欺瞞少女
「今日もお母さん仕事で帰るの遅くなるから、冷蔵庫のもの適当に温めて食べてね」
「うん、分かった。お母さんもあんまり無理しないでね!」
「いつもごめんね。一緒に食べられなくて......」
「私は大丈夫。それでお母さんが少しでも楽になってくれたら何よりだから」
「本当、あなたは偉いわね。お母さん助かるわ。もし何かトラブルがあったらすぐ電話するのよ」
「へへ、私はいつでもお母さん想いだから当たり前。行ってらっしゃい!」
「うん、行ってきます!」
玄関で母親を見送った後、彼女は一人小さくため息をついた。
そんな彼女は、現在母親と二人暮らしをしている中学生だ。父親は彼女が幼い頃に事故で亡くなり、今はこうして彼女の学費や生活費を稼ぐために母親が一生懸命働いている状態。
「高校生になったら沢山バイトして、少しでもお母さんを楽にさせてあげなくっちゃ」
基本的に母親は朝早くから仕事に行くため朝食を作る時間がなく、それに加えお腹も空いていないので二人とも朝食をとることはない。故に、この時間は比較的彼女にとって余裕のある時間となっている。
母親が仕事に行ったしばらく後、彼女も母親に続いて学校へ行くため家を出た。
学校に到着し、何の変哲もなく授業を受け迎えた休み時間。そんな彼女の席周りにはいつものように数人が集まって、談笑をしていた。
「――でさ、その時男子が落ちてたバナナの皮を踏んで転んじゃって。でそれを見た私と――」
「ふふふ、なにそれ」
「ね!面白いでしょ!?それでその子がバーン!ってなってグワーって!!」
「え、聞いて聞いて私も――」
彼女はどんな話でも笑顔で聞き、望んだりアクションをしてくれるため、周りにいる女子たちは皆各々気持ち良く好き放題語っている。もはや彼女に聞かせるために皆集まっていると言っても過言ではないだろう。
「そういえばさ、いつもこっちの話を聞いてもらってばっかりだから、たまにはこっちが聞きたいかも!」
「あー確かに!いつも私たちが話してばっかりだもんね」
「え、でも面白い話なんてなにもないよ?」
「面白くなくてもいいって!ほら、何でもいいよ。自分のこととかさ、最近あったこことでもいいしー」
「うーんそうだなぁ......。じゃあ最近読んだ、怖い話を皆にしてあげるね!」
「やったー!私怖い話大好きだから気になる―!!」
「私も―!聞かせて聞かせて!」
こうして彼女は怖い話をすることで、最後まで皆を楽しませたのだった。
中学時代はたいていそのような日常を送っていた。そしてそれも瞬く間に過ぎ去り、彼女は高校生になった。
高校生になって出来るようになったことと言えば、まずはアルバイト。彼女は学校に通う傍らで、スーパーのレジ打ちをしてお金を稼ぐことになった。
それからある程度の月日が流れ、業務にも慣れてきたある日。彼女はいつものようにレジ打ちをしていると、店長から事務所に呼び出された。
「いやーいつもご苦労様。呼んだ理由なんだけど、実は最近品出しの方が人手不足でね......。だからそっちの業務も少しずつ覚えてもらいたいんだよね」
「なるほど、それは大変ですね......。分かりました、そういうことでしたらもちろん覚えますよ!私に任せてください!!」
「おお本当か!助かるよ、ありがとう!!」
「いえいえ、こちらこそ勉強になりますので!」
それから、こんなこともあった。
「あ、もしもし?店長だけど、急に電話してごめんね。実は今日レジ担当の人が急用で来れなくなっちゃったらしくてさ......だから君を頼るしかなくなっちゃって。申し訳ないんだけど今から来れないかな?」
「あっ、そうなんですね。今ちょうど学校から帰っている最中なので、あと30分後でよろしければなんとか......」
「おお、じゃあ30分後に、頼むね!ありがとう!」
それからはたいてい人手が足りなくなると自分が呼ばれ、レジ打ちだけでなく品出しや総菜コーナーなどの仕事を受け持つことが多くなった。もちろんアルバイトが出来る程度の簡単な仕事ではあるのだが。
そして丁度店長から呼ばれたこの日は、授業や放課後にあった委員会活動などでかなり疲れていた。しかしこれも店長のため、母のために働きに行こう。そう彼女は思った。
それから数日たったある日、彼女はここでも中学時代と同じように自分の周りに集まった女子たちと談笑をしていた。そんな中、いつもなら周りに集まった女子たちの声以外は全く耳に入ってこないのだが、その時だけは違った。
「――なんかあの子、いつも周りに人集まってない?」
「ん?あーあれね」
「なんかキモくね?八方美人っていうかさ」
「まあそれはちょっと思うわ。どんだけ人に好かれたいんだよって感じ?」
「承認欲求のバケモノなんだろうね。でもああいうタイプって、純粋に人に好かれたいというよりは、誰からも嫌われたくない、相手にされなくなるのが怖い。みたいなのが根底にあったりするんだよね」
「要はポジティブな気持ちじゃなくてネガティブな気持ちで動いてるってことか。無価値感を味わうのが怖いんだろうねぇ」
「そうそう、今もああやって自然な笑顔で接してるように見えるけど、それが全て計算された上辺だけの笑顔だと思うと心底気持ち悪いわ。というか普通に軽蔑する」
「ちょっとー、言い過ぎだって」
その後に続く笑い声も耳に入ってくるくらいだ。これは決してその二人が彼女に聞こえる声量で話していたわけではなく、別に自分だと言及されているわけでもない。しかし、彼女としてはそれが妙に心に引っ掛かっていた。
その日の放課後は委員会があり、彼女は荷物をまとめ集合場所の教室へ向かおうとすると、後ろから声が掛けられる。
「あ、悪い悪い。俺今日も体調悪くってさー?担当の先生に俺のこと言っといてくんね?」
ヘラヘラと笑いながらそう言った男子生徒は、とても体調が悪そうには見えなかった。
「え、でもそれは自分で言えば――」
「いやー頼むよ!な?この通り!ついでだと思って、な?」
男子生徒はわざとらしく下げた頭の上に両手を合わせて頼み込んでくる。
「う、うん。そうだね、じゃあ私が言ってみるよ」
「おおマジか!お前めっちゃ優しいよな!助かるぜ!」
そう言うと、彼は元気よく教室を後にした。
彼女の所属している委員会は男女二人で仕事を行うため、片方が休むとその分もう片方に負担がかかってしまう。しかし、そんなことをこの男子生徒が考えているとは思えない。
委員会が終わった後、彼女は校門で待ち合わせていた女子と一緒に帰ることになった。
帰り道、何気ない会話からふとあることを言われた。
「――そういえばさ、なんか最近、疲れてない?大丈夫?」
「え?」
「いやだって、なんか話しててもいまいち反応薄いなーみたいな?」
「――」
「別にそれが悪いとかじゃないんだけど、ちょっと気になったからさ」
「――いや、大丈夫だよ。ただ少し、最近は体調があまり良くない日が多くて......」
「え!?そうなの?」
「うん。たまに頭痛がして、多分その影響だと思う。なんか、ごめんね?」
「いやいや全然!なんか頼み事とかあったら遠慮なく言ってね!」
そうして彼女は高校を卒業するまでの間、いつも通りで何も変わらない日常を歩み続けた。
高校を卒業し、彼女は介護職に就いた。そしてその現場は特に人手不足だったため、一人に任される仕事の量もかなり多かった。
「悪いわね、今日あの人休みだから、代わりにお世話してあげて。出来る?」
「はい、もちろん出来ますよー!」
「いつもありがとねぇ!あなたが来てからすごく私たち助かってるの。ほんと百人力だわ!」
「いえいえ、皆さんが私に色々教えてくれたからですよ!」
彼女は黙々と日々仕事をこなし、評判も良かったため、更に多くの仕事を任されるようになった。
そんなある日、それは自分より数個上の先輩と同じ電車に乗って帰宅している最中の出来事だった。普段はこういった場合、お互い喋ることもないのでスマホを見て時間を潰すことが多かった。しかし、今日は何故か違った。
「――ねぇあんたさ、前から思ってたんだけど、仕事頼まれるのが嫌なら嫌って言いなよ?」
「え?」
「お節介だと思うかもしれないけど、こんな調子で働いてたらいつかぶっ倒れるって」
「あ......はい、確かにそうですよね。お気遣いありがとうございます」
「あんたはさ、一見凄く良い子の理想像って感じで日々笑顔を絶やさず一生懸命働いて、皆に感謝されキラキラ輝いて生きてるように見える」
それまで興味なさそうに外の景色を見ながら喋っていた先輩の瞳が、ここにきて初めて彼女の瞳を鋭く捉える。
「でもさ――それって本当のあんたなの?」
「ぇ――」
「勘違いなら良いんだけど、なんかあんたを見てると昔の自分を思い出すんだよね。隠しきれていない心の闇がたまにちらっと見えるっていうかさ」
彼女は無言で少し下を向く。
「私はそれが苦しかったから、ある日自分の本音を認めたわけ。そしたら一気に軽くなってね。周りの目も気にならなくなった。今ではすっかり心は落ち着いたよ」
「そう、だったんですか......」
「まあ何、せっかくの機会だしさ、あんたが話したくないなら無理にとは言わないけど、少し本音を吐露してみたら?それが何かのきっかけになるかもしれないし。あぁ別に、本音を言ったところであんたへの見方が変わるみたいなのはないからそこは安心してよ。それも含めてあんたの個性として私は見てるから」
先輩のどことなく包容力を感じさせる発言に、少し間を置いてから彼女は心の内側にあるものをゆっくりと言葉にし始めた。それは先輩に強制されたわけでもなく、嫌々言っているわけでもない。もしかしたら彼女は、その溜まっていた何かを吐き出す機会をずっと前から望んでいたのかもしれない。ただ、それが同時に彼女にとって望まぬ機会でもあった。その機会を経て楽になりたい気持ちと、その機会を経たことで自分、もしくはそれにより周りから自分に向けられる視線が良くないものになってしまうかもしれない。そんな気持ちがうごめき、その場に留まることしかできなかったのだ。
「そうですね......私は小さい頃からずっと、自分のしたことで色んな人たちが喜んでくれるのが嬉しかったんです。だからそういうのが自分の幸せにつながってるのかなって思って、お互いが幸せになれるように今まで生きてきたつもりでした」
ぽつり、ぽつりと彼女は話し出す。
「でも――いつからか、皆に喜んでもらうために自分の気持ちを押し殺すようになって、気付いた時には、皆から嫌われないことが目的になっていたんです。何かを断ったり、期待に沿えないことで、失望されるのが怖かった」
いつの日か、自分の耳に入ってきた女子二人の会話を思い出す。それは少なからず当たっていたからこそ、今まで忘れられずに頭に残っていたのだろう。
「でも同時に、自分の本音は認めたくなかったんです。そんな情けなくて弱々しい人間を自分だと認めてしまったら、とてもじゃないけど前を向いていつも通りに生きていくことなんて出来ないと思ったから。だから無理をしてでも、皆に喜んでもらうために行動しているという綺麗な名目による仮面を被った自分を、周りに認めて欲しかった。そうして認められることで、偽りの自分でも、それがいつの間にか本当の自分になってるかもしれないって。自分でもそう思える時が来るんじゃないかって」
気付けば彼女の内側に長い間溜めこんでいたどす黒い感情は堰を切ったように流れ出していた。
「ただ、それは所詮自分が自分を騙しているだけに過ぎませんでした。そう思い込ませることで少しでも楽になるかと思ったら、全く楽にならず、いつまで経っても満たされない」
「自分で自分の本音を認めていないと、やっぱりそうなるよね」
先輩は良く分かるという風に頷きながら言った。
「そう、ですね......。でも、それにはどうすれば良いのかが分からないんです。皆ありのままの自分を認めろだとか、素の自分をどうのこうのとか言ってますけど、じゃあ具体的にどうすれば良いのかを誰も言ってないような気がしてて......」
「――その時の自分の感情を俯瞰して見て、肯定してあげればいいんだよ」
「えっ......?それは具体的にどんな感じでですか?」
そんな予想もしなかった先輩の返答に、彼女は少し驚く。
「例えば、自分が今日何か嫌なことがあってイライラしたとする。そんな時、あんたはどんな事を思う?」
先輩の質問に、彼女は一呼吸置き答える。
「まあ嫌なことにもよりますが、イライラしちゃダメだなとか、やっぱり自分にも悪いところがあったんだろうな、とかですかね」
「だよね。でもその時に、今度からこう考えてみてほしい。――ああ、自分は今、イライラしてるんだなって。そして、これもまた自分なんだなって。別にイライラしたっていいじゃない。人間なんだから。当然そういう事もある。大事なのは、自分のその時の気持ちを否定せずに、肯定したまま終わること」
「なるほど......。でもそうしたら、なんだか自己中心的な人間になりそうじゃないですか?」
「私が思う自己中心的な人間って、普段から自分の本音を押し殺して生きてる分余裕が無くなって、その結果何かにあたるようにお店の店員だったり周りの自分以下の立場の人に無理やり自分の都合を通させて、無くなってしまった余裕を無意識に取り戻そうとしている人たちのことだと思ってる」
そして先輩はこう続けた。
「で、見た感じあんたはまだそこまで地に落ちてるわけじゃないし、もう自分の本音を押し殺すのをやめて、むしろそれを認めて生きていくんだから、その人たちとは全く違う道に進むわけよ」
「そうなんですかね......」
「まあ不安に思う気持ちも分からなくはないけど、そんなこと言ったら何が何に作用するかなんて未来になってみないと分からないわけだし、ネガティブに考えてたら本当にそうなるよ?きっと大丈夫だって!」
彼女の少しばかり不安気な様子に、先輩は笑顔を向け励ますように言った。
「たしかに、もっとポジティブに考えなきゃダメですね......」
「ほらほらそういうところだよ!それだとネガティブに考えてた自分を否定してるようなものじゃん!ネガティブに考えてた自分を肯定してあげるの!そうだよねぇ、そう思っちゃうよねぇ。それもまた自分なんだよねぇ。――まあ、それもいいね。って」
彼女のいつもの癖に先輩はツッコミのように、それでいて優しく言葉を発した。
そうこうしているうちに、先輩がいつも降りている最寄りの駅に到着した。
「今日はありがとうございました。なんだか、少し気が楽になったような気がします」
「そう。それなら私もアドバイスした甲斐があったかな!じゃ、またいつか」
「――え?」
明日はまだ平日なため、一瞬有給か何かで休みかと思ったが、聞き間違いじゃなければ先輩はまたいつか、と自分に言った。
「あれ、言ってなかったっけ?私、今日で仕事辞めるんだよ」
「ええ!?」
これまた予想もしていなかった先輩の発言と事の重大さに、今度は大きく驚いてしまう。
「私もそうやって自分の本音を認め出したらさ、新しくやりたいことが出てきてね。今まで本音を押し殺して生きてきたからこそ、狭い視野で一点しか見れてなかったんだと思う」
唖然としている彼女に、先輩はこう続けて言った。
「だからあんたも、本音で生きられるようになるといいね」
「あ、はい!えっと......今までお世話になりました!!お、お元気で!」
限られた時間の中で、かつあまりの情報量の多さにあたふたしながら今一決まらない挨拶をする。一応連絡先は事前に交換してあるため、後日改めて今日のこと、それから今までお世話になったことへのお礼を言おうと思った。
電車は先輩を降ろしたあと、ゆっくりと一定のリズムを刻みながら加速し始める。そうして彼女はいつものようにスマホに手を伸ばしかけたが、不思議とそこで手を引き、何の気なしに窓の外の景色に視線を移した。
「あれ、夕陽ってこんなに綺麗だったっけ」
この日、普段は暗く淀んでいて目を背けたくなるような眩しさの夕陽が、何故だかとても透き通ったような、心地良い眩しさに変わっていた――。