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 少年は失望した。玄関ではたしかに男の興味をひくことに成功したのに、今はどうだ。またしても男は、少年への興味をすっかりと失ったのか。目を一切合わせようとしてこなかった。それでいて求めてもいない男の身の上話を延々と続けるものだから、ますます少年のフラストレーションは高まってゆく。


 もっとも少年のイライラの何割かは、ただいま彼らが身を置く環境にあるのかもしれない。分煙、禁煙、嫌煙。そんな昨今のご時世に真っ向から刃向かうように、通された応接間にはたばこのにおいが染みついていた。禁煙がノーマルとなった時代生まれの少年には、ややきついにおいであった。おまけに、掃除が行き届いていないのだろう。目の前のリビングテーブルにも、そして着席を勧められた安い塩化ビニールのソファーにも、うっすらとホコリが積もっている始末。やや潔癖症の気がある少年にとって、これほど苛立たせる環境もそうはないだろう。


 男の態度に、そして環境。この二つのせいで少年のイライラは加速度的に増悪中。


「いやいや。申し訳ない。来客があんまりないもんで、もてなしの準備ができてなくて」

「いえ。お気になさらず。それよりも。お聞きしたいことが――」

「だが安心しろ。少年には秘蔵のブルーマウンテンをご馳走しよう。五年前に谷中銀座の福引きで当てたやつだが、なにせブルマンだ。問題はあるまい」

「それよりも!」


 とうとう少年の堪忍袋の緒が切れた。ホコリが我が物顔で寝っ転がるテーブルを力任せに()っ叩く。ホコリが舞って、蛍光灯が放つ乳白色の光をちらちら返す。賞味期限切れのコーヒーを饗されそうになったから怒ったのではない。男が少年に寄り添う気配がまったくなく、相も変わらず自分の言いたいことだけを一方的に語りつける態度こそが怒りのトリガーであった。


「早く答えてください! さっきの質問を!」

「質問? なんだい、そら?」

「僕が! 生きているのか! 死んでいるのか!」

「ああ、あれね」


 やれやれ、面倒くさい。いちいち教えないといけないのか――うさんくさいとはいえ、曲がりなりにもサービス業の看板を掲げているとは思えない態度を男は見せた。男は少年が腰掛けるそれと同じく、やはりホコリのヴェールに覆われたソファーに大きく背を預けた。顔はたばこのヤニで黄色く染まった天井に向け、やはり少年の顔をしっかり見ようとしない。


 まったくもって佇まいを正そうとしないどころか、ますますひどい態度を見せる男に、少年は一層の苛立ちを募らせた。今すぐに怒鳴り散らしたい欲求に駆られたが、少年はそれをかろうじて押さえ込んだ。


「安心するがいい。きちんと生きてるよ。それだけにまあ、がっかりだったんだけど」


 きちんと生きている――その言葉に少年の頭にこみ上げていた熱いものは、一気に冷え切ったばかりか、すとんと腹の底にまで落ちていった。少年の胸から、怒りが消えてなくなった。

 生きている。そうか、生きているのか。少年は頭の中でぼそぼそと力なくつぶやいた。


「……がっかり?」

「自分が死んだことの自覚がいまいち持てないのに、霊能力者に自ら接近する霊なんて、今まで聞いたことも見たこともなかった。これはレアケースだと心を躍らせた。だが……」

「だから僕を家に上げた? そんなレアケースだと思ったから」

「ああ。しかし、よく見てみれば残念無念。君はきちんと生きている。足もある。つまらん。実につまらん――と、がっかりしてたんだがねえ」


 その変化は唐突に訪れた。ヤニ色に染まった天井を眺めていた男が、ゆったりと体を戻したと思ったら、どんな心情の変化か。男の瞳は真っ直ぐに少年を見据えた。これまで見る価値もない、と言わんばかりに見ようとしなかったのに。気味悪さすら覚える薄ら笑いを浮かべながら、ひとときたりとも目を逸らそうとはしなくなった。


 この翻意は一体――少年はその真意を知るべく、男の瞳を見返す。けれども、ガラス玉のように生気のない眼光に阻まれ、男の思うところをちっとも察せられない。


 なんだ、この底知れなさは。少年ははじめて男に恐怖を覚えた。


「なかなかどうして。実に興味深いな。君は」

「なにが、です」

「俺が生きていると告げたとき。君は露骨にがっかりした。いっそ死人と呼ばれた方が気楽だった、って顔をしていた。それが興味深い」


 男の指摘に少年は思わず息をのんだ。そうだ、たしかにそうだ。少年はたしかにあのとき失望した。わずかな望みを絶たれた気分になって、ぞんざいな男の態度に腹を立てる気すらなくなってしまった。それを男に見破られてしまった。隠していたつもりなのに。少年の背中がぞっと粟立つ。


「それは単純に死に憧れている、とは違う反応だ。もしそうなら、こんなところを訪れる前にくくるなり飛ぶなりを選んでいたはず。君のそれは希死願望というより……そうだな」


 男はそっと口元に手を当てた。きっとそれは次の言葉を絞り出すためのジェスチャー。わずかな間を置いて男は手を退ける。ほんのわずかに前のめる。皮肉とも嘲りとも違う、表現不能の暗く怪しい笑みを湛えながら。


「自己承認欲求そのものだ。死人であることを誰かに認めて欲しかった。だからここに訪れた。そうではないかね?」


 しかしそのジェスチャーの間にも男は少年から目を外さなかった。すっかり少年に興味津々となった男が紡いだ言葉は、少年の心を鷲掴みにした。そうだ。認めてほしかった。君はもう死人であると。この男に言ってほしかった。そうすればいっそ楽になれたから。

 男はガラス玉の目で少年を見る。無言で問いかける。君になにがあったのか。俺に話してくれ、と。やはり一瞬たりとも目を逸らさずに、一回たりとも瞬きもせずに。


「……僕」


 あまりに的確に少年の心情を読み取ってしまったこと。これに恐怖を覚えつつ、ここから逃げ出さなければ、という思いも抱きつつも。しかし一体どんな魔法だろうか。少年はソファーに縫い付けられてしまったかのように、立ち上がらなくなってしまって。


「僕。記憶がなくなってしまったんです」


 ごくごく自然と、さしたる抵抗感すら抱かずに。まるで催眠術にかかってしまったかのように、少年は自らの身の上を語り始めた。

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