竜の姫は虚弱のようで『後日話:リュドシエラ』
【後日話:竜の姫は虚弱のようで】
リュドシエラは番のルイとの絆を通わせて浮かれていた。
しかし、浮かれていたのは自分だけではなかったようで……。
本編完結済み( https://ncode.syosetu.com/n9214hl/ )
※内容は本編を読んでいただくと、読みやすいかと思います。
『私自身がシエラを幸せにしたいと思って何が悪い』
轟然と放った音を残らず手繰り寄せて、その尊い言葉を胸に抱いて眠れたら良いのに。
そう願うほど、あの言葉の一つ一つがこの脆弱な心臓をどれほど穿ったか。
彼はきっと知らない。
「シエラ」という可愛らしい愛称。
わたくしの幸せを望む意志。
ひたむきな好意。
それらを当たり前のように言ってのける、燃え盛るような熱量をもつ力強い紫紺の瞳。
魂も体も同じ、唯一無二の『番』のもののはずだったのに。
彼自身を形作る真ん中で、獰猛に光るそれを知った瞬間。胸が激しく高鳴って気づく。
--ああ。彼は、わたくしの知っている『ルイ』じゃない。
『彼』とは違う。
違う生き方をした『雄』だと。
獰猛でまっすぐな瞳には、竜であるはずの女が弱々しくも恍惚と己の番を見上げる姿が写っていた。
…*※*…
そして今。
同じ紫紺の瞳の奥にいるわたくしも、なんて情けない姿を晒しているのだろう。
執務机の溜まった書類を横目に、椅子と床から離されてしまった体は彼の腕力に任せてぶら下がっている。
「シエラ」
両脇の下という柔くこそばゆい部分に手を差し込まれながら、無抵抗でいるなんて。
首根っこを摘まれる無力な子猫は、こんな気持ちなのかと別のことを考えてみる。
番であるルイでなければこんなこと、なけなしの魔力で吹き飛ばしているのに。
つま先で床を探っても、剣士でもある彼の腕力は弛まず、ドレススカートの裾を蹴るだけに終わってしまう。
地面が恋しいなんて思うのは、長らく羽ばたくことを忘れているせいかしら。
情熱的な朱色の前髪から覗く、濡れる紫紺の目がわたくしを射抜いてさらに落ち着かない。
「シエラ、私を見て」
「見てるわ」
「別のことを考えていただろう?」
なぜバレたのかしら。
うっとりするほど柔らかく耳朶をくすぐる低い男声。
ただでさえ背筋がわざわざして落ち着かないのに、心まで見透かされてしまう。その声と瞳に魔力が込められていないなんてきっと嘘だ。
「折角急いで帰ってきたのに、いつものところに居なかったから驚いたよ。……いつから私の目を盗んで仕事を?」
「目を盗んだなんて。先週から、かしら」
柔らかい声音なのに拒否を許さぬ響きに怯む。
遠くを見ていた視線を下げると、影の差す笑みが迎えて喉が鳴る。
時戻り前の過去のルイにも影ったところはあったけれど、それとは違う威圧は一体どこで覚えてきたのだろう。
「へえ、先週……。私がシエラと離れてすぐだね」
「そ、の……貴方が看病してくれたおかげで、生活に支障もなく過ごせるようになったから。溜まっていた公爵と領主の仕事を少しずつ始めていたの。貴方が戻ってくるまでに、いくつか済ませておきたいから……。本当よ」
なぜか言い訳がましくなってしまうそれに、目の前のルイは笑みを深めるけれど、それもまた喜色とは違うような。
片や、言葉を詰まらせ宙ぶらりんの自分がもどかしい。
これでは、どちらが竜か人かもわからない。
「ルイ、怒っているの?」
「シエラを怒るわけがない。私が一時帰国している間に、そなたはひとり寝室から出て自由に歩き回り、仕事を再開するまでに元気になってくれた。喜ばしいことだよ」
喜んでいると口にしながら、悔やんでいると聞こえるのはなぜだろう。
ルイのおかげで、番不在によるわたくしの虚弱な体調も日に日に快方に向かっていた。
彼は率先してそばにいてくれたし、元気な姿に喜んでくれてもいたはず。
仕事で国を離れる彼のいない間の空虚な気持ちを埋めるために、自身の仕事をしていたのだ。
しかし唐突に執務室に現れた彼は、わたくしの姿を見た途端にこうして抱え上げてしまった。
これは何もするなという、意思表示なのかしら。
「ルイ、嬉しくない?弱いままのわたくしでないと、貴方は安心できない?」
「そういうことではないよ」
「じゃあ、竜の番であることが面倒になってしまった?」
「それはもっとあり得ない」
「なら、どうして」
心を預けているルイの不透明な部分は、絶えず不安が湧いてしまう。
本来、傲慢なほどの資質を持つ竜の血も、過去の過ちを繰り返したくないと臆病になるのは当然だった。
地に足がつけない不安定な今の状況が、まさしく己の立場を指しているようだと遠い石床を見ていると、不意につむじに吐息がかかった。
「ただね。もうそなたの鳥籠のような内装の寝室には、気軽に出入りできなくなってしまったから……」
「ルイ?」
寝室?気軽に出入り?
なぜそんな話になるのだろう。
不甲斐なさに落ち込んでいた自分とは、全く関係ない落胆の理由に首を傾げる。
そもそも、この城の主人であるわたくしの番に、入れない部屋などないのに。
「そこでシエラの世話を焼きながら、二人きりで過ごす時間は私の癒しだったのに。こうして元気になって嬉しいけれど、少し寂しいと思ってね」
「……癒し?」
「そうだよ。ただでさえ広い城内で真っ直ぐ寝室へ向かえば、シエラが私を待っていてくれる。私を笑顔でも寝顔でも迎え入れてくれるそなたを見れば、仕事の疲れも吹き飛んでしまったからね」
言いながらルイは、固まるわたくしの体を抱き込みながら執務椅子に座った。
一人掛けの椅子は手狭で、けれど彼の胸にぴたりと収まる体は喜んで番の鼓動と熱に馴染んでしまった。
「……いやし」
二人の時間。癒し。わたくしが彼の癒し。
嬉しいけれど寂しいなんて。
すっかり定位置になった膝の上で、筋の張る首に額を擦り付けながら彼の言葉を反芻する。
このひと月の間、彼は不甲斐なくも弱体化したわたくしの世話をして、おかげでこうして回復することができた。
反面、ただでさえ忙しいルイを看病に煩わせて、これ以上は負担になるに違いないという思い込みは、彼の意志とは違っていたのだ。
その時間さえも、彼は大切にしてくれていたのに--。
「ごめんなさい。わたくし、国を飛び回る貴方に負担をかけたくなくて、早く体調を戻そうとしていたの。番である貴方がいなければ回復もできなかったけれど、こうして元気な姿を見せればルイも喜んでくれると思って」
「もちろん嬉しいよ。私が勝手にそなたを独占できる幸福感に、ただ満たされていただけのことだ」
「ルイ……!」
ああ、初めからそう言葉にすればよかった。
足りないものや補えるものは、彼が答えを持っている。それを差し出してくれる。
わたくしだって、貴方にならいくらでも差し出したいけれど、与えられる言葉や情はこの胸の中を空っぽにしてもすぐに満ち溢れてしまう。
「負担だなんて思うわけがない。シエラ、私のためを思ってくれるなら、ずっとこの腕の中にいて欲しいくらいなのに」
「……ルイ。もう一度、わたくしをシエラと呼んで」
「言われなくても。私のシエラ」
「ルイ」
わたくしのルイ。唯一の番。
広い背中に手を回して身を寄せると、筋張った長い指の手のひらが背中と腰を支えて互いの隙間も惜しいとさらに引き寄せる。
視界の端で揺れる朱髪が出会った頃より少し伸びていて、日に焼けて荒れた毛先までも愛しい。
「んんっ!お話が済みましたら、そこの決済を纏めていただきたいのですが?」
「……あ」
「いたのだったな」
しかしそこに、咳払いと棘のある声が執務室の一角で立ち込め始めた濃密な空気をあっけなく散らしてしまった。
今まで同じ空間の隅にいたアルマリクは、処理の済んだ書類をタンッとあからさまに音を立てながら、済みの書類山に叩きつけた。
「ええ、いました。ルイ皇子殿下の到着の報の前に、ご本人が部屋に乗り込んでくる、さらにずっと前からおりました。むしろ、ここしばらくの私はこの部屋に居着いていると言っても過言ではありません」
「ご、ごめん。アルマリク……」
番至上の竜の質を抜きにしても、流石に反省すべきだろう。
ヨルムンガンド領の後継者である彼が、臥せった主人不在の間も、領主と王国の公爵代理として働いてくれたのだ。
恋しい人と一週間ぶりの再会にすっかり浸ってしまい、申し訳ないと思う以上に気まずい。
腰の下にあるルイの腿の感触や肩を抱く手の感触も、今は落ち着かない気がして、皮肉でも声をかけてくれたのは、結果的によかったのかもしれない。
「ルイ、わたくしは大丈夫だから部屋で休んでいて。戻ってきたばかりで疲れているでしょう?…………あ、あら」
長距離転移の手段があるとはいえ、国を飛び回る彼も疲れているはず。
代理としてよく働いてくれるアルマリクにも、そろそろまとまった休みを与えなければ。メガネ越しに見える疲労の色を気の毒だと思って、真っ先に執務仕事の復帰を選んだのだから。
しかし膝から降りようとする腰をルイが引き寄せて止めた。
「ルイ?」
「アルマリク殿、このままシエラを連れて行っても良いだろうか」
「えっ?」
「……もっと早く聞いてください。そしてダメです」
アルマリクへ妙なお伺いを立てるルイに肩が跳ねる。
即座に打ち返すアルマリクは、銀縁メガネを苛立たしげに押し上げて大きく舌打ちをして小さく「この色ボケが」と悪態をついた。
……し、信じられない!
「ア、アルマリクが、舌打ち……」
今まで真面目な姿勢で、すました態度が多いこの子が……?
驚くわたくしと目があったアルマリクは、眉を歪めて気まずそうに顔を逸らした。
同じ竜の血を汲む血縁として長らく共にいたけれど、こんな子供じみた一面を成年する前だって見たことがあっただろうか。
室内の空気が冷たい。
そもそもルイは、どうしてそんな挑発するようなことを言い出したのかしら。
「うむ」
そうしてオロオロするわたくしの頭を撫でながら、その爆弾を投げたはずの当人はなぜか満足そうに微笑んだ。
「アルマリク殿はだいぶお疲れだな。快眠と滋養に良い土産を持ってきたので置いていくよ」
「……置くならそこに」
「……ん?」
どうやらあの舌打ちと暴言に混乱していたのは、自分だけだったらしい。
何がきっかけか。知らない間に打ち解けたらしく、アルマリクは面白い友人だと言っていたのを思い出す。
もしかして、アルマリクもルイに構ってもらえなくて寂しかったのかしら。
男同士って些細なことで仲良くなってしまうから羨ましい。
気難しいところのあるアルマリクに、軽い冗談を言える仲になるとは思わなかったけれど。
「シエラ、そなたは疲れる前に休憩を必ず取って。以前のように切羽詰まるまで自身を追い込んでしまう姿を見たら、私は正気ではいられない」
「し、しないわ……」
「うん」
また抱え上げられたと思ったら、ようやく執務椅子に座らされる。
そして、なぜかルイ自身をだしに脅された。
しかし一国の皇子でもある彼は、今や王国と皇国の新しい国交を結んだ功労者としてその人格も多くに認められている。責任感を持った誇らしく立派な人間として。
なにより、共にあろうと誓ったわたくしを慈しんでくれる彼への信頼は揺るがない。
無理強いされたこともないし、わたくしにだって権力者として培った責任や分別はあるのだ。
「そなたの寝室で待っていても良い?お揃いの指輪をいくつか買ったから」
「お揃い!ええ、良いわ!」
「そこは、婚約者として自重してください」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
雨砂木