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男がキッチンへと消えていったのを見届けたあと、少年は急に冷静になった。きゅうと胸が痛んだ。自分はなんてことを言ってしまったのだろう。あんなにも良くしてくれている人たちを、裏切ってしまうなんて! 少年は重い自己嫌悪に見舞われた。その重さたるや実際に体に作用するほど。耐えかねた少年は、シャツにホコリがこびりつくのも構わずテーブルに両肘をついて、次いで頭を抱えて、ぐったり。両太ももの間から顔を覗かせている、グレーのビニール皮革を力なく眺めた。
「もし……さっきの。あの人の。あれが本当だったとして」
自分はどうしたらいいのだろうか。少年はそれを考えた。
にわかに冷静さを取り戻した少年の理性はこう言っている。答えは否だと。絶対に消してしまうな、と。記憶をなくして、ただでさえ隣人たちに迷惑をかけているのだ。彼らの望み通りの結末へと至ること。これこそが、少年が唯一できる恩返しではあるまいか、と。少年の冷たい理性は、したり顔でそんな風に言いくくめる。
たしかにその通り。それは少年自身も認めるところ。記憶をなくして、周りに大迷惑をかけている少年がしなければならないこととはなにか。それはみんなにハッピーエンドを与えること。望み通りにかつての自分を取り戻すこと。これこそが唯一の義務だと少年は自覚していた。
「でも……それでも」
でも、そのハッピーエンドに至ったそのとき、自分はどうなるのだろうか? さっき泣き叫んだ通り、今の自分はきれいになくなってしまうのではないか? 今、少年がかつての自分を思い出せなくなってしまったように。元に戻った自分は今の自分を思い出せなくなってしまうのではないか?
もし、そうなってしまったとしたら。それはすなわち、今ここに居る自分の完全消滅を意味してないか? それはやはり今の自分の死ではないか?
そう思うと、心臓のあたりがざわめいた。大きな手が心臓を軽く握っているような不快感。そのせいで血流が悪くなって、体のあちこちがみるみるうちにひやりと冷えてゆく。ふうふうと息も荒くなる。死の恐怖。それが少年の体を、じわりと冒してゆく。
嫌だ。嫌だ! 死にたくない! そう叫んで暴れたくなる衝動を、少年は髪の毛をくしゃりと掴むことでなんとか抑えようとした。少年は再び余裕を失ってしまった。隣人を幸せにしなくては。さきほどまで抱いていた義務感は、死の恐怖という猛火を前にあっさり溶けてなくなってしまった。
どうにかしないと。どうにかしてこの死の恐怖から逃れないと。記憶がなくなってしまい、さっぱりとしている少年の頭の中で渦巻くのはそんな思いだけ。
「うーうーうーうーうーうー」
うめく。そうすることで苦しみが少しでも紛れればと期待して。けれども、少年の気持ちはまったく楽にならなかった。彼の心臓はいまだ恐怖の手中。
痛み。
そうだ痛みだ。
痛みでこの恐怖を誤魔化そう。
髪を握る手にますます力が入る。
あんまりにも力を込めるものだから、ぷちぷち、痛みとともに髪の毛が抜ける。
それでも恐怖は薄まらない。
この程度の痛みではだめなのか。
足りない。
足りない。
痛みが足りない。
ならば。
少年の目はソファからテーブルへ。
コーティングされてつややかなテーブルの縁へ。
ここなら。
この痛みならきっと。
いや、もしかしたら意識すら――
それはいい。
とても素敵。
気を失えば恐怖は感じないのだから。
少年は淡い期待を抱いた。
にへら。
口角上がる。
そして決意を胸にぎゅっと目をつむって。
額をテーブルに近づけた――そのとき。
ふわり。コーヒーの芳香が少年の鼻腔をくすぐった。
少年は面を上げた。手も髪の毛から離す。目は香りの方へ。チャイナドレス。男が戻ってきた。白のメラニントレーを携えて。
男を見た少年は、わずかに心臓のしめつけが緩くなった。うさんくさい人間なのに。本当に霊能力者かすら怪しい輩なのに。なかなかこちらに興味を抱かなかった男だったのに、姿を見ただけでどうして頭一杯の恐怖が薄れたのだろう? 少年は不思議に思った。
「さあ、どうする? すべては君次第だ。ここに居る君次第だ。奴を殺すかどうか、決めてくれ」
ニヒルな笑みをこぼしながらの男の一言に、少年の心はますます落ち着きを取り戻した。どうして落ち着いたのか、その理由はわからない。
でも、少年は確信した。この恐怖心をきれいさっぱり取り除くには、この男にすがらねばならない、と。少年にとっての救いはここにあった。
それに気がついた少年は笑みを浮かべた。泣き笑い。まるで迷子が親に再会したときに浮かべるような、湿っぽい笑顔。悩みの一切が消えてなくなって安心したことを示唆する面持ち。と、なれば。少年の選択は――
――やられる前にやってやる。
少年は赤い舌で乾いた唇を潤した。言い間違いがないように。言葉がつっかえないように。入念に、ゆっくりと。それは言うまでもなく、多くの人にとってのバッドエンドを導く準備であった。