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 招かれた部屋がどんなにきたなくても、男がどんなにひどい格好をしていようても、それらはもはや少年の気にかかることはなかった。男のひどい態度によって、散々焦らされてしまったからであろう。我慢から解放された少年の口は、まるでバターを塗りたくったよう。つっかえることなく、とてもなめらかに彼の身の上を語り続けた。


「事故、だったらしいのです。フードデリバリーの自転車にはねられたらしくて。頭を打ったのか、それとも他の原因か。とにかく僕は気を失ってしまったらしいのです。けれども……」

「起きたら。君はなにも覚えていなかった? 自分が何者でさえも」


 少年は静かに、ちょっぴりと頷いた。きゅっと唇を結んだ、沈鬱な表情で。


「なにをどう考えても、病院のベッドより先が思い出せないんです。まっくらで、なにもなくて。ぽつんといきなり唐突に。白いベッドの上から、僕のすべてが始まるんです」


 少年はいままさに、そのときを思い出したのだろう。彼は傍目から見てわかるくらいの大きな身震い、ぶるりと一つしてみせた。


「それが怖いのかね? 記憶が途絶えてしまったことを自覚するのが」

「怖くない、といったら嘘になりますが。でも、それで悩むほどではないです。だって――」

「だって?」

「――だって、その手の記憶の断絶は誰にでもあるものでしょう? あなたにもあるでしょう? 記憶が。最古の記憶が」

「もちろん」

「では、それより昔のことを思い出そうとしてください。すると……自分はたしかに存在していたはずなのに、なにも思い出せない、見えない。そんなぞっとするような暗闇が広がってませんか?」


 男は腕を組んで、久方ぶりに少年から目を外した。ぱんぱんに張ったナイロンをぎちぎちと鳴らしながら、男は視線を左上の天井へとちらと動かす。少年の言うとおり、最古の記憶より以前を洗ってみようとしているらしい。一拍、二拍、いやそれ以上。たっぷり間があいたのちに。


「……たしかに。寒気がするな。まるで死後の世界を考えたときのような」

「でしょう?」


 男は眉を顰めてわずかに首肯。少年の言い分を認めた。また、男は少年を見る。作り物のようなあの瞳で。


「このように記憶を遡れないことはノーマルであって、異常なことではない。僕の場合、それが今と近いところにあったってだけ。だから、特別怖がる必要はないって思っているんです」

「しかし」


 異議あり、とばかりに男は口をはさんだ。


「では君はなにに恐れを抱いた? さきの身震い、そして表情はなにかに怯えていなければ出てこないはずだ」

「……家族や。そして友人たちに、ですよ」


 男からすれば意外な答えだったのか。そしてますます少年に興味を抱く答えであったのか。ほう、と小さくうめき、男はますます身を乗り出して、少年の声に耳を傾けた。ドレスのナイロン生地が、ソファのスプリングが、あるいは塩ビが、ぎゅうと静かに悲鳴を上げた。


「優しい人たちなんです。こうなってしまった僕を心から心配してくれた。気にしなくていい。焦らなくてもいい。ゆっくりと自分を取り戻してほしい。それまで自分たちが支えるから、とまで言ってくれた。自分の名前すらわからなくなった僕には、そんな声がとても心強かった」


 少年の声は、とても柔らかでふわふわと、いかにも幸せそうなものであった。善人たちへの感謝があふれ出ている。


 それだけに不思議である。少年はきちんと感謝の念を抱いているのに、恵まれているという自覚はあるのに、どうして幸せを与えてくれる善人たちに恐怖を抱いているのだろうか。男はそれを疑問としていたのか。唇をきゅうといびつに歪め、訝しげな面持ちを作る。


「わからないな」

「どうしてそんな人たちを怖がっているのかが?」


 男はこくりと頷いた。少年は自嘲の吐息をわずかに漏らした。


「だって彼らは言うんですよ? すぐに思い出さなくてもいい。ゆっくりでいい。どんなに時間がかかっていい。だからしっかりと記憶を取り戻して、前の僕に戻ってくれればみんな幸せだって」

「それが理由? なおさらわからない。愛されているじゃないか」

「ええ、そうですね。愛されてますよ。前の僕は」

「今の君は愛されていないと」

「ええ」

「なぜそう言える? 言い切れる?」

「……だって」


 少年はもう感情を抑えることができなかった。胸に刻まれた傷が痛む。記憶が戻って以降、癒えることのない傷だ。それはずきずきと痛み、傷の膿は涙に変わりて次から次へと少年の目からあふれてゆく。


「だって……!」


 くしゃり。

 表情が潰れる。

 平静も潰れる。

 激情がこみ上げる。

 腹の底から上ってゆく。

 声になる。

 叫びとなる。


「だって! みんなが願う幸せに! 今の僕は含まれてないじゃないですか! 僕が消えてはじめてその幸福が完成する! 僕がいたら! 彼らの幸福はやってこない!」


 目覚めて以降、彼の知人は例外なく少年に優しかった。少年を治療すべき病的な状態と捉え、慈しみの心で彼を気遣った。もちろんそれは善意からの行いだ。だからこそ、彼らは気がつかなかったのである。考えもしなかったのである。その気遣いが、慈悲の心が少年を深く傷つけていたことに。


 今の少年はかつての少年ではない。別人と言っても差し支えない。たとえ容姿が同じで、遺伝子もかつての少年と同じであっても、それでもなお、別人であると断言できた。


 個人を個人たらしめる要素とは記憶だ。記憶が消失してしまった以上、今の少年は昔の少年とはまったく別の個を持つ存在と言わざるを得ない。少年は記憶を失ってしまったという事故をきっかけに、生まれ変わってしまった、と換言してもいい。


 不幸なのは、少年が自分の転生に気づいてしまったことである。だからこそ少年には周りの人間の善意が刺さってしまった。ゆっくりでもいいから良くなってくれ、記憶を取り戻してくれ。こんな優しい言葉を彼はこう捉えてしまったのだ。今のお前は私たちが知っている少年ではない。さっさとその体を私たちの知っている愛すべき少年に戻せ、と。


「みんなみんな! 今の僕を認めていない! 消えてもらいたがっている! 存在を認められないのが……こんなにつらいのならば! 僕はいっそのこと目覚めなければよかった! 死んでおけばよかった!」


 少年はただでさえ自分が何者かわからないのである。心細いのに、だからこそ誰かに認めてもらいたいのに、しかし周りの人が今の自分を否定してしまったのだ。生まれ変わったばかりな少年の心は瞬く間にずたずたになった。今の少年には、他人の幸福を願うだけの余裕なんて、ない。


「でも僕はここに居る! ここに存在してしまっている! 鼓動を続けている! だから嫌だ! 嫌なんだ! 僕は……僕は!」


 記憶が戻ってしまえば、今ここに居る少年は少年ではなくなる。元の少年に浸食されてしまい、今の少年は影も形もなくなってしまう。殺されてしまうのだ。自分自身に。


 それは嫌だ! 殺されたくない。殺されてなるものか! だから少年は拒絶した。否定した。多くの人にとってのハッピーエンドを。


「僕は! 絶対に渡さない! この体は僕のものだ! 誰にも渡さない! 渡すもんか! それがたとえ、前の僕であったとしても! みんなを不幸にするとしても! 絶対に!」


 少年はきゅっと我が身をかき抱いた。まるで大切な宝物のおもちゃをいじめっ子から守るおさな子のように。


 唐突。

 音響。

 高音。

 ヤニとホコリでべたべたな部屋に笛の音が横断した。ヤカンの声。穴だらけとなったふすまの奥、きっとジャンクヤードさながらに汚いはずのキッチンから流れ出る。


 それは仕切り直しを告げる便りとなった。男はゆっくりと、服やら椅子やら床やら。色々をきしきし軋ませながら立ち上がった。


「まあ、なんだ。一旦落ち着こう。丁度湯も沸いたし、コーヒーブレイクだ」

「……すみません」


 割って入ったヤカンの笛は、とても耳障りな高音であったけれども、ぐちゃぐちゃに乱された少年の情緒には子守歌のような作用をもたらした。先ほどの慟哭はすっかりとなりをひそめて伏し目がち。少年は肩をすぼめて、小さく振るわして。すん――すん。鼻を鳴らし息を整える。


 しゃくりあげる少年の姿。それは本当におさな子そのもので、真っ当な大人であれば、彼の隣に座って慰めの言葉をかける光景。けれども、男はこのあたりの機微にまったく通じていないようだ。後ろ髪をひかれるそぶりすらみせずに、くるり。踵を返して一歩、二歩。少年に代わってやかましく泣き続けるヤカンをなだめに行こうと、辛うじて仕切りの役割を果たしているオンボロふすまに手をかけた。


 しかし、ぴたり。男はふすまを引く手を押さえて、その場に立ち止まる。


「もし。もしも、だ」

「はい?」

「もし俺が君のその悩みを根本から解決できるとしたら、どうする?」

「え?」


 少年は面を上げた。男を見た。ぱつぱつになった赤いナイロンの背中と、もじゃもじゃな後頭部が目に入る。顔は見えない。だから少年には判断が付かなかった。男が本気でそんなことを言っているのかどうかが。見定めることができなかった。


 赤い光沢がまぶしい背中はなおも言葉を続ける。


「もしもだ。霊能力で、得体の知れない力で。過去の君を、きれいさっぱり消し去ることができると言ったら。君はどうする? 殺すかね?」

「……誰を?」

「決まってるさ」


 耳をつんざく笛の音が散々響いているのに、どうしてか。小さな音のはずなのに、けれどもどういうわけか。男は耳に残る鼻笑いののちに。


「君の未来を奪おうとする者を」


 言葉を置き去りにしてふすまを引いた。

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