最後の日
「では検査を始めます。体調に問題は?」
「ありません」
翌朝、俺はメイド長のソフィアと共に地下室にいた。教室ほどの広さの空間で、岩を削っただけの壁に灯された蝋燭が、床に描かれた様々な魔法陣の跡を頼りなく照らしていた。
「結構。ではこちらを見なさい」
そう言ってソフィアが手をかざすと、何もない空間から白い光の玉が浮かび上がった。光の玉はそのまま真っ直ぐ俺のほうに向かってきて、ゆっくりと静止した。
「その光の玉を動かしてみなさい」
俺はおそるおそる右手を近づけ、やがて光の玉に手が触れた――かと思いきや、手は光の玉をすり抜けてしまった。ソフィアがふう、と息をつく。
「まあ、そう簡単なものではありません。手でも足でも、何を使っても構いませんよ。それは物理的な干渉を受けませんから」
ソフィアは椅子に腰掛け、本を開いた。魔道書の類かと思いきや、家具や小物のカタログのようだった。どうやら俺を気にかけるつもりは微塵もないらしい。
「動かすだけではなく、小さくするとか、色を変えるとか、何をしても構いませんよ。魔術のイメージとその効果には個人差がありますから」
ソフィアは目線を本から動かさないまま続ける。
「私も貴方からは一切の魔力を感知できませんが、納得するまで試してみると良いでしょう」
畜生。俺は光の玉を押し出したり、消し去ったりするイメージをしながら、それらしい動きを繰り返すのだが、玉はピクりとも反応しない。
しかしこれは俺に与えられた最後のチャンスなのだ。俺は自分の滑稽さを自覚しながらも、光の玉と格闘し続けた。
そのまま何時間が経過しただろうか、ソフィアが本を閉じてこちらを向いた。
「時間です。残念ですわね」
朝から飲まず食わずで必死に試していた俺だったが、どうやら徒労に終わったらしい。生まれ持っていた不思議な力が、なんて都合のいい展開は起きないようだ。
「私は来客の準備をしますから、貴方はシャワーを浴びて奴隷用の部屋で待機していなさい」
食材らしく身を洗えという意味か、などと自虐的な冗談が頭をよぎった。この地獄のような世界での生活も、いよいよ終わりを迎えるらしい。
シャワーを浴びて奴隷用の待機室に向かう途中、久しぶりに見る犬頭がニヤニヤしながら近づいてきた。確かログと言ったか、最初に広場で絡んできた奴隷だ。後ろには仲間と思しき他の獣人達もいる。
「とうとう死期が近づいてきたなあ、どんな気分だ、ええ?」
ログが心底嬉しそうに語りかけてくる。
「オレはなあ、初めて会ったときからテメエが気に食わなかったんだ。もうじきお前の肉が食えると思うと楽しみでなあ!」
「……そうか」
よりによってコイツに食われるとは最悪だ。だが俺は反論する余力も無く、自虐的に答えた。
「良かったな、我慢した甲斐があって。美味いかどうかは知らないが」
「おいおい、もう死ぬつもりでいるのか? これから最後の試験だろ?」
意外な言葉を返してきたのは、ログの後ろにいた別の獣人の男だ。
「なんだって?」
「聞いていないのか? お前の最後の仕事は、今夜来る客人の相手だ」
それは初耳だ。執事の真似事でもすればよいのだろうか。しかし自分で紅茶を淹れた経験もない俺が、高い評価を得られるとは思えないのだが。
そんなことを考えていると、待機室から声が掛けられた。俺の世話をしてくれていた猫耳のメイドだ。
「さあ人間さん、早くいらっしゃい。最後の仕事よ」
俺は言われるがままに待機室から別室に移された。客人用の部屋だろうか、高級なホテルを思わせる内装と、それに劣らない立派なベッドが備え付けられていた。
「これに着替えて」
そう言って手渡されたのは新品同様の真っ白なYシャツだ。元の世界の制服を思い出し、懐かしくすら思えた。
「これからお客様を呼んでくるから、ここでじっとしていること」
「はあ」
今ひとつ状況を飲み込めないでいる俺を心配しているのだろうか、それとも憐れんでいるのだろうか。微妙な表情のまま彼女は俺を見つめて言った。
「男は度胸! 頑張りなさいな」
よく分からないことを言いながら、猫耳メイドは部屋を後にした。彼女なりに気遣ってくれてはいるのだろうか。
そうしてしばらく待っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
ゆっくりとドアを開くと、そこにいたのは意外な人物だった。
「こんばんは、気分はどうかしら?」
「……マリーさん?」
花屋にいるときとは雰囲気が違うが、それは間違いなく花屋の看板娘、マリーだった。いつもの制服ではなく赤を貴重とした煌びやかなドレスを身に纏い、その胸元からは艶かしい白い素肌が覗いている。
俺は自然と目が泳ぐのを抑えつつ、なるべく冷静に言葉を続けた。
「客人って、マリーさんのことだったんですね」
「ええ、正しくはうちの店長だけどね。私は付き添いよ」
そう言うとマリーさんは俺の手を引き、ベッドの淵に腰掛けた。俺は流されるまま隣に座る。
「ちょうど店長もセーレ様に用があったみたいだからね。今日こそお花を買ってもらうんだから」
「はは……」
状況が飲み込めずに俺は曖昧な返事をした。いつまで手を握っているんだろうか。
「さっきセーレ様から聞いたわよ。貴方、ここの正式な執事になるんですって?」
「え?」
全くの初耳だ。どういうことだ?
「良かったじゃない! ただの人間が魔族のお屋敷に仕えるなんて聞いたこと無いわ!」
まるで自分のことのように喜ぶ彼女だが、俺は全く状況が掴めない。
いや、実は薄々感づいてはいるのだ。奴隷には相応しくない豪華な部屋。猫耳メイドの不自然な態度。ただその想像は、あまりにも俺にとって救いがなさすぎた。
「それでね、折角の人間同士なんだから仲良くしたらって、店長が」
マリーが声のトーンを落とし、潤んだ瞳を向けて言った。
ああ、つまるところ、全部セーレの差し金だ。俺を執事として雇うとか適当なことをマリーに吹き込んで、俺達がどうするかを見て愉しんでいるのだ。おそらく店長とやらもグルだろう。
「ねえ、分かるでしょう? 自分がどうすべきか」
そしてマリー自身も恐らく気づいている。それでも尚、この演技を続けているのだ。自分達の娯楽のためにまぐわって来いという命令に従うためだけに。
「お願いよ。私を満足させて――」
彼女が唇を近づける。それが彼女の処世術であり、彼女の選んだ生き方だった。花売りとしての才能を見出された彼女ですらこうして生きるしかないのが、この世界なのだ。
だが俺は刹那の逡巡の末に――それを拒んだ。
「もう、やめましょう」
マリーの瞳に戸惑いの色が浮かび、それは瞬時に怒りへと変わった。
「貴方、自分の立場が分かってるの? ここは人間が選り好みして生き残れる程、甘い場所ではないのよ」
彼女の言うことは正論であったが、それと同時に、自身に言い聞かせているようでもあった。俺はそんな彼女の怒りを買うことを承知で、はっきりと答えた。
「それでも、やめるべきだ。そんな――そんな顔をしてまで、やるようなことじゃない」
そう、マリーの顔に浮かんでいるのは怒りの感情だけではなかった。やりたくもないことをしなければいけないことへの、嘆き、自嘲、そして――悲しみであった。
「分かったようなことを――」
彼女は咄嗟に何かを言い返そうとしたようだが、それ以上の罵声が口をつくことはなかった。彼女はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げてきっぱりとした口調で言った。
「――ええ、そうね。貴方がそう思うのなら、そういう風に生きればいいわ。出来るものならね」
それだけ言うと、彼女は早足で部屋を出て行ってしまった。俺は何も言えず、自分の選択は正しかったのかと、己の胸に問いかけることしか出来なかった。
しばらくすると、状況を察して戻ってきたのであろう猫耳メイドが部屋に入ってきた。
「人間って分からないわね。残念だけどご主人様の顔に泥を塗った以上、もう会うことはないでしょうね。まあ、久しぶりの人間と話せて楽しかったわ。それじゃあね」
俺は沈んだ気持ちのまま答えた。
「……はい、お世話になりました」
――ああ、ようやくこの悪夢が終わるのだ。
第10話につき一部改稿いたしました。