君主外交
鱒の川とファインド川は対称的な川だった。鱒の川は透き通った水がはやく流れていくのに対して、ファインド川は濁った水がゆっくりのろのろと流れていく。同じ森林地帯を流れるにもかかわらずだ。ウィズダムのある湖へ行くにはメイヤーランドの南東にある二つの川を渡河しなければいけなかった。鱒の川は渡河に適した浅瀬を見つけるのに時間はかからなかったが、ファインド川は川幅があるだけでなく、かなり深く、しかも水は茶色く濁っているので、どれだけの深さがあるのかも分からなかった。〈王なき地〉の主要交易圏をだいぶ南に外れたこの地では橋がかかっていることは期待できそうになかった。対岸には蔓草と松の木に覆われたソローフィアの森が見える。そこにはかまどの形の巣をつくるフクロウや用心深くてずる賢いヤマネコ、様々な薬草、樹々のつくるトンネル、採算性の問題から放棄された伐採所や偏屈な変わり者が住む掘っ立て小屋があるのだ。川と松林のあいだには細い道があり、上流のある東へ歩いてみたが、出会ったのは釣り道具を手にした九歳くらいの子どもが一人だけだった。
「このへんに渡しをやってる人はいる?」アリソンが少年にたずねた。
「こっから三マイル歩いたところにピーウィーじいさんってのが住んでる。そのじいさまがみんなまとめて向こう岸に渡してくれるさ」
「渡し賃は?」
「タダだよ。ただし、じいさまはオツムがくるくるぱあでね。自分がこの森の皇帝だと思ってる。だから、その話に乗っかって、じいさまの機嫌を損ねなきゃ、向こうに渡してもらえるよ。じいさまは大きな筏に凝った作りの滑車をつけて、うちのとうちゃんの腕より太い縄を通してる。たぶん、ファインド川を渡れるのはあのじいさまだけだよ」
アリソンは振り返って、きいた? と言って、銃術師とボリスを振り向いた。
ボリスは彼の頭のなかでだけ存在している魔法王国の特別使節として、その森の皇帝のもとへ派遣されることとなった。その権限は絶大であり、王の名代として赴く以上はどんなささいな失敗も許されない。王を卑しめることなく、森の皇帝を称えなければいけないのだ。
そのうち細い道の先に家が見えた。その家は半分を森に突っ込み、残り半分が川岸に迫り出していた。増水しても大丈夫なように太い支柱をかっている高床式の板葺きの小屋だが、支柱はどれも泥のなかに深々と突き刺さっていて、灰のような貝と黒ずんだ汚れがこびりついていた。泥地にはトビハゼがいて、ボリスがやってくると、巣穴のなかに飛び込んでいった。
これが森の皇帝の〈宮殿〉なのだろう。なぜなら裏手から太い綱が川へと伸びて、茶色い水のなかに没していたからだ。あれが渡し筏のロープなのだ。
ボリスはもう一度〈宮殿〉を見た。何度見てもみすぼらしさに変化はなかった。大きな松の木に依りかかりながら、川にさらわれないように踏ん張っているけなげな建造物だ。森の皇帝は陸地に面した側と川に面した側の両方に屋根庇付きの外廊をつくっていた。外廊の玄関前から階段が森の草地へ降りていて、そこが〈宮殿〉の入口だった。立ち番をする近衛兵や皇帝の紋章を刻んだ黄金の門はない。だが、ファインド川を渡るただ一つ手段を有しているのだから、まったくの文無しというわけでもない。ボリスは王の臣として恥ずかしくない作法で片膝を屈し森の皇帝を呼んだ。
「魔法の国を統べる王の臣より森と川を統べる皇帝陛下へ申し上げる! 願わくば、陛下の謁見をたまわりたくここに参上する!」
しーん、と静まり返っていた。だが、小屋のなかからはがさごそ音がしていた。謁見のためのマントを纏っているのかもしれないし、あるいはここにはもう老人は住んでおらず別の、もっと気の短い男が住んでいて玄関先でワケの分からぬことをわめいているトンマを撃ち殺すために猟銃に弾を込めているのかもしれない。確率は五分五分だった。
数分して、現れたのは奇怪な装いをした老人だった。帆布製のマントは長すぎて三フィートほど引きずっていたし、着ている長衣は森の花や苔、虫で作った染料でまだら模様に染めてあった。派手な飾り帯を頭に巻いていて、そこからこぼれる白い髪の毛はひどく縮れていた。鬚も同様でまるで狂った蚊の飛んだ跡をなぞって生えているようだった。骨ばった右手には鉛でつくったらしい大きな指鐶がいくつもはめられていて、その手は太い樫の杖を握っていた。
森の皇帝は顎を上げて、厳かに言った。
「魔法の国を統べる王の臣よ。神の恩寵によりこの地を統べる森の皇帝として貴殿の到来を喜ぼう」
森の皇帝の唯一本物らしいところは声だった。重々しいが、けっしてとろいわけでもない。だが、その深さが後からじわじわと効いてくる威厳を含んでいて、彼をほんの一瞬だが、本物の皇帝に見せることができた。
「皇帝陛下にお願い申し上げる」ボリスは言った。「我が王は領土への帰還の途上にあります。よろしければ、広大無比な陛下の温情を賜りたく存じ上げます」
「真の王族の血を引くものはその血筋同士が引き合うものだ。余にできることがあれば、なんだってしようではないか」
「では、陛下。これより王が参ります」
「うむ」
銃術師は馬から降りて手綱を引いてやってきた。
「魔法の国を統べる王よ」森の皇帝は言った。「領土への帰還ときいた。きっと壮大な遠征の帰り道であろう。王よ。余は余の持つもので貴殿の帰還を成し遂げられるのならば、協力は惜しむまい。されど、王よ。せっかく来ていただいたのだから、我が歓待を受けてはくれぬか?」
銃術師は黙っていた。ボリスは王は感激の余り、言葉を失ったようです、と助けた。
数分後には全員が森の皇帝の〈宮殿〉の〈迎えの間〉で煮凝りに閉じ込められた魚の切り身を食べていた。森の皇帝は気前よく官職をばら撒き、アリソンを騎兵元帥、ボリスを外務大臣に取り立ててやった。銃術師は第三近衛歩兵連隊の名誉連隊長の地位を命じられたが、老人曰く、この世の全ての王室はみな自分の軍の各連隊の名誉連隊長になっているとのことだった。この老人はこれまでにも様々な官職を旅人にくれてやっていた。字を書ける逃亡奴隷が国璽尚書に任命され、わけあって南へ逃げる途上の馬泥棒が皇室養馬場の長官に任命され、知恵遅れの男は紋章裁判所判事に任命され、町を追われた異端者が宗務長官に任命され、こうして煮魚を食べて、川を渡っていった。こうした帝国臣民たちが川を渡った後、どうなったかは誰も知らないし、知ろうと思うものもいなかった。おそらくは日の入り前の一瞬に差す淡い緑色の光のようにはかなく消えてしまったのだろう。
銃術師たちが川を渡る段になると、森の皇帝自ら、滑車を回して、筏を動かした。ゆるやかな泥水の上を筏はすいすいと滑っていった。森の皇帝は至極満足して滑車をまわしていた。滑車をまわすことを許されたのは選ばれた血の持ち主だけであり、そして彼がその唯一の血の持ち主だった。それは神意であった。だから、森の皇帝は騎兵元帥アリソンの馬が滑車に触れそうになるたびに警告を発して、馬を遠ざけさせた。老人の考えでは自分以外のものがこの聖なる滑車に触れようとすれば、たちまち神の怒りを買い、雷が落ちて、黒こげになるはずだった。
「用心あれ、用心あれ」
銃術師とアリソンはお互いの目を合わせると、皇帝が見ていないことを確認してから、自分のこめかみを指で差し、指先でくるくる回した。
ソローフィアの森の川岸に降りた。縄の結ばれた大木のそばに看板が立っていた。『川を渡るもの縄を引け。森の皇帝が汝に慈悲を賜るだろう』。
森の皇帝は銃術師がつつがなく、彼の領土へ帰還できるよう祈った。その祈り方はこれまでどこの町でも見たことのない奇妙な文句で出来上がっていた。老人は頭のなかで帝国だけでなく、天地を創造した神までも作り出していたのだ。老人はその威厳に満ちた声で唱えた。
「マダラドクシイタケモドキのマントの裾より立ち現れる高貴な蒸気よ。冷たいアンブリアン星の主の靴の修理人のみが見出す釘の極意よ。これなる王の帰還を慶び、亜鉛の風呂水槽よりも苦いケーキで祝福と福音を寿き給わんことを!」




