(31)逃避行①
チクチクと体を刺す痛みに目を開けた。
しばらくの間、ロッシュは、自分がどこにいるのか分からなかった。
密集した葉の隙間から、太陽の光がちらちらこぼれて来る。
「やっとお目覚めか。誰か来たらどうしようかと冷や冷やしたよ」
耳元で声がする。
横になったまま首を動かし、目の前に小人がいるのを見てやっと頭が働いてきた。
「そうだ。カボだ」
「全く。寝ぼけてる場合じゃないよ」
カボは、手にした木の枝でロッシュの腕をつついた。
先ほどの痛みの原因はこれか、と納得する。
「昨日も言ったけど、この辺りは物騒なんだからな。早く逃げなきゃ」
昨夜、隠れる場所を探して随分歩いたが、よい場所が見つからず、疲れ果ててこの茂みに逃げ込んだのだった。
「もう歩けないって泣くから仕方なくここへ転がり込んだけど、こんな開けた場所、おいらにとっては恐怖しかないからな」
そうは言うものの、さほど怖がっているようには見えない。しかし、とりあえず謝っておく。
「ごめん。久しぶりに体を伸ばして眠ったから、つい寝過ごしちゃったみたい」
「まあ、ロッシュにとっちゃ地下道は狭すぎたからな」
「で、ここって、どこらへん?」
「さあ。夕べは適当に走ったからよく分からないけど、街の北側ってのは間違いない」
町の北側はなだらかな山脈が続いている。そのふもとだろうと言う。
「北は、街の裏口になるんだ。南には街道があって、門のある丘に続いてる。そいで、人も多くて、おいらにとっちゃ危険だった。でも、北は普通の人が少ない反面、盗賊とかヤバい奴が多くて、ロッシュにとっちゃこっちの方が危険だったかもね」
ロッシュは大きくうなずいた。
「確かに」
それから、盗賊から取り上げた剣を拾い上げた。
護身用に持っていたいと思ったが、腰帯がない。
仕方なく、左手に携える。
二人は、とりあえず茂みを出た。
「肌寒いね」
その言葉が終わらないうちに、今度はくしゃみが出てきた。
「やばい。風邪ひいたかも」
くしゃみを連発し、鼻水が垂れてきた。しかし、拭く布がなく、仕方なく指で拭う。
「汚いなあ」
「大丈夫。洗うから」
ぬるぬると光る指で円を作る。
「ク・ロッシュ」
出てきた水で指を洗う。
「その使い方、間違ってるぞ」
「正しいも間違ってるもないんじゃない。役に立てばいいのよ」
濡れた指をピャピャっと振って、水気を飛ばす。
右手のはるか向こうに城の塔が見えている。左手上空には、昇りつつある太陽が輝いている。
「ということは、私たち、街の北端で、城より東にいる、で正解?」
「正解」
「で、どっちに行こう」
「とりあえず、城から離れよう」
「てことは、もっと東だね」
二人は、太陽に向かって歩き始めた。
「それよりさぁ、お前、髪の色そんなだったっけ」
「ロッシュね。いい加減に覚えてよ。で、髪がどうしたって」
「だから、その色。染めてるのか?」
「色?」
ロッシュは、左手で束ねた髪を無造作につかむと、顔の前に持ってきた。そして、言葉を詰まらせた。
「何、これ、……」
手の中の髪は、真っ白だった。
「噓でしょ。どうして、こんな」
ロッシュの髪は真っ黒で艶があって美しい。そう評判だったのだ。
「こんな、老人みたいな……」
思わず涙がこぼれて来る。
「ご、ごめん。余計なこと言って」
「カボが謝ることじゃないよ。私こそ、取り乱してごめん」
そう言いながら涙をぬぐう。しかし、後から後から溢れて来て、止めようがない。
髪のことだけじゃない。
この世界に来て起こった出来事の数々、あまりにも理不尽だ。なぜこんな目に合わなくてはいけないのか、悔しくて哀しくて、これからどうなるのか、心配で心細くて。そもそも、こんな世界へ一人で踏み込んでしまった自分がうらめしい。
「家に、帰りたい」
家族が、パースが恋しい。
しゃがみ込んで、子供のように泣きじゃくる。今まで我慢してきた思いが、一気に涙に変わって溢れ出す。
ひとしきり泣いたときだった。
静寂を破って、ぐうぅぅと大きな音がした。
腹の音だ。
ロッシュは、泣きながら吹き出した。
「こんなに哀しいのに、おなかは空くんだね」
「それが、生きるってことだろ」
ロッシュは涙をぬぐいきると、立ち上がった。
「そうと決まれば、食べ物を探さなきゃ」
「盗んでもばれないものを、な」
「盗みは嫌だなあ」
「じゃあ、どうやって手に入れるんだ」
「うーん」
とりあえず、平野に広がる畑を目指して歩き始めた。
畑には、見たことのある緑の葉が生い茂っていた。
「マルイモかな」
「正解」
「ロシュナーハもそうだけど、この世界とパースと、植物がよく似ているよね」
「そりゃあ、おいらたちのご先祖様がここから持っていったからだよ」
「本当に?」
「ああ。そう聞いてるよ。乾燥地でもよく育つ作物を選んで持ってったって」
「それ、いつの話?」
「月の乙女がいた頃の話じゃないかな」
「ゲゲッ。五百年も前かぁ」
畑には、ぽつぽつと作業をしている農夫の姿が見えた。
ロッシュは急にしゃがみ込むと、カボを手招きした。
「あの人たちにお願いしたら、食べ物をもらえないかな」
「無理だと思うけど」
「でも、やってみる価値はあるよね」
「やりたきゃやれよ。おいらは人に話しかけるなんてまっぴらだからな」
「分かってる。私が話しかける」
そう立ち上がろうとして、カボがズボンのすそを引っ張っているのに気づき、またしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
「お前、ここの言葉話せないだろう」
「そっか。言葉が違うんだ。忘れてた」
「お前、やっぱりちょっとバカだろう」
ロッシュは、思わずうなだれた。
「実は、親によく言われた。頭の中身をおなかの中に置いてきたんじゃないかって。で、リシュが全部持ってきたって」
「リシュって、弟だったっけ?」
「そう。あいつ、頭良くて」
「でも、それは間違いだ。だって、本当の姉弟じゃないから」
「そ、そうだった」
ロッシュは立ち上がると、また、歩き始めた。
しかし、すぐ足を止めた。
「えっ。じゃあ、私の頭の中身はどうしたんだろう?」
「上の三人の姫様はみんな賢かったから、カスしか残ってなかったんじゃないか」
「そうか。それなら分かる」
「納得するなよ」
人間には近づきたくない、というカボの意見を尊重して、農夫の姿を遠目に見ながら行き過ぎる。
「ねえ、向こうに見えるの、ロシュナーハの林じゃないかな」
「おいらにはマルイモの茎と葉っぱしか見えない」
「めんどくさい奴だなあ」
ロッシュは腰を曲げると、ひょいとカボを持ち上げた。
「ほら、見えるでしょ」
「ああ、確かにロシュナーハだ」
「あれなら採っても大丈夫じゃないかな」
「うん。ばれないようにな。それより、早く下ろしてくれ。人間に見つかると大変だ」
「それはそうだけど、いろいろ不便なんだよな」
「何が不便なんだ?」
「話がしにくい」
「まあ、仕方ないな」
「でも、離れているから、つい声が大きくなって、誰かに聞かれたら困るじゃない」
「いや、言葉が通じないんだから、聞かれても大丈夫だろう」
「余計まずいよ。大声で意味不明の独り言をしゃべってる人って、絶対変だよ。通報されるよ、きっと」
「じゃあ、どうするのさ」
ロッシュは、今やボロボロになったアオザイを見下ろした。
「この服、ポケットがないんだよなあ」
無い知恵を必死に絞る。
「そうだ」
ロッシュは上着の襟ぐりを引っ張ると、その隙間にカボを放り込んだ。
「おい、ここはダメだ」
「何で? ここなら見つからずに話しやすいよ。」
「何で、って、こう見えても、おいらは成人男性なんだぞ」
「し、静かに」
仕事を中断してこちらを向いている農夫が目に入った。
少し離れているが、不審そうにこちらを見ているのが分かった。
軽く会釈して、急ぎ足で通り過ぎる。
「やっぱり、変人だと思われたかな」
「たぶんな。目立つのは良くないから、小声で話そう」
目指すロシュナーハの林まで来ると、足を緩め、ちらっと来た方角を振り返った。
さっきの農夫は、また、腰を曲げて作業している。
「油断禁物。ここからが勝負だよね」
林を通り抜けながら、素早く食べごろの実をもぎ取る。それを、カボの上に突っ込む。
「おい、止めろよ」
「しょうがないでしょ。隠すところが他にないんだから」
ささやきながら、また一つ突っ込む。
カボは無言で実を下に押しやると、自分はその上によじ登った。
それを四回繰り返したとき、ロッシュは林を抜けていた。
念のため振り返る。
誰も追ってこないのを確認して、走り出した。




