(105)野望⑤
気がつくと、アルの傍に年若い娘がいた。
「君は……」
話しかけようとすると、娘はそれを制するように人差し指を立てた。
娘は、ついて来いというように手招きすると、先に立って歩き出した。
歩くにつれ、左手の山がせり出し、砂浜は狭くなっていく。それが途絶えた時、山と海の境目に小さな洞窟が現れた。
娘に続いて、中に入る。
随分明るいなと思ったら、天井に穴が開いていた。降り注ぐ光の中に、板切れで作った船や、釣り糸をまいた竹竿が散らばっているのが見えた。どうやら、子供の秘密基地のようだ。
娘は穴の下で立ち止まると、天井を指さした。縄梯子が揺れている。それを上れというように引っ張る。
訳が分からないまま、上る。
アルが梯子を離れるのを待って、娘も上って来た。梯子を引き上げ、傍にあった板で蓋をし、さらに、葉の付いた枝を被せた。
そこは、海に面した崖の上で、藪に囲まれていた。
海には、帆船が停泊している。バラの花が描かれた旗が翻っている。ローゼンの船だ。
ボートが一隻、近づいて来る。話し声も聞こえてきた。
「どうだ、中に誰かいるか?」
「いや。暗くてよく分からない。入ってみるか」
アルの動悸が速くなる。
板の隙間から、砂を踏む足音が漏れてくる。続いて「人のいた痕跡だ」と驚く声。それから、何かを引っ掻き回すような音。最後に、笑い声。「何だ、子供の遊び場かぁ」
足音が洞窟を出て、ボートが戻って行く。
二人は、ローゼンの船が見えなくなるまで動かなかった。
アルは、娘の家に迎えられた。
老婆が一人、夕食の支度をしていた。
「おかえり、ハーモ。ローゼンの奴ら、この家まで来たよ。誰か探してたのかねぇ」
そう振り返った老婆は、アルを見て驚いた声を上げた。
「ハーモ、その方は……、まさか」
「アルと申します。嵐で船が壊れ、流れ着いたようです。気を失っていたのを娘さんが助けてくれたのです」
「だから、ローゼンの船がうろうろしていたのですね」
「だから、とは?」
「そのお顔は、シード家の坊ちゃまでしょう」
核心を突いた言葉に、思わず剣の柄に手をかけた。
「そうだとすれば、何と?」
老婆は「やっぱり」と言うと、地べたに座り、地面につくほど頭を下げた。
「この娘は、奥様に命を救っていただいたのです」
柄を握った右手が解ける。
「どういうことだ?」
「この娘の母親は、この娘を産んですぐ亡くなりました。奥様が乳母を探してくださらなければ、生きていくことができなかったでしょう。それだけではありません。事故で片足が不自由になった父親を庭師として雇ってくださった上、息子を学校に通わせてくださったのです」
「ちょっと待って。では、この子はラフの妹なのか」
「兄をご存じですか」
「知っているも何も。私が今生きているのは、彼のお陰なのだ」
アルは、ラフに命を助けられたことを語った。
老婆は驚き、その巡り合わせの不思議に手を合わせた。
「こういうのを、ご縁と言うのでしょうね」
そう、涙を流し喜んだ。
「この子の名前は?」
「ハーモと言います。生まれた時から口がきけません。学校にも行けませんで、読み書きもできませんが、耳は聞こえますし、家のことは一通りできます。何でも申し付けてやってください」
老婆は母方の祖母で、シード家が治めていた島の一つに住んでいたらしい。
ハーモは、襲撃の前日、祖母に会いに行き、一緒に夜を過ごしていた。そこへ襲撃の噂が伝わり、みんなで島を逃げ出した。しかし、その船も撃沈され、二人は板切れに捕まってここまで流れてきたのだと言った。
「ここは、南の大陸で、まだ、サルヴァーン帝国の手は伸びていません。けれど、ローゼンの船がうろついているということは、もうすぐ安全じゃなくなるでしょうねぇ」
そう、ため息をついた。
粗末な夕食の後、ハーモは湯を沸かし、桶に注いだ。そして、アルを手招きで呼ぶ。
どうやら、湯あみをしろと言っているようだ。
「ありがとう。でも、一人でできるから、あちらへ行ってくれるかい」
そうお願いしたが、ハーモはにこにこと、タオルを絞っている。
その時、ふっと気づいた。
(この娘は口がきけない。つまり、自分の背中を見ても何も言わない。人に話すこともできない)
「じゃあ、お願いしようか」
そうして、上着を脱いだ。ただれた背中を、ハーモのタオルが上下する。
「驚いただろう。誰にも言わないでくれるかい?」
優しく、ささやくようにお願いする。
ハーモはアルの前に顔を出すと、口元で人差し指を立て、うなずいた。
それは、驚くほど穏やかな時間だった。
言葉のない静かな空間が、心を落ち着けていく。
(この娘となら、やっていけるかもしれない)
次の朝、アルは二人に言った。
「私と一緒に来ませんか。助けてもらったお礼をさせてください」
三人で、大陸の海岸沿いを、西に向かった。
老婆の足に合わせたので、ゆっくりとした旅だった。けれど、アルは幸せを感じていた。
たどり着いた港町で、ナフスにもらったピアスを売り、ホラサーン行きの船に乗った。そこからさらに、安全と思われる田舎に行き、人目につかない場所にある、小さな家を購入した。
「とりあえずここで暮らしてください。必ず、また来ます」
当座の生活費を渡し、アルはやっと、聖都へ戻った。
家に戻ると、シムカが待っていた。少し怒った口調で、問う。
「どこへ、何しに行ってたの?」
「どこでも良いだろう」
「僕には、心配する権利も無いのかい?」
「そういう訳じゃない。ただ、今回は話したくない。仲間を失ったから……」
ホラサーンのいつもの港で海賊たちの消息を求めたが、誰も帰っていなかった。
成果は何もなく、ナフスにどう報告すれば良いのか、考えると頭が痛かった。
シムカの指が頬に触れる。
「この傷は?」
「船が座礁した時、岩でこすれたのさ」
シムカの目は、疑っている。
「座礁しただけで、仲間が亡くなったの?」
「それは、船が、砕けたから、……」
「みんな、泳げるだろう? その程度で亡くなる海賊だったの?」
ぐっと、息を呑む。言葉を探す。
「本当は、バラを盗みに行って失敗した。そうじゃないの?」
「な……」
「あのバラは、一度使えばもっと欲しくなる。ローゼンのように……。王太子が、欲しがったんだろう?」
本当のことを言おうかどうか、アルは迷った。
シムカはため息をつくと、部屋を出て行った。戻って来た時、その手にはバラの鉢があった。
「バラが、どうしてバラがあるんだ」
持ち出した鉢は一つだけ。それは、アリーを殺すときに使い、そのまま焼却処分した。
「君が鉢をナフスに渡す前に、種を取ったんだ。それを植えたんだよ」
「そんなことができるのか? そうは言わなかっただろう」
「当たり前だよ。これはローゼン家の秘密だよ。僕の切り札だ」
「切り札ってどういうことだ。反乱でも考えているのか?」
シムカは、また、ため息をついた。
「君こそ、何を考えているの? 良いかい。今の僕は、ただのお荷物だ。けれど、この技術があれば、王太子は僕を重用する。違うかい?」
「確かに……」
「もっと、僕を信頼して欲しかったよ」
その言葉に、胸がキリリと痛んだ。
自分は、彼を復讐の材料としか捉えていないのだ。
しかも、今はさらに大きな秘密を抱えてしまっている。そして、それは絶対知られてはいけない。知られたが最後、二人の関係はそこで終わりだ。
ナフスは、シムカを大歓迎した。
それは、身分を隠してパースに赴く際、シムカも連れて行くほどだった。
アルは、これ幸いと、足しげくハーモの元に通った。
ハーモは、言葉でアルを追い詰めない。いつも静かに微笑み、アルを受け入れてくれる。
そして、男の子が生まれた。アルが二十八歳、ハーモが二十歳の時だった。
「この子の名はサラームだ。サラーム・ラ・シード。シードの誇りを忘れるな」
小さな頬にキスをして、アルは母との約束を果たせたことを喜んだ。
二年後、アルは作戦のためパースに赴いた。直ぐ帰るつもりだったが、想定外の事態が次々起こり、三年間、戻れなかった。
戻ってくると、家は扉が壊され、中は荒れ放題。血の跡らしきシミが床にある。オオカミの足跡があるから、食い殺されたのかもしれない。
近隣の村で聞いて回ったが、もう二年以上、祖母もハーモも見ていないという。
「盗賊だろうなあ。あの頃多かったから」
(人目を避けて、田舎に隠したのが裏目に出た)
ハーモは娼館に売られたのではないか。サラームは奴隷になったのではないか。
娼館をおとずれては、尋ねた。しかし、それらしき娘の噂は聞かなかった。
三人は完全に消息を絶った。
アルは絶望した。
もう二度と、肌を合わせられる女性に巡り合うことはないだろう。
母との約束は果たせない。すべては、ローゼンのせいだ。
絶対に許さない。
帝国を滅ぼし、ローゼンを焼き尽くす。
そのためなら、悪魔に心を売るだろう。
そう、心に誓った。




