プロローグ
この四月に退職しました。今までは土日執筆だったのが、毎日できる!ということで、新作に取り掛かりました。投稿も週五日を目指します。とは言え、とても遅筆なので、きっと途中でお休みするでしょう。
興味を持って読んでいただけるよう頑張って書きますので、ぜひ、最後まで読んでください。
凛と冷え切った夜明け前の大気を切り裂き、声が響く。
「では、どうしても、私を連れて逃げてはくれぬと」
問いかけた乙女は、美しい横顔を失意と怒りで震わせた。それを隠そうとするように、夜風が黄金の髪を波立たせる。
問いかけられた青年は、長い睫を伏せたまま、静かにうなずいた。
「私を愛していると、誰よりも愛していると、そう言ったのは嘘であったのか」
乙女はもう一度問いかけたあと、視線を彼の背後の山脈に向けた。
空は黒からコバルトに変じ、稜線を露にしつつあった。
「もうすぐ、月と日が同時に昇る。それまでに、私は戻らねばならぬ。今度の戦は、両軍死力を尽くして戦うだろう。我らには力はあるが、何分人数がない。気力が尽きたときが死に時だ。彼らは皆、私の力だけを頼りにしている。ああ、私はこの星だって砕いて見せる。一面を焼け野原にだってしてみせる。でも、そんなことはしたくないのだ……」
声が途絶え、すすり泣きに変わった。
「お願いだ……、させないでおくれ……。フォン、お願い」
初めて、青年が口を開いた。
「ミーナ」
乙女は顔を上げた。
「私はそなたを愛している。それは真だ。されど、私はターマの誓いを立てし者。そなたを抱くことはおろか、触れることさえ禁じられている身。私にできるのは、見守ることだけ……」
「聞き飽きたわ」
叫ぶようにミーナは言葉を遮った。
「ターマの誓いがなんだ。一緒にいられればそれで良いと何度言えば分かるのだ」
「頭で分かっていても、心は思うままにはならぬもの。それで落ちて行ったターマを私は幾人も知っている」
「では、一緒に落ちようぞ」
「できぬ」
間髪おかず、フォンは言い切った。
「そうすれば、私だけが先に逝く。そなたを守り抜くことができなくなる」
既にコバルトは後退し、仄かな白に稜線は際立っている。
「それに、どこに逃げるというのだ。どこまで逃げても、彼らはそなたを追いかける。そなたの力が必要だから。だから、そなたが彼らを説き伏せるしかないのだ」
「それが出来れば苦労はせぬ。出来ぬから、こうして、こうして……」
ミーナは両手で顔を覆った。その指先をフォンは見つめる。
「ミーナ。誓いの指輪は持っているか」
「当たり前だ」
ほっとしたように、フォンの表情が緩んだ。
「それは、私の魂の一部だ」
「知っている」
「それを身に着けている限り、私がそなたを見失うことはない。どこまでもそなたを守る。だから、もう一度、彼らを説き伏せて欲しい」
「分かっている。だがな、彼らは私の言うことなど聞く耳持たぬ。そのことも分かっている」
ミーナは歩き出した。フォンの横を通り過ぎ、白く輝き始めた稜線に向かって。
「どこに逃げると問うたな」
足を止めず、振り返らず、叫ぶ。
「私は、あの星さえ超えて見せるわ」
そう言って走り去る。
日輪の、最初のきらめきが、一瞬にして世界を色づかせた。
色とりどりの花が咲き風に揺らめく春の野の向こうに、敵陣が黒い影を落としていた。
戦が始まった。
風の王と呼ばれる、ゼキュラ・キ・ノーンは、その様子を丘の上から見下ろしていた。
その傍らにミーナはいた。
「ミーナよ。そちが戦を止めたいと願う気持ちは分かる。けれど、彼らが我らを排除しようとしているのだから、こうするより他はないのだ」
返事はない。
「そちの持つ力は甚大だ。その指先で円を作るのだ。それだけで、戦は終わる」
動きはない。
ゼキュラはため息をついた。
「全く。頑固な娘だ。何を考えているのか知らぬが、無駄な流血は避けたいと思わぬのか」
初めて、形の良い唇が動いた。
「父上。弱い私をお許しください」
「は?」
思わず娘の顔を見つめる。娘は、父の言いつけ通り、左右の指先を合わせ円を作ろうとしている。
普通の人には、指先を合わせ完全な円を作るのは無理である。しかし、力を持つものはそれが出来る。そして、力が強くなるほど、それは真円に近づく。
ミーナの指先が完璧な円を形作った。
「父上。さようなら」
次の瞬間、大爆発が起こった。
大地が裂け、天空も裂けた。その裂け目に、ミーナは飛び込んで消えた。
地上は大混乱に陥った。
いきなり現れた裂け目に、多くの者が転がり落ちた。
大地と共に切り裂かれた川からは水が溢れ出し、人々を巻き込み、そのまま裂け目に流れ込んでいく。
しかし、それ以上に恐ろしかったのが天空の裂け目だった。誰彼構わず吸い上げて飲み込もうとしている。ふわっと浮き上がった者は、手足をばたつかせて行くまいと抵抗したが無駄なこと。それを見て、慌てて隣の者にしがみつく者がいる。しがみつかれた方も何かにしがみつきたくて必死だ。敵と味方が抱き合ったまま吸い込まれていく。
「何が起こった。ミーナ。何をした」
ゼキュラは、傍らに生えていた樹木にしがみついて娘を呼んだ、が返事はない。
代わりに、凛とした男の声が聞こえた。
「風の王。失礼仕ります」
フォンが王を押しのけ、ミーナの居た場所に長い杖を突き刺した。
次の瞬間、彼は杖をぽきんと折った。短くなった杖を両手で持ち、そのまま手を広げる。杖がにゅにゅっと伸びる。それをまた大地に突き刺し、折る。また伸ばし、今度は折った後で突き刺した杖の頭に渡し掛ける。
出来たのは、小さな門だった。
それに真向い、フォンは杖の頭につけた大きな輪を向け叫んだ。
「シャウト」
フォンの唇が閉じると同時に、浮き上がっていた人がパタパタと地上に落ちた。
しかし、フォンは動かない。門に向かったまま必死に目を見開いている。それは、見えない何かを探しているような表情だった。
混乱が続く中、二人の男が宙を飛んできた。
「ソウル・フォン」
「老師。来てくださったのですね」
「ああ、サファルも一緒だ」
「有難い。私はミーナを追いかけるので手一杯。どうか、川の方をお願いします」
「うむ」
うなずくと同時に、老師は空気に溶けるように姿を消した。
「俺は何をすれば良い」
サファルという若者が問う。
「門の内側に吸い込まれた人々を助けてやってくれ」
「任せろ」
サファルがそう応えた瞬間、長い髪が、ものすごい勢いでさらに伸び始めた。
髪は広がり、いくつかの束になって門の内側に消えていく。と思ったら、一束、くるりと巻いて戻って来た。中から、人がコロンと転がり出る。その人に小さな輪を向ける。ぐったりしていた人が、はっと目を開け起き上がった。
「な、何だ。何が起こったんだ」
キョロキョロと辺りを見回しうろたえている。
その様子を笑いながらも、サファルは次々と人を連れ戻し、蘇らせた。
しかし、とうとう、蘇りの技が効かなくなった人が出た。
「遅かったか」
「ああ、もう随分経つし。それに、これ以上遠くまで飛ばされた人には、俺の髪も届かない」
言いながらちらりとフォンに目をやる。
「まだ、見つからんのか」
「いや。見つけた。しかし、遠すぎる」
「意識だけでなく、体ごと行くか」
「それでは、戻って来られなくなるかもしれない」
「じゃあ、どうする」
「魂を飛ばす」
「体はどうする」
「置いていく。見張っていてくれ。すぐ戻る」
「分かった。念のため、これもってけ」
サファルが渡した小さな実を、フォンは口に含んだ。
次の瞬間、フォンの体が崩れ落ちた。
一夜が明けた。
体を起こしたフォンに、サファルが笑いながら声をかけた。
「やっとお帰りか。どこが、すぐだよ」
「ああ、すまなかった。それより、老師はどちらに?」
「会議だよ。和平交渉」
「そうか。では、報告は後にするか」
「で、ミーナは? 一緒じゃないの」
「置いてきた」
「は? じゃあ、何のために行ったの?」
「彼女は、記憶を失くしていた。言葉も」
「で、君のことも忘れていた?」
「ああ、怯えていたよ」
「で、手ぶらで帰って来たと」
「向こうで一人だったらそうはしなかった」
少し怒ったような口調で、フォンは返した。
「だが、幸い人がいた。彼は誠実だ。身体は健全で頑強。透視したから間違いない。彼女を守ってくれるだろう」
サファルはため息をついた。
「なるほど。仕方ないな。俺たちじゃあできないことを、彼は与えられる」
フォンは、ふっと寂しそうに唇を歪めた。
「それにしても、彼女のパワーはすごいな」
サファルの言葉に、フォンは彼に並び立った。
「まったく。これほどとは思っていなかった」
見下ろす大地は、戦前と大きく様変わりしていた。
裂け目は南北に走り、その端は見えない。
西から東に向けて緩やかに蛇行していた川が、今はほぼ直線に流れている。
「これは、老師の技か」
「ああ。まず水をせき止め、新しい土手を築いたんだ。真っ直ぐね。距離が短いから。もちろん、裂け目は土で埋め立てて。それから再び水を流す。とにかく早さが大切だと」
「それを一人でしたのか? 神業だな」
「全く」
裂け目の周辺では、落ちた人を救おうと敵味方なく助け合っているのが見える。
「最初から協力すりゃあいいのに、何で戦なんかするのだろう」
「それが人というものだろう」
「俺たちみたいにすべて捨てりゃ、楽なのにな」
「それはそれで困る」
「確かに」
二人の笑い声が、朝の光を震わせた。