五話 お弁当と先輩命令
銀河鉄道の夜を読破した漱だが、就寝前にもう一度読み直した。面白い小説は何度読んでも面白い。
余韻に浸ったままで眠り、翌朝は気分よく目覚めた。仕事に行く両親と一緒に朝食を食べる。
「漱は、今日も部活か?」
「うん」
父に質問されたため、短く答えた。
次にくる質問には見当がつく。
「部活もいいが、勉強はしてるか? 学生の本分は勉強だぞ」
「分かってるって。ちゃんとしてるよ」
案の定だった。部活にかまける息子に対する、父からのありがたいお言葉だ。
漱の成績は決して悪くない。むしろ優秀な方だ。東大に合格できるほどの秀才ではないが、そこそこの国立大学なら狙える。
なまじ優秀だからこそ、両親も期待するのだろう。漱が本腰を入れて勉強に取り組めば、もっと成績は伸びると考えている。
私立大学よりも国立大学の方が学費は安くて済むという現実的な問題もあるし、勉強して国立へ行けとよく言われる。
今年の夏休みだって、塾の夏期講習を受講すべきと主張する両親と少々揉めた。
漱は自力で勉強すると訴え、塾通いは勘弁してもらえたが、おかげで夏休み明けの試験では高得点を取らねばならなくなった。
成績が悪ければ、両親はここぞとばかりに塾へ行かなかったからだと言い出すに違いない。そのまま、普段から塾に通う羽目になってしまっては漱が困る。
なにかにつけて、勉強勉強だ。
勉強が必要なのは理解するが、頻繁に注意されればうんざりしてしまう。
漱は昔から、いわゆる「いい子」であった。
親の言うことをよく聞き、学校でも真面目で先生から褒められ、成績も優秀。思春期になっても、反抗期らしい反抗期は経験していない。
姉などは、両親と大声で罵り合うこともあった。大学への進学も、自宅から通えるところに行けと要求する両親に、県外の大学へ行きたいと訴える姉が丁々発止やり合っていたものだ。
最終的に姉の要望が通ったものの、両親はいまだに納得していない。
姉の分まで漱に期待がかかっている。両親の言うことをよく聞く「いい子」である漱に。
時々思う。このままでいいのかと。
むやみに反抗すればいいとも思わないが、自分の意思は持つ必要がある。
塾の夏期講習を拒否したのなど、意思を持ったことにはならない。塾は成績を伸ばすための手段でしかないからだ。成績さえよければ両親も文句は言わない。
では、よい成績を取った先はどうなる? 大学に進学した先はどうなる?
ここに自分の意思が絡んでくるだろうに、将来のビジョンがさっぱり見えない。
自分の中でこれと決めている目標があれば、両親に反抗してでも貫く価値はあるが、何もないのに反抗する意味はない。
結局、言われるがままに日々を過ごしているだけだ。
鬱々とした気分になるが、気持ちを切り替え学校へ行く準備を整える。
夏休み中は、普段の学校と同様に平日は部活があるのだ。
ただし、二人しかいない文芸部なので、臨機応変というか行き当たりばったりというか、予定はコロコロ変わる。
用事があれば休むし、大雨で外出が面倒だと思えば休みにするとか。
今日は休みにするとも話していなかったため、部活に行くために家を出る。
外は相変わらずの暑さだ。父からのお説教と合わせてうんざりする。
汗を流しつつ歩き学校へ。部室に到着すれば、昨日の再現が繰り広げられる。
「お疲れ様です、小早川先輩!」
今日も今日とて元気一杯の的場が挨拶してくれた。朝から嫌な気持ちになっていたが、的場の笑顔を見ると暗い感情が霧散していく。
「お疲れ様、的場さん。これだけ暑いのに元気だね」
「元気なのが取り柄ですから!」
「いいことだけど、タオルは遠慮するよ。飲み物もうちわもね」
「先回りしないでくださいよ! でしたら、マッサージはいかがです? 肩でも手足でも腰でも! お好きな場所をマッサージします! なんなりとお申し付けください! ご要望のままに!」
「マッサージも結構です」
普段であれば、これだけ断れば的場も引いてくれる。
ところが今日は違った。
「何かさせてください! なんでもいいですから!」
「や、やけにグイグイくるね。どうかしたの?」
「昨日、銀河鉄道の夜の話をしたじゃないですか! 私も久しぶりに読んでみたんですよ! そしたらもう、テンションが上がっちゃって!」
納得した。だから普段以上に元気なわけだ。
「歌でも歌う? トゥインクル、トゥインクル、リトル、スターとか」
「いいですね! 的場清美、歌います!」
冗談で言ったのに、的場は本気で歌い出した。
トゥインクル、トゥインクル、リトル、スター。銀河鉄道の夜にちらりと登場した歌だ。日本語のタイトルなら、きらきら星。
歌唱力はたいしたことない。音程もところどころ外しているし、歌詞だって間違えていそうな気がする。英語がかなり適当だ。
有体に言えば下手くそだが、的場は楽しそうに歌う。
「ご清聴、ありがとうございました!」
「わー、パチパチパチ」
漱は棒読みで擬音を口に出した。
うまかったとはお世辞にも言えない。かといって、下手くそだったとも言えず、反応に困る。
自分が振ったこととはいえ、失敗したと思う。
「的場さん、歌うのが好きなの?」
「好きです! カラオケとか大好きです! 下手の横好きですけど!」
下手くそだという自覚はあるようだ。
漱だって、あまり的場を悪く言えない。歌もそうだし、絵画などの芸術方面のセンスは壊滅的だ。動物を描けば未知なるクリーチャーが爆誕する。
カラオケにもまず行かない。友達同士で行く時も断っている。
そうとは知らない的場は、無邪気な様子で言う。
「小早川先輩、今度カラオケ行きませんか! もっと歌いたくなりました!」
「ごめん、俺カラオケ苦手なんだ。音痴だから」
「私も下手くそですし、おあいこですよ! 遠慮せずに歌いましょう!」
「いやその……そ、それよりも、銀河鉄道の夜だよ。俺も読んだから話さない?」
カラオケの話題になってもらっては面倒なので、無理矢理話題を変えた。
いささかわざとらしくはあったが、的場は目の色を変えた……と思う。瓶底眼鏡のせいでよく分からないが。
「読んでくれました!?」
「読んだよ。ストーリーは覚えてなかったから新鮮だったし、面白かった。的場さんが言っていた意味も理解できたよ」
「嬉しいです! 小早川先輩は、どういうところがお好きでしたか!? 私は色々出てくる比喩表現が好きです! アルビレオの表現で『青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとおった球』とか、蠍の火の表現で『リチウムよりも美しく』とか!」
「リチウムなんて、小学生じゃ分からないよね。高校生の今なら分かるけど」
「そうなんですよ! 化学の授業で習った時、これのことかって思いました!」
高校の化学の授業では、炎色反応について習った。アルカリ金属などを炎に入れた時、金属の種類によって異なる色に変化する反応のことだ。
リチウムは赤色。ゆえに、蠍の火の比喩表現に用いられている。
炎はそもそも赤いのに、リチウムはさらに赤く反応する。そのリチウムよりも美しい赤色の火だ。ただの火ではなく特別なのだと想像力をかき立てられる。
「あとですね、主人公であるジョバンニの影の比喩表現も好きです! ちょっと暗いですけど、『化け物のよう』ってなってるんですよね! 孤独感や疎外感を覚えているジョバンニの心情にピッタリだと思います!」
「そこまでは読み取れなかったなあ。的場さん、本当に好きなんだ」
「何度も読んでますから!」
的場は嬉々として語っている。
話を聞いてあげたいのはやまやまだが、銀河鉄道の夜について語り合うだけではダメだ。
「悪いけど、『ベテルギウスの下で』も考えないと」
「そうでした! 小早川先輩、今日はお時間大丈夫ですか!? いつもみたいに午前中だけじゃ足りないと思いまして、午後からも部活しましょう!」
「いいね、やろうか」
楽しそうだし、文化祭という期限もあるし、漱は二つ返事で了承した。
すると的場は、多大な衝撃を受けたようによろめく。
「こ、小早川先輩が、私のお願いを聞いてくれた!?」
「いやいや、俺をどれだけ冷たい人間だと思ってるのさ」
「だって、普段はあれもダメ、これもダメって言うじゃないですか」
「的場さんが変なことしようとするからだよ」
「変なことじゃなければいいんですか?」
「多分だけど、俺の考える『変なこと』と、的場さんの考える『変なこと』には、途轍もない食い違いがあると思うんだ。現世と幽世のように、決して交わることはない」
「ジョバンニは、あの世に少し入り込みましたし、たまにならいいんですね!」
「……前向きなのは長所だよね」
「ありがとうございます!」
褒めてはおらず皮肉のつもりだったが、的場は普通に喜んでいた。
さらに、的場はでかいリュックサックを持ち出す。普段使っている通学カバンとは別物で、旅行にでも持っていくようなリュックサックだ。
ファスナーを開け、中身を取り出すが。
「何、それ?」
「食べ物です! お菓子をたっぷりと用意しておきました! 読書のお供にはお菓子! 鉄板ですよね!」
出るわ出るわ、文芸部の部室にある長机の上にはお菓子の山が築かれた。
溶けることを懸念したのか、主にスナック菓子でチョコレートの類はない。
と思えば、小型のクーラーボックスまで出てきた。中に入っているのはチョコレートだ。
準備がいいというか、よすぎる。
ジュースやアイスを入れて、空いたスペースにチョコレートを入れるならまだしも、チョコレートオンリー。こんな人は初めて見た。
「すみませんけど、飲み物は自販機で買ってください! ジュースを入れるスペースがありませんでした!」
「いいのかなあ?」
部室に大量のお菓子を持ち込むのは、褒められた行為ではない気がする。
バレるかバレないかで言うなら、おそらくバレない。顧問の先生は、あまり部活に顔を出さないので、証拠を隠滅しておけば大丈夫だ。
夏休み中の部活の予定は伝えてあるため、時折様子を見にくるが、今日に限って偶然訪れる可能性は低い。
的場がそこまで考えたのであれば、なかなかの策士である。
「そしてですね! 実はまだあるんです!」
「まだ?」
見るだけで胸焼けしそうなお菓子の山以外に、何があるのか。
クーラーボックスのチョコレートをかき分けて出てきたのは、巾着袋だった。
「えっと……お弁当、作ってきました」
遠足前の子供のようにはしゃいでいた的場だったが、ここだけは声のトーンが下がった。
オドオドしながら巾着袋を漱に差し出してくれる。
「お、俺に?」
「はい……あの、へ、変な意味じゃないです。いつもは午前中しか部活しませんし小早川先輩はお昼ご飯を用意してないと思いましたので午後もやりましょうって言い出す私が用意すべきだと考えた次第でありましてもちろんご迷惑なのは承知ですしお口に合う自信もなく豚のエサにでもしてしまうべき出来ではあるかと存じ上げ申しておりますがゆえに……」
早口でめちゃくちゃな言葉をまくしたてる的場の顔は、耳まで真っ赤になっていた。夏の暑さに強いと豪語していたにもかかわらず、額に汗もかいている。
それでも弁当を下げることはせず、漱に向かって告げる。
「た、食べてもらえると嬉しい……です、はい」
「……ありがとう」
わざわざ弁当を作ってくれた真意は気になるが、ここまでされて断れるはずもない。漱は、ありがたく弁当を受け取ることにした。
ただし、毎日これをやられては困るので、釘は刺しておく。
「ありがたいけど、今日だけにしてね。迷惑とかじゃなくて、的場さんの気持ちは嬉しいんだ。でも、しょっちゅう作ってもらうのは申し訳ないから」
「私は気にしないんですけど」
「俺が気にするの。先輩命令です。今日だけにしなさい」
上下関係にきちんとしている的場を言い含めるには、先輩の立場を使って命じるのが一番だ。
偉そうに命令するのが慣れなくて、毎度丁寧語になってしまうが。
本当なら、世話を焼こうとするたびに厳しく言ってやめさせるべきである。
厳しく言えないのは、漱自身も嬉しく思っているからだ。困ると言いつつ、後輩の女子から慕われて悪い気がするわけがない。
毎日弁当を作ってもらうのはやり過ぎと判断し、今だけは言っておいた。
「分かりました。残念ですけど今日だけにします」
「ありがとう。それと、お金も払うね。お菓子とお弁当で結構かかったでしょ?」
「私が勝手に用意したんですし、いりませんよ!」
「受け取りなさい。先輩命令です」
「ご、強引ですね。また命令ですか」
「こうでもしないと、的場さんは言うこと聞いてくれないし」
財布から千円札を二枚抜き出し、的場に渡す。
金額が多い少ないで揉めそうだったので、ここでも先輩命令を使った。
すったもんだあったものの、なんとか一段落だ。
「自販機でジュース買ってきて、話をしようか」
「はい!」
漱と的場は一旦部室を出て、ジュースを買いに行く。
一日では食べ切れないほどのお菓子はあるし、語り合う内容も多いし、今日は長い一日になりそうだ。