おまじないの唄
少女と銃術師は建物のあいだの道をときに真っ直ぐ、ときにジグザグに上っていった。ジグザグに上るときは必ず道が折れる場所に湧き水があって、獅子の頭を模った彫刻の口から赤い石の水槽へと透明な水が流れ落ち、あふれた水がキラキラ光りながら石の道を渡り、民家の下へと消えていった。町の高台にある旅籠に入り、厩舎に馬とフレイを預けると、銃術師は何か仕事がないか見てくると言って、隊商宿を探しに出て行った。〈まどろみの海〉を渡る前にカーディナル・タウンに住んでいる代言人が銃術師向けの仕事を持っているときいたことがあったからだ。銃術師はまず一人で会ってみて、脈がありそうならば、少女も連れて、正式な契約を結ぶつもりだった。
少女は旅籠の裏手にある木組みのテラスへ出て、甘い蜜をレモン水で割ったものを飲みながら、目の前に広がるカーディナル・タウンを眺めた。まるで鳥になったかのように高い位置から眺めた港の都は人間の知らない秘密の条件によって色彩を自在に変える魔法の砂絵のようだった。銃術師が危険視した導水橋はずっと下に見えたので、少女は自分たちがいつの間にこんなに上まで昇ってきたのだろうと思って少し驚いた。他にも銀で星座を描いた丸屋根の太守宮殿や世界じゅうの産品を倉庫単位で売り買いする取引所、魔法使いが集まる岩石丘の上の町などが少女の眼下に広がっていた。東へ目をやると、建物が切れたあたりから黄金色の石を敷いた街道が何十本と草原へ走るのが見えた。街道には商人、芸人、役人、それに先ほど見た鉄騎隊が行き来していて、この都の郊外は町の切れ目のうら寂しさなどとは無縁のようだった。
真下を覗くと、二人組の少年が坂を上ってくるのが見えた。それはつい今さっき、少女が銃術師と一緒に上った坂であり、旅籠屋の前へとつながっている坂だった。一人はリュートを手にした非常に美しい少年で肩まで伸ばした髪は夕日に照らされた雲のような茜色だった。もう一人は赤毛で両手持ちの大きな剣を背負っていた。
間もなく、旅籠屋の扉が開く音がして、二人の少年が裏手のテラスへ現れた。
「ひゃあ、こいつはすげえ」
両手剣を持った少年がテラスの欄干に手をやって町を見下ろしながら声を上げた。痩せているが子どもっぽさが残る顔、ぼさぼさにした髪のうち、目に垂れるものだけ上に曲げて、それを赤い布で大雑把に巻いたそのやり方はどこか草原の民族の出をうかがわせた。顎の下からヘソのあたりまで守ってくれる袖なし鎖帷子の上に胴衣をつけ、黒いレギンスの上に膝までしかない厚手生地のズボンを穿き、革鎧の草摺りと鉄製の脚絆をつけていた。むき出しの腕は固く引き締まっていて、ちょっとした動作でその筋肉がこぶをつくった。その後ろからリュートを手にした美しい少年がやってきた。神殿のための石工が天使像を造るとすれば、間違いなく参考にされそうな優しげできれいな顔の少年は白いマントにサーモンピンクの半外套をつけ、レイピアと呼ばれる刺突用の剣を腰に吊るしていた。美少年は相棒の野生児相手に何か言い合い笑っていた。そのうち、美少年は少女のほうににこりと笑いかけて、何を飲んでいるの? とたずねてきた。
「蜜入りレモン水」
「じゃあ、ぼくもそれを頼もうかな。グレン、きみは?」
「ホップ入りエール」なぜか剣士の少年はビールのことをそう呼んだ。
蜜入りレモン水とビールの入った蓋付きジョッキを美少年が持ち帰ると、早速、グレンと呼ばれた少年はジョッキのビールをぐびりとやって、ぷはあ、と我慢していた息を吐き出して、口のまわりの白い泡をなめとっていた。
「シャルル。何か弾けよ」グレンが言った。
「弾くって何を?」
「何でもいい。こんなにいい気分なら葬式の唄だって陽気に聞こえらあ」
シャルルは腰かけて、少し調律をしてから明るい調子の曲を弾き始めた。音楽でそれは即興で作られたものであった。見下ろした景色とさわやかな風、強い日の光と生える緑、それにビールの泡を織り交ぜたもので、ひょっとすると少女の存在すらも織り込まれたいたのかもしれない。
弾き終わると、グレンはテーブルを拳でゴツゴツ叩いて拍手の代わりにした。少女も拍手した。
「ありがとう」
シャルルは微笑んだ。
この二人の少年が共に旅を始めたのはちょうど一年間で、二人が十五になった年のことだった。グレンは高地民族出身で、シャルルは低地の町の孤児だった。二人は世の中のことの大半を笑い飛ばして生きてきた。グレンは銃を身につけず、自分の襲いかかる火の粉は背に負った両手持ちの剣でふり払えると信じ、一方シャルルは音楽と女の子がいれば世界はどう頑張ってもどん底に落ちることはないと信じていた。
海の上の透明な世界から吹いてきた風が都の船着き場にぶつかり、街路を吹きぬけ、屋根の上の森をざわつかせ、迂闊な人の頭から帽子を飛ばし、都の尽きた先の草原へと広がっていった。その風のなかに雨と雷の匂いがした。
西の空に浮かぶ雲が急に動き出し、水平線を黒く縁取り始めた。漁師たちの小舟が急いで港や入り江に逃げ込み、商船や軍艦がそれに続いた。もはや透明ではない世界から送り込まれる風のかたまりには洗濯ばさみで鼻をつままれても分かるほど濃い雨の匂いがしていた。商人たちは吹き飛ばされる前に売り物を引っ込め、道を歩く人々は急いで近くの家や店に避難した。梱や小包は倉庫に運ばれ、今や港にいるのは職務に対する高潔な義務感から火を絶やすまいとする灯台守だけだった。水平線を縁取っていた黒い雲の層は盛り上がって、見たことのないほど高い山脈のように空を覆い始めた。大粒の雨がポタッと石畳に黒い点をつけると、すぐに第二第三の雨粒が続き、そのうち都が溺れるくらいの大雨がざあっと降り始めた。屋根の上で何百個という石を入れた樽をぐるぐるまわすようなけたたましい音がして、次に耳元で雷管が破裂したような音をさせて、雷が光った。二人の少年と一緒に旅籠屋のなかへ引っ込んだ少女は旅籠屋一階の食堂と広間が屋根を求め、嵐をやりすごすためにやってきた人々で埋まっているのを見た。そのなかに銃術師の姿を探した。だが、銃術師はいなかった。二人の少年が少女に自分たちのテーブルに来ないかと声をかけたのは軽い気持ちでおしゃべりをするためではなく、少女が目に見えて不安げな様子で、そのままはかなく消えてしまうのではないかと思われたからだった。
嵐は収まる気配を見せなかった。雨が横殴りになって壁を乱打し、都の市街地にある屋上の木に雷が落ちると、締め切った扉がびりびりと震えた。大量の水と雷を含んだ空気のかたまりは都のあちこちで弾け飛んだ。波は次々と押し寄せて、波止場にぶつかり、白く泡立った波頭が壁のように跳ね上がった。
外は真っ暗でカーディナル・タウンの名残は暴風と大雨のなかで火を点し続ける灯台だけだった。他のものは嵐の闇に沈み、雷が炸裂して強烈な光を発したときだけ見ることができた。少女はその光った瞬間に目をさらにして銃術師がどこかの街路にいないか必死に探した。だが、少女の力ではその一瞬で都じゅうの道を探すことは不可能だった。そこで少女は奇妙な願掛けを始めた。それは灯台が点いている限り、銃術師も無事だというものだった。子どもっぽいとは思うが、それでも銃術師がもう戻ってこないのだと思うと、ひどく寂しくなった。自分一人で銃を扱えるようになったし、もう六人撃ち殺しているが、それでも奴隷馬車に詰められていたころと同じくらいの心細さを感じていた。
嵐が海藻の絡んだ一本の流木を波の頭から投げ飛ばし、灯台にぶつけた。大きなランプが壊れてしまい、灯台守は危険なときに入る避難部屋へと入った。
灯台の火が消えるのを見た。少女は、ああ、と悲痛な声を漏らした。もう銃術師は戻ってこないような気がした。
ポロン、ポロロンと音がして、振り返った。シャルルがリュートの弦を気まぐれに弾いていた。その単調な調べのことをシャルルは〈おまじないの唄〉と呼んでいた。少女が二人の少年のテーブルに戻ると、シャルルが言った。
「〈おまじないの唄〉にはいろいろな唄があるんだ。なくしたお金を見つけるおまじない、鶏がおいしい卵を産むおまじない、喧嘩相手と仲直りできるおまじない、物覚えがよくなるおまじない――いろいろあるんだ。きみはどんなおまじないがいい?」
「……」
「遠慮しないで。何でもいいよ」
「……ある人に無事に戻ってきてほしい」
「なるほど。任せてよ」
リュートの調律をしているあいだ、グレンが少女に励ますように言った。
「シャルルのおまじないは結構当たる。先祖は魔法使いなんだからな。そんなに深刻な顔しなくても、何とかなるさ」
シャルルが弾いた曲はとてもテンポが速く、音があちこちに飛んでいき、まるで蜜蜂を目で追っているような調べだった。それはまさにこの嵐のなかを歩いているであろう銃術師の試練を織り込んだ曲だった。その不思議な調べを聴いていると、嵐のなかで坂を上っている銃術師の姿が目の前で見えるようだった。銃術師は七丁のリヴォルヴァーを水で駄目にしないよう七枚の青い油紙で包んで、ホルスターに入れなおしていた。外套の前をしっかりと閉じ、襟から水が入らないようにしながら帽子を手で押さえ、首をすくめるようにして、真っ暗な町のなか、坂を探して上っていた。嵐で町の顔はすっかり変わり、自分がどこを歩いているのかも分からなかったが、それでもとにかく上り続ければ、旅籠に戻れると信じて、進んでいた。銃術師は空に向かって銃を撃ち、その音の響き具合で周囲の地形や待ち伏せをまるで雲の上から覗いたように知ることができる。ときどき一発では足りなくて、二発三発と撃つこともあるが、このときは二丁のリヴォルヴァーを雷雲目がけて撃ち込んで、ついに目指す旅籠屋の位置をつかんだ。銃術師は何度も風で煽られ、外套の裾をバタつかせながら大股で歩き、そしてついに旅籠屋の鋲を打った扉を開けた――。




