七話 妹
「すみません、取り乱しました」
漱の必死の弁明により、なんとか落ち着きを取り戻してくれた的場は、土下座したせいで汚れた眼鏡を拭いている。
視力が悪いせいだと思うが、眼鏡を外した的場の眼光は細く鋭い。漱を睨みつけているようにも見える。
本人が「可愛くない」と言ってしまうのは、この悪癖のせいもあるのだろう。無意識のうちに目を細めてしまえば、目つきが悪く見えるし可愛くもない。
眼鏡を拭き、かけ直せば、いつもの的場に戻る。
「改めて言っておくけど、事あるごとにお世話してくれようとするのは、嬉しいけど困るんだよ。的場さんが嫌いとかじゃない。他の女子でも一緒。思春期の男心を理解しろって言っても、女子の的場さんには難しいと思うけど、できるだけ理解してくれると助かるかな」
「はい……重ね重ね、すみませんでした」
素直な子ではあるので、言い聞かせれば納得してくれた。
が、素直なだけではなく、頑固でもあるのが的場清美だ。
「ご迷惑にならないようにお世話させてください」
「理解してくれない……」
がっくりと肩を落とす漱。
気を取り直して話の続きを。
と思ったが、その前に昼食にしよう。いつの間にか正午を回っている。
漱には的場が作ってくれた弁当があるが、作った本人はというと。
「私はお菓子で」
「やめなさい」
「よくやってますよ。三食お菓子でもいけます」
「やめなさい」
「自分の分は作ってないんですけど」
「コンビニに行ってくだ……いや、俺も一緒に行きます」
的場一人で昼食を買いに行かせれば、甘い菓子パン一つで済ませるとかやりかねない。それでは栄養も偏るし健康にもよくない。
なお、漱自身の昼食もカップラーメンが多いことは、完全に棚上げしている。
的場と一緒に学校を出てコンビニへ向かう。
手のかかる妹を持つ兄にでもなった気分だ。姉しかいない漱にとっては、可愛い妹分である。
コンビニまでは、徒歩で五分とかからない。にもかかわらず、汗だくになってしまった。クーラーの効いた店内に入ると天国のようだ。
漱にとっては快適でも、的場にとっては寒いらしい。すぐに昼食を買ってコンビニを出ようとする。
案の定、菓子パンを選ぼうとしていた的場を注意し、幕の内弁当を買わせる。所詮はコンビニ弁当なので栄養面は期待できないが、菓子パンのみはいけない。
「私のクリームパン……」
的場が絶望的な声を出したせいで、結局クリームパンも買ってしまった。
妹に甘過ぎる困った兄、といった具合か。コンビニの店員から温かい目で見られた気がする。
漱はペットボトルのお茶を購入し、買い物終了だ。
「外はあったかいですね」
上機嫌でコンビニを出た的場は、信じられない発言をした。
今日も猛暑日だ。暴力的なまでの太陽光が、地上の人間を殲滅すると言わんばかりに襲いくる。
なのに、暑いではなくあったかいと。
「的場さんって、やっぱり変」
「この猛暑の中にずっといれば、私も暑いって思いますよ。コンビニが寒かったので、今はちょうどいいだけです」
「あの短時間で寒くなるなら、色々大変じゃない? どの店にも行けないよね? カラオケが好きって言ってたけど、カラオケだって寒いんじゃ?」
「カラオケは歌うので平気です。温まりますから。他のお店は辛いんですよねえ。だからって冬は寒いですし、私が安心して暮らせる季節が少なくて困ります」
他人事ではあるが、これは大変そうだ。
「カーディガンとか常備しないの?」
「したいですよ。でも、真夏なのに変な子だって見られるのも嫌です。私の安息の地はどこですか!? 冬とクーラーなんてこの世から滅びてください!」
他愛もない会話をしつつ、学校へと戻る。
部室も暑いが外よりはマシだ。扇風機もあるし。
二人で昼食を食べる。的場の弁当は、意外と言えば失礼だがしっかりとしたメニューだった。
「ケーキでも入ってるかと思った」
「入れません! 小早川先輩って、時々意地悪ですよね!」
ケーキは冗談として、本当にしっかりしている。
まずは、ふりかけがかかった白米。
おかずは、鶏のから揚げ、卵焼き、鮭の切り身、里芋とレンコンの煮物、レタスにプチトマト。
一つ一つはさほど難しいメニューではないが、全部作ろうとすれば大変だ。
男子の漱に合わせてボリュームも十分だし、的場の努力がうかがえる。
「これ、的場さんが作ったの? お母さんじゃなくて?」
「私が作りました。お口に合うかどうかは分かりませんけど」
「ありがとう。いただきます」
女子の手作り弁当を食べるなど、初めての経験だ。
感謝を捧げ食させてもらう。
「うん、おいしい」
「本当ですか! やった!」
「激マズだったらどうしようかと思ったけど、お世辞じゃなくおいしいよ」
「やっぱり意地悪でした!」
照れ臭くて憎まれ口を叩いたが、おいしいのは事実だ。
味付けは全体的に濃いめとなっており、漱の好みに近い。味の好みを教えた覚えはないので偶然だろう。
卵焼きは甘かった。甘い卵焼きがあることは知っているが、漱の家ではしょっぱいので変な感じがする。お菓子が好きな的場らしい味だ。
口いっぱいに弁当を詰め込む漱を、的場は真剣に見ている。彼女が買った幕の内弁当はほとんど手つかずだ。
「見られていると食べにくいんだけど。自分のを食べなよ」
「おいしくできたかどうか気になりまして。味見はしましたけど、漱先輩においしいって思ってもらえるかなって」
「おいしいよ」
答えてから、疑問に思った。
今、「漱先輩」と呼ばれたか?
「的場さん、俺のことなんて呼んだ?」
「小早川先輩?」
「だよね。変なこと聞いてごめん」
誤魔化している様子はない。
聞き間違いだったのか、もしくは的場が言い間違えたのか。
的場が下の名前で呼ぶならそれでも構わないが、漱が自分から呼んでくれと頼むのは気恥ずかしい。
昼食に戻り、ほどなくして食べ終えた。
的場は漱を見ていたせいで遅れたが、こちらも綺麗に平らげた。好き嫌いが激しいわけではないようだ。
「野菜が嫌いとかじゃないんだ」
「普通に好きですけど、なんでですか?」
「三食お菓子って言い出す人なら、好き嫌いが激しいのかなって」
「ゲテモノ料理でもなければ、なんでも食べますよ。健康の秘訣です」
「健康を気にする人は、三食お菓子って言わない」
「なんでもには、お菓子も含みます。むしろ、お菓子こそが健康の秘訣です」
「その理屈はおかしい」
「お菓子だけに?」
「……俺、的場さんの性格が分からなくなってきた」
ジョークはいつものことだしスルーしておくとしても、中学校時代は皆勤賞だと言っていたかと思えば三食お菓子だ。
それはいいとして、少し休憩してから午前中の続きを行う。
「どこまで話したっけ?」
「伝説の先輩が自殺を考えていたのではってところです」
「そうだった。自殺か、余命幾ばくもないか。いずれにしろ、自分の命が消えそうだからこそ、ベテルギウスに見立てたって考えられないかな?」
「考えられなくはありません。ただ、私は違うんじゃないかなって思います。小早川先輩の意見を否定してばかりですみません」
過程を変更してハッピーエンドにする案を否定され、おおいぬ座のアルビレオを否定され、今度は伝説の先輩の命が短い可能性も否定された。
否定ばかりだが、続きを書くためなのだから構わない。
「気にしなくていいから、どうして違うと思うのか聞かせて」
「はい。自殺にしろ余命が短いにしろ、伝説の先輩がその手の悩みを抱えているなら、ベテルギウスを用いるなんて回りくどい真似をしますか? 登場人物たちを自分と同じにするんじゃないかと思います」
「理由はいくらでも考えられない? 死をテーマにすると重くなるとか、自分の分身のようなキャラクターを書くのが恥ずかしかったとか」
「普通ならその通りです。でも、銀河鉄道の夜を意識したなら、自分の分身にしそうなんですよ。銀河鉄道の夜では、主人公のジョバンニのモデルが作者である宮沢賢治、幼馴染のカムパネルラのモデルが賢治の妹であるという説があります。妹を大切にしていたのに死んでしまい、死後に書かれたのが銀河鉄道の夜ですから」
仲の良い兄妹だったわけだ。
妹を大切にするのはいいことだと思う。漱も姉は好きだし、的場だって妹っぽくて好きだ。
それでも、現代ではシスコンと呼ばれるであろう。
宮沢賢治は妹大好きなシスコン。こう表現すると、途端に陳腐に聞こえる。
「自殺も違うか。難しいな」
「伝説の先輩の人柄を知りませんし、考えるにも限界がありますよね。直接会ったこともありませんから」
「あ、そっか」
簡単な方法を見落としていたと的場の言葉で気付かされた。
「聞けばいいんだよ。伝説の先輩を直接知っている人に」
漱の先輩である狭間だ。
「小早川先輩は、昨年お聞きしたのでは?」
「聞いたけど、さほど重要視してなかった。伝説の先輩と『ベテルギウスの下で』を切り離して考えてたし」
善は急げだ。早速、狭間に電話をかける。
幸運にもすぐに出てくれた。
『うぃーっす』
「先輩、お疲れ様です。小早川です」
『おう。久しぶりだな。電話をかけてくるなんてどうした?』
「実は、聞きたいことがありまして」
文化祭に向けて、『ベテルギウスの下で』の続きを書こうとしていることを伝えた。そのために、伝説の先輩の人柄を知りたいと。
『話すのはいいが、長くなるし電話だと面倒だな。小早川は今どこにいる? 部室か?』
「部室ですよ。部活中です」
『ならちょうどいいや。今から遊びに行く』
「今からですか? 先輩、大学は?」
高校が夏休みなのだから、大学も夏休みなのは分かる。
だが、狭間は県外の大学に通っているので、簡単に来られる距離ではない。
『実家に帰ってきてるんだよ。暇だから時間を潰すのにもってこいだ』
「俺が想像する大学生は、夏休みこそが楽しそうなんですけど。アルバイトをしたりサークルで海や山に行ったり、あるいは恋人を作ってひと夏の経験とか」
『それなあ。俺も期待してたが、うまくいかなくて。一応、入学早々に彼女はできたぞ。同じサークルに入った一年の女だ。もう別れたが』
「はっや。三ヶ月くらいですか?」
『一ヶ月でフラれた。好きな人ができたとさ。相手は同じサークルの先輩だ。おかげで若干女性不信気味だし、サークルにも行きにくいし、こっちへ逃げてきたわけだ。アルバイトもしてないしな』
返答しにくい話が出てきてしまい、漱は言葉に詰まる。
『変に辛気臭くならなくていい。てなわけで、今から行く』
「ちょ、ちょっと待ってください。部員にも聞いてみないと」
遊びにくる気満々な狭間には悪いが、的場にも聞かなければならない。
今でこそ漱に懐いてくれている的場も、最初はあまり会話をせず大人しかった。人見知りする部分のある彼女が、OBが顔を出すことをよしとするかどうか。
漱が先輩命令を使えば従うものの、できれば当人の意見を尊重したい。
『おっ、やるじゃないか。新入部員入ったんだな。よくやった!』
「一人だけですけどね。相変わらずの弱小部ですよ」
『小早川ならまだしも、一年は知らないOBになんか好んで会いたくないわな。俺も分かるぞ。我が物顔でサークルに顔を出すOBのうざいことうざいこと』
「聞いてみるので少し待ってください。一度電話を切ります」
『あいよ』
狭間との電話を終え、的場に向き直る。
「小早川先輩の先輩がくるんですか?」
「聞こえてた? そうだけど、的場さんはいいかな? 遠慮しないで嫌なら嫌って言っていいよ。先輩は意外と優しいし、気分を害したりしないと思う」
「確か、お二人いたんですよね。二人ともくるんですか?」
「一人だけ。狭間って名前の先輩だね」
思えば、的場に狭間の名前を教えたことはなかったかもしれない。時折話題にはなったが、漱は狭間を単に先輩と呼ぶので、名前は出なかった。
ちなみに、もう一人は部長と呼んでいた。漱以外は二人しかいなかったので、部長と先輩で十分に区別可能だった。
「狭間先輩ですか。こ、怖い人じゃないんですよね?」
「怖くないって。外見も普通だし、乱暴なこともしないよ」
「もしものことがあれば、小早川先輩が守ってくれます?」
「何もないと思うけど、もしもの時は守るよ」
「小早川先輩が私を……分かりました! 私なら大丈夫です!」
「ありがとう」
的場の許可を得られたし、狭間にもう一度電話をかけてOKだと伝える
少し時間はかかるだろうし、部室を掃除しておこう。
「お菓子は隠しておこうか。怒られないと思うけど一応ね」
「はい」
二人で軽く部室を掃除しつつ、狭間の到着を待つ。