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07.『灰色の午後』 前編

 私は家族に帰りが遅くなるかもしれないと連絡を入れておく。


 そして、鷲尾さんと目的地へと向かう道すがら、暴走画の詳細を聞いた。


 今回暴走したのは、女性の魔法画家が描いたという「灰色の午後」という水彩画の魔法画。


 静かに降り続く雨が街を包み込む情景を描いた作品で――濡れた舗道、くすんだ空、にじむ街灯――午後の光が雨に滲み、すべてが淡くぼやけた灰色に染まっている。


 道の両脇には古びた建物が並んでおり――壁の色はくすんだ灰色や茶色で、窓には雨粒が伝い、にじんだ景色を映している。店の軒先には、雨を避けるために立ち止まる人の姿があるが、彼らの輪郭はどこかぼやけ、まるで雨と同化するように溶け込んでいるそうだ。


 遠くには街灯がいくつか灯っているが、光は弱々しく、湿った空気の中で霞んでいる。


 雨が降る午後の空は低く、雲は厚く垂れこめ、空と地面の境界が曖昧になるほどに――。


 この作品の主な色調は、灰色の濃淡を基調としているらしい。


 鉛色の空、雨に濡れたアスファルトの鈍い光、石畳に映る影――すべてが淡いコントラストの中に溶け込んでいる。しかし、その中にも微妙な温かみがあり、夕方に近づくにつれて、わずかに黄みがかった光が滲み出すそうだ。


 雨は細かい筆致で描かれ、透明感のあるグレーと白が重なり合っている。水たまりには周囲の景色がぼんやりと映り込み、踏みしめる足音が聞こえてきそうなほどの質感がある。


 絵の中央には、一人の人物が傘を持たずに立っている。黒いコートの肩に雨粒が染み込み、髪はしっとりと濡れている。顔は描かれていないか、あるいは伏せられていて表情を読み取ることはできない。


 だが、雨の午後に静かに立ち尽くすその姿には、言葉にできない思いが滲み出しているらしい。


 傘を差した人々が足早に通り過ぎていくなか、この人物だけは動かずにいる。その視線の先に何があるのか、何かを待っているのか、あるいは思考の渦に沈んでいるのか――観る者に解釈を委ねる構図となっている。


 この魔法画を描いた女性は現在は居場所が分かっているが、暴走しだした当初は失踪していたらしい。


 事情を聞こうとしてもかたくなに話そうとせず、描き直させることができずにいたそうだ。


 「――この扉の先です。準備はよろしいですか?」


 目の前の扉が、やけに大きく見える。


 心臓の鼓動が高鳴る。震えそうな手をぎゅっと握りしめ、一歩前へと踏み出す。


 瞼を閉じ、一度深く息を吸い込む――そしてゆっくりと吐き出す。


 覚悟は決めた。


 もう、ためらう理由もない。


 目を開け、ノブに手をかける。


 「――はい!」


 そしてぐっとノブを回し、力強く扉を開いた。


 

 扉を開けた先は、まるで別世界のような景色が広がっていた。


 最初はぼんやりとした薄明りに包まれ、空気がひんやりと肌をなでる。足元に続いていく湿った石畳の道が、まるでその先へと誘うように続いていた。


 私たちが一歩踏み出すと、足音は反響することなく、雨の音だけが響いている。


 雨粒が軽やかに地面を叩き、その音が遠くから聞こえてくるような気をさせてくる。


 灰色の空は低く垂れこめ、街灯の灯りはぼんやりと滲んでいた。


 「これは――まるで……」


 目の前に広がっているのは、先ほど聞いた「灰色の午後」のような世界だった。


 建物の輪郭はわずかに滲んで、霧のような雨の粒子に包まれている。そのすべてが淡い灰色に染まり、現実と幻想の境界が曖昧になっていた。


 「今回の暴走画は、絵の通りに現実を侵食するタイプのようなんです」


 魔法画の暴走パターンは、今回のように描いた絵の通りに現実を侵食するタイプと、描いた絵が作者の意図とは異なり――予期せぬ形で具現化をするタイプの二種類が存在する。


 雨の冷たさ、街灯の柔らかな灯り、そしてこの空間に漂う空気の寂しさが、まるでこの場所そのものが誰かの心の中の一部であるかのように感じられた。


 それはどこまでも深く、静かで――私の中に、言葉にできない感情を想いおこさせる。


 「今回はまだ、雨が降り続けている程度で済んでいますが――魔法画が暴走すると、ここまで被害が広がってしまうんです。そうなれば、作品はもはや『美』ではなく『脅威』へと変わってしまう」


 「――っ」


 「本人が何を想い描いたのか――七島さんはその心に寄り添い、紐解いていってください」


 「――分かりました」


 「――それでは、行きましょうか」


 しとしとと降る雨の中では、建物のシルエットがにじんで見える。


 傘の端をつたう雨粒が滴となって落ちていくのを見ながら、遠ざかる街の喧騒を背に、静かにたたずむその建物へと近づいていく。


 「――ここです」


 雨音が背後に遠のくなか、私は建物の前で一度、小さく息を整える。


 扉の奥に何が待っているのか。


 ガチャリ――。

 

 私はそっと手を伸ばし、扉を開けた。



 扉を開けた瞬間、ふわりと絵の具の匂いが鼻をかすめた。


 目の前には、積み重ねられたスケッチブック、染みついたインクの跡、窓辺には使い込まれた筆やチューブが無造作に散らばっていた。


 静寂の中に、創作の鼓動が脈打っているのを感じる。

 

 誰かがここでずっと創作に没頭していたことが伝わってくるほどに――。


 そのアトリエの片隅に薄明りの中、一人の女性が筆を持ったまま一つのキャンバスをじっと見つめていた。


 白いシャツの袖をまくり上げ、指先には絵の具が滲んでいる。艶やかな黒い髪の隙間から覗く横顔には、満足とも迷いともつかない複雑な表情が浮かんでいた。


 その女性はふとこちらの存在に気づいたのか筆を置き、わずかに息を呑んだ。


 そして、ゆっくりとこちらに振り向く。


 二十代の顔立ちの整った綺麗系美人というのが、彼女の第一印象。


 だが、彼女のその瞳には、言葉にできない重たさがあった。笑っても、泣いても――その瞳の奥にある暗い影は決して晴れることがない。


 そんな暗い瞳。


 彼女の目を見た瞬間、胸が締めつけられるような感覚になった。


 私はこの瞳を知っている。


 私はこの暗さを知っている。


 何も語らずとも彼女の心の奥深くに刻まれた傷の重さを、直感的に痛いほど理解してしまう。


 「……っ」


 声にならない言葉が、私の口元で揺れる。けれど、それはまだ形を成さず、微かに震えながら喉の奥に沈んでいった。


 「こんにちは、早川さん。すみません、何度もお邪魔してしまい――」


 一瞬の沈黙の後、彼女は小さく息を吸うと――静かに口を開いた。


 「……どうも」


 ふいに、彼女の視線がこちらへ向けられる。探るような、確かめるような――そんな眼差し。そして、ぽつりと声が落ちる。


 「……あの、あなたは?」


 私は突然の問いかけに、一瞬反応が遅れる。


 すると、


 「こちらの方は今日――あなたとお話をしたいということでお連れしました」


 鷲尾さんはいたずらっぽい笑みとともに、私に小悪魔的なウインクをしてみせた。

 

 「えっ!? あ、あの、私は――」


 「……そうですか。話すことはないと前にも言いましたが……」


 「私はお邪魔になりそうなので帰りますね。あとはお二人でゆっくり。それでは!」


 「えっ、あ、ちょっと……」

 

 そう言った鷲尾さんのほうを見やると、彼女は軽く親指を立て――「あとは任せた!」と言わんばかりの茶目っ気たっぷりな表情とともに、この場から去っていった。


 場の空気がしんと静まり返り、重苦しい空気が広がる。


 ――なんて空気にしてくれたんだあの人!


 どうしよう。


 彼女と話すべきことはあるはずなのに頭の中で言葉を組み立てようとするが、どれも上手くはまらない。


 何をどう切り出せばいいのか心の中でぐずぐずと悩んでいるのを察してか、彼女のほうから不意に声をかけてきた。


 「――何か飲む?」


 「え、あ、はい。飲みます」


 「紅茶しかないけど、それでも?」


 私は首を縦に振って答えると、彼女は静かに立ち上がり、


 「そこの椅子に座って待ってて」


 私は言葉の通りに座って壁に掛けられた絵を眺めながらしばらく待っていると、彼女が紅茶を運んできて静かにテーブルに置いた。


 持ってきた紅茶のセットは年代を感じさせるアンティークもので、薄いピンクの花模様と繊細な金色のラインがどこか高貴な雰囲気を漂わせているが、驚くべきは彼女の紅茶を淹れる手際――それはまるで長年の習慣で身につけたかのような無駄のない完璧な美しい流れを持っていた。


 そして、淹れた紅茶のカップを彼女は無言で私の前に差し出すと、紅茶の湯気がふわりと立ち上り温かな香りが私を包み込んで、穏やかな時間が私たちのなかで流れた。


 紅茶を一口飲み、カップをそっと置いた彼女は視線を私に向け、少しだけ間を取ってから本題を切り出した。


 「それで、あなたは私と何が話したいの? というかあなた名前は?」


 私は慌ててカップをテーブルに置いてから、


 「わ、私は――七島智華っていいます。その今日は……」


 「私は早川(はやかわ)明美(あけみ)。まあ言わなくても分かるわ。どうせ暴走画のことでしょ?」


 「っ……はい、そうです……」


 ――まあ、分かりますよね。


 「さっきも言ったけど、私は話すことはないし描き直すつもりもないからね」


 そう告げられ、私は息を呑んだ。


 言葉を続けるべきか、それとも黙っているべきなのか。手詰まりなのはたしかだ。


 「じゃ、じゃあ、関係ないことならいいですか?」


 私はとりあえず今、自分ができる精一杯のことをしようと少し躊躇いながらもそう問いかけた。


 すると彼女は少し驚いた顔をしながらも、「それならいい」とあっさり答えた。


 私は何を話そうか迷ったが、無難なところから聞いていこうと決める。


 「早川さんって、水彩画の魔法画家なんですか?」


 「ええ」


 彼女の回答はシンプルに二文字。


 「へ、へえ――そうなんですね……」


 続けて私は、


 「この紅茶のカップ、とても素敵ですね」


 と話題を変えてみる。


 「そうね」


 私は自分のコミュニケーション能力の低さを今日ほど呪ったことはない。


 焦る気持ちを抑えきれず、「最近観た映画は?」や「何か面白い本とか読みましたか?」、「趣味は何ですか?」など、暴走画の件とは全く関係のない話題を必死になって振った。


 ありがたいことに彼女はそのすべてに答えてくれているとふいに、


 「ぷふっ、あははっ――」


 「えっ……?」


 「いやあ、ごめんごめん。君が必死になって会話を続けようとしてるからつい――ふふふっ」


 彼女の表情が少し和らいだのを見て、私はようやく手応えを感じた。


 ――まあ、少し解せないところはあるけどとりあえずは良し。


 「はあ――いつぶりだろ、こんなに笑ったの」


 少し深呼吸をしてから私は思い切って、今まで避けてきた質問を彼女にぶつけてみることに。


 「あの、早川さんは何で――魔法画を描くんですか?」


 「……何で――か、そうだな……」


 少しだけ目を伏せ考え込んだ後、彼女はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


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