03.描かれしものたちの囁き
休みの日、私は招待状をしっかりと握りしめて、家を出た。
先日、奏織の言葉、母の言葉、家族から背中を押され封を開けた手紙。その中にあったのは、たった一枚の黒い紙に金色のインクで書かれた文字だけだった。
『魔法画廊への招待
扉はあなたを待っています』
それだけ。簡潔に書かれた言葉が、なぜか妙に心に響く。
招待状には地図らしきものも記載されていたが、見たこともない場所だった。私はマギフォンと地図を頼りに、現在地と目的地を交互に見比べながら進む。
細い路地を抜け、地図に示された目的地を目指す。自分が住み慣れた街なのに、周囲の景色がどこか違って見える。まるで知らない街を旅しているような気分だ。
「地図ではもうすぐのはずだけど……本当にこの道で合ってるのかな?」
さっきまで通りに並んでいた建物が見当たらなくなる。代わりに、古びた石畳と低く垂れた木々空間に変わっていた。
風が不自然に静かで、妙に冷たく感じる。
私は曲がるべき角を探しながら、慎重に歩みを進めた。
「ここかな……?」
マギフォンの画面を見つめる。現在地の点と目的地の点が交わった場所には、黒い鉄製の門に守られている扉があった。
「『扉はあなたを待っています』……か」
これがその扉なのだろうか。
私は戸惑いながらも、目の前にそびえる黒い門の前に立った。門の表面には無数の装飾が施されていたが、年月を経ているのか黒ずみ、目に見えない何かが宿っているかのような不気味な気配を感じさせた。まるで、この先へ進む者を選別するかのような――。
迷う気持ちを振り払うように、私は両手を伸ばし、門を開けようとした。
どっしりと構えているので力を込めて押そうとしたが、わずかな力であっさりと門が開いたので、思わずよろめいてしまった。
まるで最初から私が来るのを待っていたかのように――。
「ふぅ……」
一呼吸置いて、私は扉の隙間から見えるわずかな光に誘われるように、静かにその扉を開けた。
踏み入れた先は、まるで異世界のような空間が広がっていた。高い天井に、広がる大理石の床、壁一面に飾られた絵画。
「ここが――魔法画廊……」
目の前に広がる景色に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。あまりにも非現実的で――その美しさがあまりにも強烈で、目を奪われるような輝きが、ただただ圧倒的だった。
その美しい景色に見とれていたが、ふと壁に飾られた一枚の絵画が目に入った時、現実に引き戻された。
私は、その絵の前に足を向ける。
『瞳の中の星屑』
そう書かれていたのは、可憐な少女が描かれている肖像画だった。繊細に輝く絹のような白髪、その瞳の翡翠色は深く、美しく、遠くの星々が瞬くような微細な光の粒子が時折輝きながら漂っている。
そんな絵――。
私が近づくと、少女の唇がわずかに動いた。
「……あそ……ぼ…」
「……っ」
私は息を呑んだ。
絵の中の少女が、確かに言葉を発したのだ。
驚いて後退したが、少女は相変わらず微笑んでいる。さっき聞こえた声が、まるで幻聴であったかのようにもう聞こえなくなった。
ここで私は思い出した。
「そうだ…ここにあるすべての絵画は――魔法画だ」
そう――魔法画廊は、魔法画のみを展示している画廊だ。それを知っていたはずなのに、この絵を見るまですっかり忘れていた。
私はその絵に名残惜しさを感じつつも、次の魔法画へと足を向けた。柔らかな照明のもと、額縁の並ぶ空間を静かに歩き、次の作品へと近づいた。
『無限の光塔』
今度の絵は、巨大な塔が描かれたものだった。塔の頂から放たれている黄金色の光が降り注ぎ、周囲一帯を金色の霧に包んでいるような――そんな幻想的な景色を作り出していた。
その魔法画にじっと目を凝らすと、塔の表面を流れる光の粒が、夜の静けさの中で生き物のように確かに脈打ちながら瞬いていた。
それだけではない。塔の下――地上には、無数の小さな人影がいくつも描かれている。最初はただの点にしか見えなかったが、よくよく見ると、ひとつ――またひとつと浮かび上がる。そして、その誰もが塔の光を仰ぎ見ていて、空へと手を伸ばしていた。
伸ばされた手のひらが、まるで祈りのように静かに震え、その表情には焦りや悲しみ、希望などが入り混じっているように見える。
「この絵の中で何かが起こっている……?」
塔の光は彼らにとって救いなのか、それとも――。
私は塔の光を背に受けながら、次の絵へと足を向けた。
視線を流していたはずなのに、気づけば、ある一点でふいに動きが止まる。並ぶ絵の中で、ひとつだけ何かが違う。それまで穏やかだった空間に、まるで異物が紛れ込んだかのような――そんな異質さを感じた。
『光を拒んだ画布』
その絵は、ただただ黒かった。深く、静かで、底の見えない闇。どんな角度から見ても、どこまでも黒が広がっていた。
しかし、これも同様にただの黒ではない。目を凝らすと、わずかな揺らぎが見える。影が重なり合うような、不確かな歪みがそこにあった。まるで、何かがその奥に隠されているかのように。
「……ない……さない…」
「…?」
「……許さない」
耳元でそう囁くような声が聞こえ、私は反射的に後ずさった。
これは本当に「描かれたもの」なのか?
あるいは、色を奪われたまま、ただそこに「存在」しているだけなのか?
何に対して「許さない」のか?
この絵の黒は見る者によって、異なる意味を持つと思う。怒り、恐怖、虚無、それとも――安らぎか。
私には、深い悲しみのように思えた。
ただ唯一確かなのは、その画布が――光を拒んでいるということだけだった。
私はその絵を背にして足を進めるとやがて、ひとつの扉が視界に現れた。その扉は古びていて、木製の表面は所々に傷がついており、時間の経過を感じさせる。
扉の向こうからは何の音も聞こえてこない。ただ、見えない何かがその先に待っているかのように、重々しい沈黙が漂っていた。
静かな空気を感じながら、手を挙げる。ゆっくりと指先が扉に触れると、その表面の冷たさが伝わってきた。
「すぅ……」
深く息を吸い込み、私は意を決して軽くノックする。
――コンコン。
ノックの音が静けさの中に響き渡ると、しばらくの間、何も変わらない。だが、ふと扉の隙間から冷たい風が流れ、開き始める。音もなく、ゆっくりとその隙間が広がっていき、扉の向こう側の空間が顔を見せ始めた。
足を踏み入れることを躊躇いながらも、一歩を踏み出す。今、扉が完全に開かれた瞬間に、部屋へと迎え入れられたような気がした。
「……失礼します」
自然とそんな言葉が口から出た。
日の光が差し込むその部屋には、静かに椅子に座る一人の女性がいた。
「――ようこそ」