06.滲む記憶を抱いて
時間の流れは早く、あの日の出来事から三か月が経過した。日常を過ごしながらも、頭の中で答えを探し続けてはいるが、まだ結論は出ていない。
そんな思考の渦に囚われた日々を過ごしていたある日――ふと郵便受けを覗くと、まるでそれを断ち切るように画廊からの手紙が舞い込んでいた。
――どうしてまた……?
不思議に思いながらも、前と同じ――黒く古めかしい封筒を手に取り、慎重に赤い封蝋を剥がしていく。
中の手紙をそっと引き出し、息を整えながら、視線を文字の上へと落とした。
『急ぎの要件につき、至急画廊にお越しいただけますでしょうか?』
手紙を握る手に少し力がこもる。
「なんで……?」
急ぎの要件とは、一体何のことなのだろうか。答えを急かすつもりはない――その言葉が、嘘だったように思えてしまう。
それでも、理由は何であれ、私は画廊へと向かうことを選ぶ。
あの日と同じ道を歩きながら、画廊に向かって足を運ぶ。
「ふぅ……」
黒い門を開け、扉の前に立ち、深呼吸をひとつ。たかだか三か月ではあるが、どこか懐かしくもある扉の取っ手に手を伸ばし――そしてゆっくりと開けた。
扉を開けた先には、前と変わらぬ風景が広がっている。
「よくお越しくださいました」
聞き覚えのある、穏やかな声が響いた。温かい眼差しをこちらに向け、微笑みながらそう口にした女性――鷲尾琴さん。その優雅な立ち振る舞いや、やわかな笑顔の表情は、以前と変わっていない。
「あ、あの――要件っていうのはもしかして、あのことですか?」
「いえ、違います。今回お呼びしたのは、別の要件です――が、そのことに関係があることではあります」
「関係、ですか……」
「はい。ですので、場所を変えて話をしましょうか」
別の部屋に案内され、そこで説明を受けることに。落ち着いた空間に座ってから、鷲尾さんは私を呼んだ理由の説明を始めた。
「七島さんを呼んだのは、先ほども申しました通り――暴走画の回収の件に関係していることだからです」
「――はい」
「答えを急かすつもりはないと――そう言いました。ですが、今回の件であなたの選択を聞かせてほしいと――そう思っています」
「……っ」
「――それでは、要件を説明していきますね。先日、七島さんが住んでいる地域の近くで、魔法画が暴走する案件が発生しました」
「魔法画が暴走――ですか……!?」
「はい、まだニュースにはなっていませんが……」
「……その、私は何を……」
「あなたには、その暴走画を止めていただきたいんです」
「わ、私にですか!?」
「はい。止めるとは言いましたが、正確には――描き直させてほしいんです」
「描き直させる……?」
「ええ――暴走画は、その魔法画を描いた本人でしか止めることができないんです」
耳を疑った。そんな話、今まで一度も聞いたことがない。魔法画は描いた本人にしか止められないなんて。
「魔法画は、描き手の魔力と想いが深く結びついています。それによって、他人が筆を入れようとすると――絵が他人の筆跡を異物と認識し、さらなる異常を引き起こしてしまうんです」
「……それじゃあ、私は一体何をすれば……」
頭の中で思考をぐるぐると回すが、何をどうすればいいか全く見えてこない。
「七島さん、あなたには――その魔法画を描いた本人に描き直すよう説得してほしいんです」
「説得…ですか……?」
「はい――関係があると言ったのは、つまりそういうことです」
「で、でも――どうして私が……?」
「失礼を承知の上で申し上げますが――あなたには過去に、魔法画を暴走させてしまったことがあります」
「……っ」
「最悪の事態は免れていますが、それでもあなたには今も癒えない心の傷がある。だからこそあなたの力が必要なんです」
「……?」
「その傷の痛みを知っている、七島さん――あなたにしか……」
「私の…痛み……」
思い出すたび、心が凍りつくような感覚に襲われるあの日の記憶。あの時の心の痛みは、昨日のことのように生々しく感じられる。
目を閉じれば、幼い私がこちらを見ている。何も知らず、絵を描くことに対してただがむしゃらだった頃の自分。あの頃の無邪気な期待は、今は恐れに変わっている。
「……私に――できるんでしょうか……?」
ここから逃げてしまうのは簡単だ。もう一度あの日と同じ痛みを味わうくらいなら、このまま逃げて、これからもずっと魔法画と向き合わずに生きていくことだってできる。でも――それで本当にいいのだろうか?
今もまだ迷っている。しかし、このまま背を向けてしまえば――きっとまた後悔するのだろう。
指先に微かな震えを感じる。ほんの少しの期待と圧倒的な恐怖が私の胸の奥でせめぎあっている。
「――あなたにしかできません」
「――ふぅ……」
もうやめよう――何度自分にそう言い聞かせても、心の奥底ではずっと諦めきれなかったこと。
私は深く息を吸い込む。
もう二度と同じ後悔は繰り返したくない。
あの日挫けて震えてしまうその手は、今はしっかりと拳を握れている。痛みも、悔しさも、全部知っているからこそ、もう一度向き合いたいと思う。
怖くないわけじゃない。でも、今はそれ以上に――この人の言葉を信じてやってみたい。
「――分かりました。やらせてください」
悩む時間はもう十分もらった。あとは動くだけ。何度倒れたっていい。私は――やるんだ。
鷲尾さんは何も言わず、ただ一度だけ静かに、そして力強く頷いた。私にはそれだけで十分だった。
私は胸の奥に宿った決意を確かめるように、ゆっくりと顔を上げる。頬を撫でる風が、まるで背中を押してくれているようだった。
そして、踏みしめる地面を確かな足取りで歩き始めた。