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ある銃術師の建国記  作者: 実茂 譲
2.王なき地
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新しい土地へ

〈まどろみの海〉の名の由来はその名の通り、どんなに老練な船乗りでも思わずまどろんでしまうほど穏やかな海であることからその名をつけられた。なにせこの海ときたら、どんな種類の船でもすいすい進めてしまう風と潮を用意してくれるのだ。他にもいろいろな名前がある。〈ガレー船懲役囚の安らぎ〉〈黄金航路〉〈船乗りの卵の学校〉〈世界の香辛料の通り道〉などなど。

 この海では嵐ですら、船旅の目を楽しませる光と音の寸劇に過ぎない。嵐は必ず不運な船がいないところで起こる。まず水平線から黒い雲が振り上げられた拳のようにもくもくと高く上がる。そして、まるでその拳がふりおろされたような激しい落雷の音がして、海の色が一瞬だが、紫水晶のように透明になる。波が持ち上がって白い波頭が雪崩を打つように崩れ落ち、光で時間を止めようするかのごとく一度に複数の稲妻が落ちる。その瞬間、嵐は光の柱廊を持つ海の神殿となる。次にたくましく泳ぐマグロの大群が神殿を中心に円を描きながら、泳ぎ、海の神の先触れをするかのように船のそばを通り抜ける。あの一瞬見えた神殿があらゆる船と海に生きるものたちを祝福していることを告げるのだ。

 普通の人間には雷が海に落ちた瞬間は一瞬であり、荘厳な海の神殿のイメージをつかみきることができない。だが、少女は違った。銃術師と旅をして一年が経った今では、彼女の目は見ようと思ったものを少しだけゆっくり見ることができた。その目には稲妻は神殿らしくきちんと等間隔で並んでいて、光の柱廊に囲まれた水は偉大な神々の到来を待ち望む信者のようにぶつかりあって、渦を巻き、膨らんだ。だが、彼女が見ることができるのはそこまでだった。

 銃術師ならば、もっといろいろなものを見ることができるだろう。おそらくは神殿に現れる神々をはっきりと見ることができるはずだ。それにグレンワース・ライフルでその眉間を撃ちぬくことだってできるだろう。

 遠い空で嵐がおさまると、見物していた水夫や客たちが舷側から離れていった。大型ジーベック船は二百の乗客、二つの船倉に染色済みの反物、そして、食用として檻に入れられた豚や羊を除く三十の家畜を積んで、東へと波を切っていた。家畜部屋は藁を敷き、左右に十五の室を切った細長い部屋で、そのうち二十八はイーグルクロウ、一つは銃術師の馬、そして、最後の一つには少女が〈フレイ〉と名づけた雌のディアサヴィンが秣を食んでいた。顔は鹿で大きさはイーグルクロウくらいの大きさ、毛深く小さな尻尾、耳が長く、胸は馬と違って、ふさふさしたアーモンド色の毛が生えていた。

「フレイ」

 少女が呼びかけると秣桶から顔を上げて、少女に顔を寄せた。顎の下を掻いてやると、うれしそうに瞬きし、少女の顔をなめた。もう十ヶ月以上、フレイに乗って旅をしていた。人に慣れることが少ないディアサヴィンは少女には心を許し、信頼の証として背にまたがり、共に駆けることを望むようになった。無垢な目は慣れぬ航海で少し脅えているようだが、大丈夫よ、と首をなでてやると、落ち着いたように瞬きをした。

 あれから少女は再びしゃべることができるようになった。銃術師とも少ないが言葉を交わすようにもなったが、お互いの出身や過去はおろか名前すら知らなかった。一年間、互いの名前を知らないまま、隊商の護衛や賞金首の追跡をやり、盗賊たちと撃ち合い、銃撃戦では背中をあずけたにもかかわらず、少女は銃術師の名前を知らなかったし、銃術師も少女の名前をたずねることはなかった。仲が悪いわけではないし、騒々しいのが我慢できないわけでもない。ただ、お互い名前を知らずとも、うまくやっていき、一年間一緒にいられるというだけのことだ。一度、野宿をした際、行商人が焚火に引き寄せられて、ともに夜を過ごしたが、ずっと無言の少女と銃術師を見て、行商人はもう我慢できないと立ち上がり、去っていったのだが、こんなことを言っていた。

「そりゃあ、あたしはおしゃべりな性分かもしれない。でも、あなたがたはあまりにもしゃべりなさすぎです! もっと言葉をお使いなさい。とても便利なものだと分かりますから!」

 だが、まず誰を撃つとか、待ち伏せされてるといったやり取りは目でできた。目が口以上にモノを言うようになり、それが読み取れるようになった。軽い嘘くらいなら、二つに一つは目を見れば分かる。この能力も銃術師と旅を続けたおかげかもしれなかった。

 少女がフレイにブラシをかけているあいだ、ジーベック船は追い潮に助けられて、風よりも速く航海していた。見張りが海鳥を見つけ、目指す陸が近いことを報告すると、船長は甲板の檻のなかにいる豚のなかで一番肥えているやつを一頭屠って今日の夕食に供すよう司厨長に命じ、その日の夕食には豚肉の欠片が一つ浮かんだスープに決まった。それでも、酸っぱい臭いのする塩漬け肉に飽き飽きしていた船客たちは小躍りして喜ぶだろう。司厨長は豚の喉をきれいにかっさばくべく、大きな包丁を念入りに砥石にあてた。豚は屠られるとき、船じゅうに聞こえる断末魔の叫びを上げた。それをきいたフレイの耳がぴくっと動き、不安げな目を少女に寄せると、少女はフレイの首に抱きついた。

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