1.
粗末な荷物を背負い、俺は屋敷の門をくぐった。
見送りも何もない。奴隷が捨てられるのに、誰が涙を流すものか。
もっとも、俺自身にとっても、ここを去ることに未練などは無い。
これから向かう「継承戦」の場で死ぬか生きるか、それだけが問題だ。
そう思っていた。
「待って……」
不意に、小さな声が俺を呼び止めた。
振り返ると、そこにいたのはアイリス・エルバートーーこの屋敷の主の娘だった。
彼女は青みがかった金髪を揺らしながら、俺の前に立つ。
相変わらず、貴族の娘らしい気品に満ちている。
アイリス様は、俺に唯一優しくしてくれた存在だった。
主である男とは違い、彼女は奴隷である俺にも普通に接してくれた。
それどころか、食事を恵んでくれたり、寒い日にはマントを貸してくれたりしたこともあった。
そんな彼女が、今、少し悲しそうな顔をしている。
「本当に行ってしまうの?」
その問いに、俺は淡々と答えた。
「ええ、御主人様の命令ですから。それに、私にはやらなくてはいけない事があるのです」
「やらなくてはいけない事?」
うっかりしていた。さすがのアイリス様でも、魔王とその配下の抹殺などと、こんな奴隷が言ったら正気を疑いたくなるだろう。
「ええ、この世に沢山いる、悪い奴らを懲らしめないと。そのために、継承戦を勝ち抜く事です。私の使命はきっと、それなのです」
「……そう。覚悟はもう……」
アイリス様は視線を落とし、何かを考え込むように沈黙する。
俺はそんな彼女の姿を見て、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
「アイリス様……。今までお世話になりました」
今までも、前の人生でも、様々な別れは経験してきた。でも、この別れはなんだろうか、今までにない感情が溢れ出てくる。
彼女は俺の前に進み出て、大きな包みを手渡す。
「これは?」
「開けてみて」
包みを開ける。中には――
「武器庫にあった剣と、戦闘用の服。貴方が出ると聞いて急いで無断で持って来たから内緒にしてね」
布切れを無理やり服にしたものを身につけ、まともな武器も持っていない俺にとっては願ってもない贈り物だ。
「ありがとうございます。大切にします」
「あと、これも……持って行って」
アイリス様は、そっと何かを差し出した。
それは、一枚の小さな布。
よく見ると、それはハンカチだった。
白地に青の刺繍が施された、それなりに上質なものだ。
「……これは?」
「お守り代わりよ。……きっと、レオンなら大丈夫だから」
アイリス様は微笑んだ。
俺はその言葉に、一瞬だけ言葉を失う。
そして、ふと気づく。
「……アイリス様は、私を『レオン』と?」
彼女は少し頬を赤らめながら、小さく頷いた。
「あなた、名前がなかったでしょう? ずっと気になっていたの」
確かに俺は、奴隷として生まれたせいで、姓を持っていない。
普段はただ「おい」だの「お前」だのと呼ばれるだけだった。
だが、アイリス様だけは、俺にちゃんとした呼び名を与えてくれていた。
「レオン。かつての偉大な英雄にちなんだ名前よ」
「英雄……レオンハルト・グレイバーン」
思わず、その名を口にする。
それは、俺自身の前世の名前だった。
まさか、この世界の誰かに、それを名付けられるとは思ってもみなかった。
「私には分かるわ。あなたには、他の人には無い強さがある」
アイリス様はそう言い、俺の手をそっと握る。
「だから、戻ってきて。あなたは私の――」
彼女は何かを言いかけて口をつぐむ。
青い瞳が揺れ、目には涙を浮かべている。
……全くどこまでも優しい人だ。
捨てられたに等しい奴隷の俺に、帰る場所など無いってのに。
俺は、そっと彼女の手を離す。
「ありがとうございます、アイリス様。必ず生きて帰ります。そして……またお会いできる日を、心待ちにしています」
「……! その言葉、嘘で終わらせたら怒りますよ」
「もちろんです」
そう言い俺はハンカチを受け取る。
貰ってばっかだ。服も剣も、名前もお守りも。
「レオン、あなたのおかげで私も覚悟が決まりました」
「覚悟?」
「ふふ、ヒミツです」
……? なんの事だろうな。
さっきまで泣く寸前だったのに今はフガフガと両手でガッツポーズをしている。
感情豊かで羨ましい限りだ。ホントに。
「アイリス様の覚悟の結果を、楽しみにしています。では、もうそろそろ向かわねば」
「ええ。行ってらっしゃい、レオン。魔を討ち滅ぼす現世の英雄よ……」
俺はアイリス様に背を向け、歩き出す。
もう、振り返らない。いや、振り返ってはいけない。
今日は、俺にとって「奴隷」としての最後の日だ。
戦い、勝ち残り、自らの力で道を切り拓く。
俺はこれからの人生を「レオン」として生きる。
継承戦が、俺の新たな人生の始まりだ。
そうして俺はーー自由を掴むための戦いへと向かった。