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契約

 荒い息を抑えながら、獣人の男は倒れ伏した人間を見た。今まさに自らの手で殺めた人間を。


「ハ、ハハ、ヒャハハハハ――」


 その笑い声は、目障りだった人間を自分の手で絶命せしめたことと、それをこれから自らの腹に収めることが出来ることへの歓喜に満ちていた。


「ああ、生の人間の肉なんて久しぶりだぜ」


 その獣人――ログにとって、それは本当に久々に訪れた僥倖だった。獣人としては恵まれない体格に産まれ、周りから見下される毎日。そんな彼にって人間とは、唯一安心して虐げることのできる弱者だった。だからこそ、脆弱な人間のくせに自分に従わず、ケチなプライドを守り続けるこの人間のことが憎くてたまらなかった。

 だがこの人間が自分の癇に障ることはもうないのだ。今はその事実が何よりも嬉しかった。彼は憎き人間の上半身を抱き上げ、今まさに齧り付こうと――


「――待て」


 だからこそ、掛けられた声は彼の想像の外にあるものだった。聞き慣れた彼の主人の声だ。


「……なんですか?」


 最高の瞬間に水を差され、不満の色を隠そうともせずログは答えた。しかし主人――セーレの言葉は、そんな彼の期待を更に裏切るものであった。


「やっぱり、餌にするのは()めだ。()()は私が使う」


「……何を言ってるんすか」


 信じられないような物を見るような目でセーレを睨むログ。それは奴隷としてあるまじき態度であったが、当のセーレは気に留めた様子もない。


「殺したらオレにくれるって約束でしたよね? なんで今更そんなことを言うんすか?」


「それについては謝ろう。反故にして申し訳ないと思っているとも。まさか本当に死を選ぶとは思ってなかったものでね」


 この女は何を言っているんだ。そんなことがまかり通っていいのか。この人間は、俺の(モノ)だ。ログは主人に反論するよりも先にと、人間の首元にその牙を突き立てようとした。しかし――


「ア、ガ、あ?」


 口が動かない。否、体全体が一切動かせない。


「お嬢様の話はまだ終わっておりませんよ」


 メイド長、ソフィアの冷たい声が響く。ログが自身の体に目を向けると、その表面に青白い手のような影が無数に巻きついていた。


「ヒィッ!」


 何が起きたか分からずパニックになるログ。そんな彼に主人は優しく声を掛けた。


「だから、それは()()()()なんだよ。言葉の意味を理解しているかな? そもそもだねえ」


 不可解な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと己の(しもべ)に歩み寄るセーレ。


「いつから私と対等な約束を交わせるほど偉くなったんだ?」


 ログはようやく理解した。この女はいとも簡単に、まるで当然であるかのように、約束を反故にしようとしているのだ。


「まあ悪魔としては契約は守らないといけないんだろうけどね。所詮はペットとの約束事、多めに見てくれるだろう」


 クスクス笑いながら近づいてくる少女に、ログは心底恐怖を覚えた。


「なあ、本当に理解(わか)ってもらえないのかな? それなら悪いんだが」


 悪魔が耳元で囁いた。


「キミにも、死んでもらおうか」


「ヒ、ヒイイィィィ!」


 自身を縛り付ける影を振り払えたのは、ログにとって唯一の奇跡であっただろう。彼は一目散に駆け出した。地下室の扉を抜け、一息に階段を駆け上がる。


「(殺される! あの女、本気でオレを殺す気だ!)」


 そんなログの背中をつまらなそうに見送ると、やれやれというように、セーレは小さく溜息をついた。そして、自身の足元に転がった、先程まで人間だったものに目を向ける。


「……まさか本当に死を選ぶとはね。面白い人間だ」


 靴の先で頭を小突くと、支えを失った頭部があらぬ方向を向き、口から赤黒い液体がピチャリと音を立てて零れた。


「それをどうするおつもりですか、お嬢様?」


 主人の邪魔をしないよう黙っていたソフィアが、ようやく口を開いた。彼女の経験からすれば、こういうときの主人の思いつきはあまり良いものではない。

 だが主人の返答は、そんな長年付き従ってきた従者の想像を更に超えるものだった。


「私達の言うことを聞くのは()()()()()()らしいからね。逆に言えば、一度死んでくれたのだから、今度は多少言うことを聞いてくれるかもしれない」


「……まさか」


 ソフィアは顔を顰めて言った。


「その人間を死徒(しと)すると、仰るのですか」


「そうだとも」


 セーレはそう言うと自らの指先に歯を立て、流れ出た血で遺体の胸に紋章を刻み始めた。


「そろそろ死徒の一人でも従えておかないと、箔がつかないだろう?」


「本気で仰られているのですかお嬢様!? 人間を死徒にするなど聞いたことがありません!」


「私もないさ。だから面白いんじゃないか」


「面白半分で行なうことではありません! お嬢様は初めて死徒化の儀を行なうのですから、この300年で溜め込んできた魔力の大半を、一時的に失うのですよ!?」


「いいじゃないか別に。溜め込んでいても仕方が無いんだし。それに」


 セーレは幼い少女のような、屈託の無い笑顔を向けた。


「何かあってもキミが守ってくれるんだろう、ソフィア」


「それは……」


 ソフィアは大きなため息をついた。こうなった主人は昔から頑固なのだ。


「……分かりました。お嬢様の身は(わたくし)がお守りいたします。それにメイド達も総力をあげて働かせます。決して不便な思いはさせません」


「ああ、それでこそ私の従者だ」


「(それに――)」


 ソフィアは口には出さなかったが、思い当たる節はあった。


「(お嬢様が人間に拘るのは、やはり()()()()のことがあったから――)」


 それはまだ主人が幼かった頃の記憶。魔族の身にすれば僅か一瞬でしかないが、確かに一時を共に過ごした、ある少女との思い出。


「さあ、これで準備は十分だろう」


 足元に横たわる人間の心臓部に拳ほどの紋章を描き終え、セーレは満足げに微笑んだ。そして紋章に右手を当て、左手を自らの胸に翳すと、詠唱を開始した。


「『汝、死せる者よ。偉大なるアルトマリアの血と、祖たる悪魔セーレの名を以って命ずる。其の虚ろなる身を我に捧げ、再び地に還るその時まで、絶対の忠誠を誓え。さすればその魂は今一度現世(うつしよ)のものとならん。今ここに契約は成立した――』」


 詠唱を終えると共に紋章が一際眩い光を放ち、そして消えた。それと同時にセーレの身がその場に崩れ落ちる。


「お嬢様!」


 咄嗟にソフィアがその身を抱き起こすと、セーレは額に汗を浮かべながらも、声だけはいつもと変わらない調子で言った。


「なるほど、魔力がごっそり減るとはこういう感覚か……ソフィア、後は、任せ、た」


 そう言うとセーレは目を閉じ、寝息をたて始めた。ソフィアはそんな主人の身を案じながらも、これから先の苦労について考え、一人嘆息した。


「ああ。せめて、この人間が少しは役に立てば良いのだけれど」

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