05.過去の一筆がキャンバスに滲み出す
――ドクッドクッドクッドクッ……。
心臓が強く脈打つのを感じる。
心が波立つ。静かだった湖面に、大きな石を投げ込まれたような衝撃だった。驚きと戸惑いが入り混じり、思考が追い付かない。
「……っ」
私は必死になって言葉を探すが、喉が詰まって声にならない。ただ、息だけが漏れる。
「あなたの事情はお母さまから聞いていますが、その上での頼みです」
「……ど、どうして……私が……」
かろうじて声は出せたものの、それ以上の言葉が見つからない。
「あなたにこのようなことを頼むのは、私もとても心苦しいです――が、あなたにしか頼むことができないんです。その痛みを知っているあなたにしか――」
その瞬間、私の頭の中に薄暗い影が一滴――静かに滴る。
「見て、すごいでしょ!」
嬉しそうに笑いながら、小さな手で筆を握る。
私はその日、家族のために一枚の絵を描いた。
母が好きだった青い鳥。
父がいつか見たいと言った空の景色。
妹が綺麗と言っていた花。
私は、ただ――家族を喜ばせたかっただけだった。
最後のひと筆が落ちた瞬間。
キャンバスの中で、青い鳥が震えた。
ふわり――。
その羽が風を生み、次の瞬間――青い鳥はキャンバスの中から飛び出した。
「――っ!」
私は息を呑んだ。
部屋の中を舞う青い鳥。
透明な光をまとう羽、小さなくちばしが柔らかく開閉するたびに澄んだ鳴き声が響く。
「生きてる……?」
目を丸くする母、驚きながらもどこか嬉しそうな父、きゃっきゃとはしゃぐ妹。
私は誇らしかった。
これが、魔法画。
世界で一番美しい奇跡――のはずだった。
突然、青い鳥の羽がふるりと震えた。
深く透き通るような青色は漆黒に染まり、くちばしが鋭く伸びる。爪が異常に長くなり、瞳が闇を帯びた。
「智華……!」
母の叫びが響いた瞬間、漆黒の鳥は鋭い爪を振り上げた。
風が吹き荒れ、部屋の窓が砕け散り、家具がなぎ倒されて、母の腕に深い傷が刻まれる。
私の心臓は凍りついた。
――違う、こんなはずじゃなかった。
魔法画は、人を喜ばせるもののはずなのに……。
どうしてこんなことになってしまったの?
「お願い、やめて……!」
震える声で叫ぶと、漆黒の鳥は私の涙を映し、かすかに羽を震わせ――そして、砕け散った。
まるで、命が消えるように。
静寂の中、私は震える手で筆を見つめた。この筆で――この手で生み出したものが、大切な人を傷つけた……。
私はあの日の出来事を思い出すたび手が震え、胸が締め付けられるように痛みだす。どんなに時間が経っても、癒えずに私の心を引き裂こうとしてくる。
「――っ!?」
震える私の手を、鷲尾さんはそっと触れてから、優しく包み込むように握りしめた。彼女の手のひらから伝わる温もりが静かに安心感を与えてくれ、震えが少しずつ和らいでいくのを感じた。
「すみません、突然こんなこと……」
ふと気づけば、私は顔を上げていて、そこには優しい瞳が静かにこちらを向いていた。まるで何も言わなくてもすべてを理解してくれているかのような――そんな穏やかな温もりが感じられ、心がほっとしてくる。
「先ほども申しましたが、あなたのお母さまから事情はすべて聞いています。過去に魔法画が暴走したこと、その暴走によって、最愛の家族を傷つけてしまったこと……。その過去があなたにとってどれだけ辛く苦しいものか、私には想像もつきません。ですが、それでもあなたにしか頼めないんです」
思わず胸がじんと熱くなる。静かに響くその声が――その言葉が、私の乾いた心にそっと染み込んで、張りつめてぎゅっと縮こまっていたものが少しずつほぐされていった。
「……わ、私は……」
「答えを急かすつもりはございません。じっくり――焦らず考えて、自分にとって納得できる選択をしてください。あなたの気持ちが一番大事なんですから」
その言葉とともに、私が落ち着くまで、強くも弱くもない――ちょうどいい力加減で優しく手を握り続けていてくれた。
「……あ、あの――時間をいただけませんか? 私は今、高三で――進路のこととか、いろいろあるので……」
「はい――もちろん、待っていますよ」
* * *
私は名残惜しさを感じつつも、この場所の余韻を胸に刻みつけながら、帰るために扉の前に立ち、ゆっくりと振り返る。
「――今日は、本当にありがとうございました。あのことに関しては、じっくり考えたいと思います」
「はい――いつでもお待ちしています」
私は感謝を込めて深く一礼し、そっと扉の取っ手に手をかける。わずかに軋む音とともに開いた扉の向こうへ、一歩――踏み出した。
静かな足音が響く帰り道は、夜風が優しく吹き抜ける。現実へと戻る道のりは、行きよりも少し長く感じる。
私はふと立ち止まり、夜空を見上げる。星は変わらず輝いているのに、今までとは違う意味を持っているかのように見えた。
「魔法画――か……」
言葉の意味、表情の奥に隠された想い――それらを確かめるように何度も心の中で反芻しながら帰途についた。
家の明かりが見えてくると、ほっと息をつく。玄関の扉を開けた瞬間、嗅ぎなれた日常の匂いが鼻をかすめる。
「おかえり、智華」
その言葉が静かに降り注ぐ。帰ってきた実感がようやく胸に広がった。
「うん。ただいま――母さん」
「――どうだった?」
興味深そうな視線が私に向けられ、頭の中が先ほどの出来事でいっぱいになる。私は答える前に、一度深く息を吸った。
「こういうことがあって――」
「――そう、そんなことが」
「まだ頭の中でぐるぐるしてる……」
軽く息を吐きながら、本音をこぼす。
「……今の智華は――どう考えてるの?」
少し間を置いて、核心にふれるように尋ねられ、私は自分の素直な気持ちを言葉を選ぶように慎重に話し始める。
「……私は、正直言ってまだ怖い――魔法画と関わることが……。しかも、暴走した魔法画の回収なんて、私には……」
ぽつりぽつりと私が話しているのを母は、静かに頷きながら、何も言わずにただその思いを受け止めてくれている。
「恐怖も不安もある……。自分の進路のことだってある……。で、でもね――私の中で、やってみる価値があることなんじゃないかっていう気持ちもあるんだ……。もう一度魔法画と向き合うことが、私の止まった時間を動かすんじゃないかって……」
「智華――怖いという気持ちも、進路に悩む気持ちもあると思う。でもね、一番大事なのは、あなたが何をしたいか、それだけだと思うの。だからね、智華――自分の気持ちに正直になって」
「私の…気持ちに……」
「整理がついた時でいいからね。今日はいろいろあったでしょ。だから、お風呂に入ってもう休みなさい」
「……うん。そうする」
たしかに、振り返ってみれば、いろいろなことがあった一日だった。
外で夕食を済ませていたため、私はお風呂に入り、パジャマに着替えて布団の中にくるまる。そして寝室の灯りを消して、私は眠りについた。