前は? どこから来たの? どこが悪いの?」
代わりに、アニタが答えてくれた。
「このお姉さんはね、山岳地帯から来たのよ。崖から落ちて動けなくなっていたのをターマが見つけ、ここに連れてきてくれたの。でもね、頭を打って記憶が飛んでしまったから、自分の名前も忘れてしまっているの」
「じゃあ、呼ぶときどうするの?」
「とりあえず、サラン、と呼んであげてね。サラナーンのサランよ」
サラナーンというのはこの国、というより、大陸全土のことだと聞いている。
「そういうわけで、サランはしばらく安静にしなくてはいけないの。無理はさせないでね。それにミナリ、あなたはもっと大人しくしていないと、また熱が出るわよ」
「はーい」と、ミナリは布団にもぐり込んだ。
病院での日々は単調だった。
朝、目覚めたら検温、血圧測定。朝食の後は順に診察。昼食の後はリハビリ。ロッシュと老女は歩く練習。後の二人は内臓の疾患なので、リハビリはしないという。検温をして夕食を食べたら、あとは寝るだけ。ミナリが退屈で動きたくなるのも当然だった。
ということで、ミナリは始終話しかけて来る。どうやってそれを凌ぐか、それが問題だ。何しろ、まだほとんどこの国の言葉を覚えていない。聞く方は少し慣れてきたが、話すのは片言が精いっぱい。
ロッシュは布団にくるまって、無い知恵を絞った。
(困ったときは寝たふりかな)
二日目からは、とにかくミナリにしゃべらせることに専念した。
「ごめんね。覚えてないの。ミナリのこと、教えて」
困ったときはこう言うようにと、ガヌーシュが教えてくれた言葉をひたすら繰り返す。
そのアプローチは成功して、村の生活の様子や歴史がおぼろげながら分かって来た。
まず、歴史。これは、二人の話を聞いていた老女が主に教えてくれた。
「二百五十年も前にな、おおーきな戦があったらしい。そのとき円使いの女王が首都を破壊して、そりゃあ凄いことになったんだとよ。そのとき、人々を助けてくださったのが、ターマだとよ。それまでターマは山岳地帯にある霊峰にいらして、人との交わりは避けていたとよ。それがよ、その戦以来、毎年人の世に異常はないかって、見て回ってくださっとる。有難いことだよ」
「お姉さんも、ターマに助けてもらったんだよね」
「うん」
「じゃあ、フォンだね。私もフォンが見つけてくれてんだよ」
ミナリは、内陸砂漠周辺の羊飼いの娘だという。突然体に発疹ができ、高熱が出て、移動の時期だというのに動けなくて困っていたらしい。
「だから、早く良くなっておうちに帰りたいんだ。帰りもフォンが連れてってくれるかなあ」
来るときは、雲に乗って一緒に飛んできたのだと笑う。
「でも、忙しいから無理かな」
「忙しいんだ」
「そうだよ。だって、サラナーンには、もう、フォン一人しかターマはいないんだ。一人で全部の村を回ってるんだから、忙しくないわけがないよね」
「そうさね。有難いことだよ」
老女が手を合わす。
フォンが人々に慕われている。それを聞いて、心がまた、温かくなる。
穏やかに一週間が過ぎ、二週間目の半ば、突然そいつらはやって来た。
「ここに、右手の親指がない女がいると聞いたが」
皇太后の殺し屋、黒メガネの声だった。




