四話 銀河鉄道の夜
的場との愉快な部活動を終え、漱は帰宅した。
午前中から部活に行っていたので、帰宅時はまだ午後一時を回ったところだ。
厳しい運動部ではあるまいし、一日中部活動に励みはしない。そもそも、やるべきこともあまりない。
午前九時から正午までが部活の時間になる。多少の前後はあるし、今日も話していたら正午を過ぎていたが、午後まではあまりやらない。
誰もいない家に帰る。高校生の漱は夏休みでも、両親は仕事だ。
真っ先に自室のクーラーをつける。汗も大量にかいているので、軽くシャワーを浴びて流す。
さっぱりしたところで昼食だ。
クーラーをガンガンに効かせた部屋で、熱々のカップラーメンをすする幸福。
クーラーの設定温度は二十八度にするなんて知らない。無視だ、無視。
弁明をしておくなら、二十八度の設定温度で乗り切れる暑さではないのだ。
異常なほど暑い。熱中症にでもなれば命の危険がある。両親のいない時に倒れ、誰にも助けてもらえずに死亡とか、笑えない展開が現実になるかもしれない。
ゆえに、クーラーの設定温度は二十二度。涼しくて快適である。
脳内で言い訳の言葉をまくしたてつつカップラーメンを食べた。
カップラーメンだけでは栄養が偏るので、野菜ジュースで補給する。どこまで効果があるかは知らないが、補給できていると思っておく。
食後のデザートにアイスなども。実に幸せなひと時である。
この程度で幸せに思えるほど、小早川漱という少年は平々凡々だ。
家族構成も至って普通で、両親に姉が一人いる。祖父母は父方も母方も健在だ。同居はしていないため、会うのは盆と正月くらいだが。
共働きの両親はただの会社員。社長だの役員だのという役職にはついていない。
姉は大学生で、現在は県外の大学に通っており一人暮らしだ。お盆には帰省するだろうが、今はいない。自由気ままな大学生活を満喫中だと思う。
特別に裕福でもなければ貧乏でもない、現代日本のどこにでもある家庭だ。両親は家のローンに頭を悩ませているが、子供の漱にはあまり関係ないし、大学にも行かせてもらえそうだ。
家族仲はまずまず良好。二言目には「勉強、勉強」と口にする両親はたまに嫌になるが、そんなのは誰しも経験することであろう。
特別性の欠片もない。実は両親や姉と血がつながっていないとか、血のつながった姉と禁断の関係にあるとか、両親から虐待を受けていて心に深い傷を負っているとか、その手の特別性は皆無なのだ。
漱にだって悩みはもちろんある。それとて、誰もが持つ悩みだが。
学校の成績に一喜一憂したり、小遣いの少なさに嘆いたり、恋人がいる友人を羨ましく思ったり、思春期の男子高校生らしい些細な悩みだ。
ドラマチックな何かなど起こりようがない日々を過ごしている。
目下の楽しみは、やはり部活だ。昨年も楽しかったが、今年は的場のおかげでより楽しくなった。賑やかな彼女を見ているだけで癒される。
部活は楽しい反面、帰宅して一人になれば物悲しさを感じてしまう。
家に誰もいないのをこれ幸いと、的場を連れ込めばいいのかもしれない。警戒心の弱い彼女なら、ホイホイくっついてきそうだ。
「ま、できるわけないけどね」
頭に浮かんだ思考を即座に切り捨てた。
漱は的場を憎からず思っている。的場も同様であろう。
ただし、彼氏彼女の関係に至るほどかというと疑問だ。
今の関係が心地よい。おそらく、ずっとこのままである気がする。
漱が部活を引退するまで、残り一年弱。一年間、仲のいい先輩後輩の関係を維持できればと思う。
的場との関係を想像しつつ、約束を果たそうとする。小説を読むのだ。
「どこにやったかなあ? 捨ててはいないはずだけど」
小学生の頃、読書感想文を書くために買った覚えがある。かすかな記憶を頼りに部屋の本棚やクローゼットを漁り、本を探す。
漱は、文芸部に入部するだけあり、割と読書好きだ。本棚にも多くの本が置かれている。
高校生にしてはマンガが少なく、野球マンガやテニスマンガが少々あるだけだ。
漱はマンガよりも小説が好きだ。文字を追いかけ、情景を頭に思い描きつつ楽しむのが好きだ。
キャラクターの心情をしっかり描写してくれるのも、小説のよさだと思う。
マンガでは、どうしても絵が中心になり、心情描写では小説に一歩譲る。
逆に、激しい動きを描写するのはマンガが有利だ。だからスポーツ作品はマンガで読む。
「あ、これ懐かしい」
目当ての小説を探していたはずが、懐かしいファンタジー小説を見つけてしまったせいで、つい読みふけってしまう。
途中で我に返り、ちゃんと探す。時間はかかったが、無事に見つかった。
宮沢賢治著。銀河鉄道の夜。
有名な作品なので、知っている人も多いであろう。宮沢賢治の名前も知らず、銀河鉄道の夜のタイトルも知らない人の方が少数派のはずだ。
「……こんなのだっけ?」
手に持つ小説をしげしげと眺め、漱は疑問を漏らした。
通常の文庫本の、半分から三分の一程度の厚さしかない。
たいして長くなかった覚えはある。長くないからこそ、昔の漱は読むのが楽そうという理由で選んだ。
これでは、長編小説というよりも中編小説だ。伝説の先輩が書いた『ベテルギウスの下で』の方がまだ長い。
まあ、それはどうでもいい。とりあえず読む。
ベッドに寝転び、本を開く。行儀は悪いが、漱が自室で本を読む時はいつもこのスタイルだ。
しばし読書に集中する。
古い小説だから読みにくい。言葉や漢字も若干異なり、たとえば「言う」は「云う」になっている。
文章だって最近の小説とは全然違う。句読点が少なく、一文がやけに長い。これは、作者である宮沢賢治の癖かもしれない。
今の時代では受けないだろうが、読書に慣れている漱は読み進めていく。
序盤は退屈な展開だ。主人公のジョバンニが学校で恥をかいたり、いじめっ子にからかわれたりといった様子が描かれている。貧しいので仕事をしているジョバンニは、同年代の子供たちが楽しげに遊んでいる中で疎外感を覚えているようだ。
そしていよいよ、銀河鉄道が登場する。
丘の上で寝転がっていたはずのジョバンニは、気がつくと銀河鉄道に乗車していた。物語が大きく動き出すシーンだ。
ここらになると、がぜん面白くなってくる。ストーリーなど碌に覚えていないこともあり、先が楽しみだ。
銀河鉄道に乗ったジョバンニは、幼馴染のカムパネルラと会い、二人で汽車に揺られ銀河を旅してゆく。
的場が語っていた幻想的な単語とやらも続々と登場している。
北十字、プリオシン海岸、アルビレオ。いくつかは漱の知識にもある。
白鳥区と呼ばれる場所にいるシーンなので、白鳥座を表していると思われる。
北十字は白鳥座を構成する星々で、綺麗な十字を形作っているためこう呼ばれている。ノーザンクロスとも呼ぶ。
アルビレオは白鳥座のくちばし部分。北十字の一つでもある有名な二重星だ。
銀河鉄道の夜にも登場している。「眼もさめるような、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとおった球」と表現されているように、本物の宝石のごとき輝きを放つ二つの星こそがアルビレオ。
確か、おおいぬ座にもアルビレオがあるはずだが、作中では無関係だろう。
次に出てきた言葉は南十字だ。北十字が白鳥座の一部なら、南十字はそのものが星座になっている。
南十字座、別名サザンクロス。南天の星座のため、基本的には南半球でしか見られないが、日本でも沖縄の最南端かどこかであれば見られるらしい。南天を代表する美しい星座とされる。
北から南へと、銀河鉄道は走る。
南十字で何か起きるかと思えば、その前に新しいキャラクターが登場した。
黒服の青年、六歳の男の子、十二歳の女の子の三人だ。
「これ、少し覚えてるな。当時は妙に怖かったっけ」
黒服の青年のセリフは、おぼろげながらも印象に残っていた。「神様に召されているのです」や「じき神様のとこへ行きます」といった死を連想させるセリフが、小学生の漱には怖かった。
他にも不穏なセリフが頻出する中、物語は終盤へ。
黒服の青年たちと別れ、ジョバンニとカムパネルラの二人になる。
ジョバンニが「一緒に行こう」と口にしたところで、カムパネルラも消えてしまう。ジョバンニはわけが分からぬまま一人元の世界へと戻る。
ラストは、少々後味の悪い終わり方だった。カムパネルラが死んでしまったらしき様子がうかがえる。
明確に「死」という表現は用いられていないものの、河に落ちて行方不明になったまま終わったのだ。周囲の人々も諦めている。
しきりに死を連想させるセリフを口にしていた黒服の青年。
河に落ちて行方不明のカムパネルラ。
銀河鉄道の乗客たちは死者だ。作中には天上という単語も登場しており、あの世を走る汽車だったと分かる。
死者たちと一緒に銀河鉄道に乗っていたはずのジョバンニは、ただ一人現世へと戻った。
銀河鉄道での体験は、丘の上で眠ってしまったジョバンニの夢だったのか。はたまた、短い時間だけあの世を覗いていたのか。
「……なるほどね」
一時間半ほどだろうか。読書に夢中になっていた漱は、最後まで読み終えて短く感想を漏らした。
的場の言っていた意味が理解できたのだ。
漱たちの書いた続きは、終わり方が綺麗過ぎると言っていた。
銀河鉄道の夜に比べればその通りだ。カムパネルラを失ってしまったジョバンニに対し、『ベテルギウスの下で』の登場人物たちは何も失わず幸せになっている。
かといって、銀河鉄道の夜がバッドエンドかというと違う。
カムパネルラは失ったが、漁に出たまま帰らなかったジョバンニの父が帰ってくるという報せを聞いたのだ。
銀河鉄道での経験やカムパネルラの死により、ジョバンニは間違いなく成長しているし、バッドエンドとは言えない。
「綺麗過ぎもせず、バッドエンドでもない。読者に考えさせる結末、か」
これは難しい。銀河鉄道の夜を見習って、『ベテルギウスの下で』の登場人物たちも何かを失う結末にすべきか。
少し考えてみるが、漱ではうまく書けそうにない。
その点、銀河鉄道の夜はさすがだ。今でも親しまれる名作なだけある。
そして、名作のテーマと『ベテルギウスの下で』のテーマは似ていると感じた。
銀河鉄道の夜に何度か登場する言葉で、「ほんとうのさいわい」というものがある。本当の幸いとは何かを考えさせるような内容だ。
伝説の先輩が書いた『ベテルギウスの下で』も、高校生の少年少女たちが幸せについて考えている。好きな人と結ばれるのが幸せなのか、優秀な成績を修め大学に合格するのが幸せなのか。
幸せとはなんだろう、と問いかける形だ。
答えは出せないまま、悩みを抱えて日々を過ごしている。
漱たちが書いた続きでは、全員が幸せになっている。好きな人と結ばれ、部活動で好成績を挙げ、大学に合格し、と。
他者に読んでもらえば、おそらく全員が「少年少女たちは幸せになった」と答えるであろう。そういう結末にしたのだから。
だが、もしも伝説の先輩が銀河鉄道の夜を意識して書いたのであれば。
漱たちの書いた結末は、物語にふさわしくない。
なぜなら、銀河鉄道の夜で言いたい本当の幸いとは、おそらく――
「明日、的場さんと話してみるか」
漱の考えは間違っていないと思う。銀河鉄道の夜を読めば、多くの人が同じテーマを感じ取るはずだ。
内容が内容なので、嫌う人も少なくないと思う。それは違うと声を大にして叫ぶ人もいるであろう。
作中に登場した黒服の青年たちの行動は正しかったのか。
カムパネルラの行動は正しかったのか。
読書感想文なら、「僕もこのような人間になりたいです」とでも書けば教師受けはよさそうだが、単純に言い切れる問題ではない。
的場はどう考えているのだろうか。
早く明日になって欲しいと思うが、まだ昼の四時だ。
やることもなくなった漱は、先ほど偶然見つけたファンタジー小説を読んで時間を潰すのだった。