(30)記録⑤
ラシードが前線に赴き、三か月が過ぎた。
訓練の後、マルコが言った。
「今日の午後、ラシードが帰って来るそうだ」
とたんにリシュの顔が明るくなった。
「本当ですか」
マルコは、面白くなさそうに舌打ちした。
「随分うれしそうだな。あいつのどこが良いのだか」
「そりゃあ、いろいろ自由にさせてもらってますから」
マルコはついと立ち止まると、リシュに向き直った。
「自分たちは、三か月剣を交えた」
リシュは、黙ってうなずく。
「ラシードとお前は、半月にも満たないだろう?」
「そうですね、ほんの十日ほど……。でも、それが何か?」
「時間の長さじゃないのかって、呆れてた」
「ごめんなさい。ボク、マルコさんが何を言いたのかよく分かりません」
マルコは呆れたように空を見上げると、何か考えるそぶりを見せた。
「ガッチャミーの話を聞いたか?」
突然話が変わって、リシュは戸惑った。
「いえ。それ、隣の国ですよね」
「そうだ。ここと同じように、軍の通過国だ。軍の通過を許したばかりに、今や軍に占拠されているらしい。やりたい放題されているとか、とにかくよくない噂ばかり聞く。この国もすぐにそうなる、かもしれない」
「街は景気が良いって、聞いてますけど。軍がお金を落としてくれるからみんな喜んでるって」
「確かに好景気だ。特にお前の家は」
「鍛冶屋ですからね。武器の注文が多いでしょう」
「それに、お前の兄貴は若いのに腕が確かだ」
「ありがとうございます。父の代から勤めてくれている方々のお陰です」
「戦が長引くほど、大儲けだ」
この言葉に、リシュはむっとした。
「戦は早く終わる方が良いでしょう。儲けより平和ですよ」
「もちろんだ。戦が長引けば民衆から不満も出てくるだろう。長引かない方が良い。でも、そうは思わない奴もいる」
マルコはそう言って背を向け、つぶやくように付け加えた。
「国は戦場にならない方が良い。しかし、今この国は、ラシード軍の砦の一つに過ぎない」
そして、くるっと振り向くと、リシュにぐっと身を寄せた。
「ラシードは、この国の王か? 違うだろう?」
リシュは、勢いに押されるように身を引いた。そこを、マルコはさらに押してくる。
「じゃあ、なぜ、この国の政治に介入してくるのだ?」
リシュはその問いには答えず、震える声で尋ねた。
「マルコさんは、ラシード様が、お嫌いなんですか。どうして、いつも呼び捨てにされるのですか」
「ああ、好きじゃないね。所詮余所者。それなのに、いつの間にか自分の上司になっていた。挙句、この国を戦争に巻き込んだ。違うか」
「そうです。そうかもしれません。でも、ボクは、ボクは、仲良くして欲しいんです。ラシード様とマルコさんと……」
リシュの目には涙がたまっている。それを必死にこらえる様子に、マルコは微笑んだ。
「すまない。お前がまだ子供だって忘れていたよ」
そう言って頭に手を置くと、くしゃっと髪を撫でた。
「お前は賢い子だ。早く目を覚ませ」
リシュはしゃくりあげると、そのまま地面に座り込んで泣き出した。
マルコは、困ったように首の後ろを掻くと、ため息を一つ残して行ってしまった。
リシュは座ったまま、地面に顔がつくくらい項垂れ、堪えていた。泣き笑いを。
ラシードが求めているのは、頭の切れる生意気なガキ。
マルコが求めているのは、頭の良い素直な子供。
それを両方演じ切るのは、こんなに面白いことだとは、自分でも思っていなかった。
体を小刻みに震わせながら堪えていると、懐かしい声が降って来た。
「どうした? 何を泣いている?」
振り仰ぐと、話題の主がそこにいた。
「ラシード様……」
慌てて涙をぬぐう。
こんな場面を見られるなんて、何たる失態! 悦に入っていた自分が恨めしい。
「おかえりは午後じゃなかったのですか」
「昼飯を一緒に食べようと思ってな。それより、マルコにいじめられたのか?」
「違います。マルコさんは関係ありません」
まだ近くにいるかもしれないマルコに聞こえるよう、大きな声で言う。
「マルコさんは銃を見せてくれたり、とても親切にしてくれます」
「はは。マルコとは、さっき会ったよ。寂しがって泣いているから慰めてやってくださいとお願いされた」
「寂しがってなんかいません!」
両手をグーにして、ラシードの胸をどんどん叩く。
「分かった分かった。食いながら話をしよう」
「一、二か月とおっしゃってましたが、ずいぶんかかったんですね」
フォークにパスタをまきながら愚痴る。
「ああ。残党狩りに忙しかった」
ラシードたちが背後から攻め入ると、帝国軍はあっという間に総崩れしたそうだ。逃げ足の速い皇帝やその取り巻きは、船に乗ってラニューム海に浮かぶ島に逃げた。また、船に乗り損ねた貴族たちは、海岸沿いに北上し、彼らの勢力下にある国に逃げ込んだという。
「何しろ、広い国だ。逃げる場所はいくらでもある。それを片っ端から叩いていくには、まだ一年はかかるだろう」
そこまで話して、ラシードはワインに口をつけた。
リシュは、苦手なキノコと格闘しながら聞く。
「民衆はどうなったのですか」
「とりあえず、解放を喜ぶ人が多かったから良かった」
「喜ばない人もいるんですね」
「そりゃ、な。役人とつるんで甘い汁を吸ってた奴らにしたら、良い迷惑だ」
「このあと、帝国は誰が治めるんですか」
「さあな。本国から誰か来るだろう」
リシュのフォークが止まる。
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
それから、ちぎったパンで皿に残ったパスタソースを拭うと、口に入れた。
「貧乏くさい食べ方だな」
「ばあちゃん仕込みです。これは理に適った食べ方なんですよ」
「何がどう、適っているんだ?」
「まず、食べ物を最後まで食べられます。それから、皿がきれいになるので後片付けが楽です。ラシード様にもお勧めしますよ」
「お前、前に俺がパンをスープに浸して食べたら、子供じみているとか言わなかったか」
「そう言えば、そんなことありましたね」
「どこが違うんだ? この食べ方と」
「さーあ?」
すました顔で、リシュは口を拭った。
食器の下げられたテーブルで、二人は向かい合った。
「それで、何か見つかったのか」
リシュは、一冊の本をラシードの前に置いた。
「はい。これは、『月の乙女からの聞き書き』です。指輪に関する記述はありませんが、月の乙女が存在したと言う証拠にはなります。そして、その魔法の」
「魔法か。どんなことが書かれていたのだ」
「どうやら、乙女の国には、小人や人魚がいたようです」
「小人に人魚か。おとぎの国だな」
「はい。もしかしたら、小さい頃絵本で読んだ物語のモデルかも知れませんね」
「で、魔法は?」
「魔法とは言わず、『円』と呼ぶようです」
「円。どんな力だ」
「よく分からないのですが、指を丸めて円を作ると、その中から水が湧き出したと書かれていました」
「指の中から水が?」
ラシードが、珍しく大きな声を上げ、慌てて口を閉じた。
「はい。その力は親から子に伝わり、力を持つ者が集まれば、天候も変えられるとありました」
「信じがたいな。で、それは、指輪とは関係ないのか」
「ありません」
きっぱりと言い切る。
ふーと息を吐きながら、ラシードが椅子に身を沈める。
そんな彼の変化を楽しもうと、目を離さずもう一冊の本を出す。
「それから、こちらが、つい先日見つけた、初代、王の補佐官の私記です。読み始めたばかりですが、指輪に関する記述を見つけました」
「本当か」
沈んだ体ががばっと起き上がる。予想通りの反応に、思わず頬が緩む。
「ただ、読み始めたばかりで、報告できるのはまだ先かと」
「そうか。じゃあ、次に帰った時に聞かせてもらおう」
「次に帰った時って、またお出かけですか」
声のトーンが下がるのを、自分でも抑えられなかった。
ラシードがにやりと笑う。
「なんだ。やっぱり寂しかったのか」
それには答えない。
「正直者じゃなかったのかい?」
ますます答えられない。
ラシードは笑いながら立つと、椅子をテーブルの下に仕舞い込んだ。
「悪いが、今度は長くなる。皇帝を捕まえるまで終われない」
それから、リシュの頭にポンと手を置き、髪をくしゃっとした。リシュは逆らわず、されるままでつぶやいた。
「お気をつけて」
ラシードが出て行った。部屋が、いつもより広く感じられる。
リシュは、ふとマルコの問いを思い出した。あれは、ほんの二、三時間前のことなのに、もう随分前に思える。
今なら、答えられる。
一緒に過ごした時間の長さではなく、共に食事をした回数の多さかもしれないと。




