三話 伝説の先輩
学校でよく使う折り畳み式の長机が一台に、パイプ椅子が二脚。
部員数二人なので、これだけあれば事足りる。使わない分は部室に隅にまとめてある。
漱と的場は隣り合って座り、本日の部活を開始といく。
「今日はどうしますか? そろそろ文化祭の準備もしなくちゃいけませんけど」
「そうだね……ところで、何をしてるの?」
「何を? 何もしていませんよ」
「いやいや、してるでしょ。なんで俺をあおいでるの?」
部活が始まったのはいいが、的場はなぜかうちわを使って漱をあおいでいる。
ありがたいが、後輩の女子にさせるのは心苦しく思ってしまう行為だ。
「暑いですよね?」
「暑いけど、的場さんも同じでしょ。扇風機もあるし、あおぐ必要はないから」
「私なら平気です。暑さには強いんですよ。逆に、寒いのは大の苦手ですけど」
本人の言葉通り、的場はほとんど汗をかいていない。漱などは、いくら汗をぬぐっても出てくるというのに。
体質のようなものだろうか。
「冬は嫌いで、夏は好きです。問題があるとすれば、クーラーが苦手なことです。自分の部屋は好きに調整できますけど、お店とかは寒過ぎます。部室にクーラーがなくて助かりました」
漱は、むしろクーラーが欲しいと思う。扇風機だけで乗り切るには、昨今の夏はあまりにも暑い。
だがまあ、クーラーがなくて助かるという意見には賛成しなくもない。
的場のことだ。自分が寒くても、漱のためにクーラーをガンガンに効かせそうだし、遠慮する漱と揉める情景が目に浮かぶ。
「夏の暑さに強いのは分かったけど、俺をあおぐ必要はないよね?」
「後輩として当然のことです」
「いっつも思うけど、的場さんの後輩像は変だよ。中学の時も同じだったの?」
「いえ、中学生の時は違います。女子部でしたから。もちろん、先輩は敬いますけど、女子同士ならここまでしませんよ」
「逆じゃないかなあ」
男子同士、女子同士なら、気安い関係でも構わない。的場が男子であれば、漱の罪悪感も少なくて済んだだろう。
後輩の女子というだけで、変なことをさせるのが申し訳なくなる。
「仮にだけど、来年男子部員が入ったとして、その人には的場さんのお世話をあれこれさせるの?」
「無理です! 自分がする分にはいいですけど、されるのは恥ずかしいです!」
ある意味、わがままなセリフだ。自分がされて恥ずかしいなら、漱の気持ちも理解してくれないかと思ってしまう。
贅沢な悩みではあるのだろう。後輩の女子から世話を焼いてもらえるのを羨ましがる男子は多いはずだ。
こうして話している間も、的場の手は止まらない。漱をあおぎ続ける。
仕方なく、強引な手段に出る。
「的場さん、先輩命令。手を止めなさい」
「うぅ……このままじゃダメですか?」
「ダメです」
「私がお願いしてもですか?」
「ダメです」
「はい……」
しゅんと落ち込みながら、的場は手を止めた。ようやく落ち着いて話ができる。
普段の部活は、各々好きに本でも読むだけだ。感想を語り合ったり、面白かった本を紹介し合ったりはするが、他はこれといって何かをすることはない。
それなら、夏休み中にわざわざ集まる必要はないのに、なぜ集まっているのか。
答えは、先ほどの的場の発言にある。
文化祭。
今は八月になったばかりで、今月いっぱいは休みが続くが、九月になり新学期が始まれば文化祭の準備に取り掛かる。
漱は昨年も経験した。クラスや部活動で出し物をし、学校中が盛り上がって楽しいイベントだった。
文化祭の日程は十月の頭で、今から二ヶ月後だ。
二ヶ月という時間を短いと感じるか長いと感じるか。
漱たちがやろうとしていることを思えば、短い。
漱は、部室の本棚からA4サイズの冊子を取り出し的場に渡す。自分の分も持ち、二人そろって中を見る。
これは、三年前の文芸部員が作った冊子だ。中身は自作小説になっており、文化祭で無料配布したと言われている。
「伝説の先輩が残した、幻の小説。私の手の中にあると思うと不思議な感じです」
「伝説の先輩ねえ」
言い得て妙だと思う。確かに伝説なのだ。
三年前となると、漱は中学生だ。小説のことも書いた人のことも知らない。
昨年度に卒業した漱の先輩たちがいたが、彼らから聞いた話によるとだ。
漱の先輩たちが一年生の頃に、三年生だった先輩がいた。読書好きで大人しい性格の女子で、美人だったこともあり、この三年生目当てで文芸部に入部したと。
小説を書いたのは、三年生の女子だ。当時の部員たちが大絶賛するほどの出来栄えで、文化祭で配布してみようとなった。
大会などがある他の部活動とは異なり、文芸部には成果を発表する機会がない。文化祭は絶好のチャンスで、自作小説を配布するという文芸部らしさもあり、話はとんとん拍子に進んだ。
そして配布された小説が、漱や的場が手にしている物だ。
タイトルは『ベテルギウスの下で』となっている。
高校生の少年少女たちの日常を描いた群像劇風の小説だ。ジュン、アキラ、イオリという三人の高校生たちが物語の中心にいる。
三人が何を考え、何を悩み、何をするのかをメインに据えた作品だ。
小説にしては、突飛な展開はない。大事件に巻き込まれることはないし、ファンタジーチックな展開もない。
だが、それでも面白い。漱も読んだが大好きな作品だ。
ただし、この小説は未完成である。
読んだ側からすると、なぜ続きを書いてくれないのだと文句を言いたくなるほどいいところで終わっている。
三年生の女子は、ついに続きを書かないまま卒業してしまった。
以来、文芸部には一つの目標ができた。
『ベテルギウスの下で』の続きを書き、完成させる。
二年前の文化祭でも、一年前の文化祭でも、完成させようと試みた。昨年は漱も入部していたが、先輩たちと三人で頭をひねったものだ。
しかし書けなかった。正確には、書くには書いたが納得のいく出来にはならなかった。三人が口をそろえて「これではない」と言った。
何か違うのだ。伝説の先輩が続きを書いていたとすれば、こうはならなかったと思ってしまう。
素人なのだから、面白い小説が書けないのは致し方ない。書けるなら小説家にでもなっている。妥協して、自分たちが書いた物を配布してもよかった。
結局、配布はしなかったが。
単に面白くないのではない。面白い面白くない以前の問題で違うと感じた。それを配布したくはなく、やめたのだ。
「的場さんはさ、俺たちが書いた続きを読んだよね?」
「はい、読ませてもらいました」
「どう思った? お世辞抜きで、率直な意見を聞かせて欲しい。遠慮されると今年も失敗するし、本音でお願い」
漱を気遣って「面白い」と言われても困ってしまう。
必要なのは、オブラートに包んだ優しさではなく、小説を完成させるための厳しい意見だ。
「そうですね……私も小説は書きません。読むだけです。なので、話半分に聞いてもらいたいんですけど」
前置きしてから的場は話し始める。
「確かに、これではないと感じました。小早川先輩たちが書いた続きが面白くないわけではありません。よくできていると思います。だけど、何かが違う気がするんです。だからといって、お前が書けと言われても書けませんけど」
「どこが違う? 俺や先輩も悩んだのに、分からずじまいで」
「なんというか、終わり方が綺麗過ぎません?」
漱からも先輩たちからも出なかった意見だ。
終わり方が綺麗過ぎる。どういう意味だろうか。
「伝説の先輩が書いた小説では、登場人物たちが様々な悩みを抱えていますよね。大それた悩みではなく、夢とか恋とか進路とか、高校生らしいありふれた悩みですけど。小早川先輩たちが書いた続きは、これらの悩みが綺麗に解決しています」
「そういう風にしたからね。物語はやっぱりハッピーエンドがよくない?」
「ハッピーエンドがいいのは、私も同意します。恋愛なら結ばれて欲しいですし、夢を追う物語なら夢を叶えて欲しいです。でも、『ベテルギウスの下で』は違うんじゃないかって」
「バッドエンドにしろってこと?」
「いえ、バッドエンドでもないんですよ。後味が悪い終わり方では、せっかくの面白い小説も台無しです。ハッピーエンドでもなくてバッドエンドでもなくて……すみません、うまく説明できなくて」
恐縮する的場だが参考になる意見だった。
真夏の暑い部室にて、二人で考え込む。
窓を開放してあるため、生徒の声や蝉の鳴き声が聞こえてくる。傍では扇風機の回る音もする。
考えごとをしているとそれらの雑音も気にならなくなり、集中力が増す。
ハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもない。見方によってどちらとでも受け止められる、とかだろうか。
物語では、ままあるパターンだ。その手の小説を読んだこともある。
しばらくして口を開いたのは的場だ。
「小早川先輩、銀河鉄道の夜って読んだことあります? 宮沢賢治の小説の」
「小学生の頃に読んだね。読書感想文を書くためだったかな。難しくていまいち理解できなかった覚えがある。主人公が乗った銀河鉄道は、あの世につながっていたんだっけ?」
主人公の少年が、銀河鉄道に乗って旅をし、様々な人と出会う物語だ。
たいして長い小説ではなかったように記憶している。おそらく、伝説の先輩が書いた小説と同程度だろう。
「大体そんな感じですね。ちょっと思ったんですけど、伝説の先輩は銀河鉄道の夜が好きだったんじゃないでしょうか?」
「なんでそう思ったの?」
「この『ベテルギウスの下で』が似ているからです。パクリというわけではありません。世界観もストーリーも、銀河鉄道の夜とは似ても似つきません。私が似ていると感じたのは、テーマです」
「偶然じゃなくて?」
「かもしれませんけど」
漱は銀河鉄道の夜の内容をよく覚えていない。テーマと言われても、何がテーマになっていたか思い出せないほどだ。
しかし、テーマが似ている小説など、世の中にあふれている気がする。
「私が説明するよりも、銀河鉄道の夜を読み直してみる方が理解しやすいと思いますよ。テーマ以外にも、影響を受けていそうな部分が散見されます」
「じゃあ、今晩にでも読もうかな」
「お願いします。そして、読んだら私と語り合いましょう! 私、あの小説大好きなんです! 幻想的な単語や描写が秀逸でして物語の中に入り込めますし短い中にあれだけの内容を詰め込んでいるのに詰め込み過ぎと感じさせない構成力が……」
「わ、分かった。分かったから」
よほど好きなのだろう。的場は前のめりになってまくしたてた。
顔が近付き、漱は照れて顔が熱くなるが、的場は興奮で頬を上気させている。
「失礼しました! 小早川先輩に無礼な真似を! 唾とか飛んでいませんか!? 小早川先輩のお顔が私の汚い唾液で汚染されてしまいます!」
「飛んでないし、無礼でもないから、変な表現はやめて。とりあえず読んでみるから、感想は明日ね」
「はい! 楽しみに待っています!」
油断すると的場は暴走するので、小説の話に戻して収集をつけた。
「今年こそは、文化祭で続きを発表できるといいよね。一緒に書こう」
「私、素人ですよ?」
「俺だって素人だよ。去年はメインで書いたのは先輩たちだったしね」
「小早川先輩の先輩は、小説家志望だったりしたんですか?」
「全然。先輩たちも素人で、俺も素人。聞いた話だと、伝説の先輩も素人で小説を書くのは初めてだったらしいよ」
「初めてでこれを書いたんですか? 天才っているんですねえ」
同じ文芸部員、同じ素人。
なのに、伝説の先輩が書いた小説は読む者の心を打ち、漱たちが書いた続きはいまひとつパッとしない。理不尽なまでの才能の差である。
「俺たちも苦労はしたんだけどね。でもまあ、配布しなかったとはいえ、書くのは楽しかった……楽しかった?」
「なぜ疑問形に?」
漱の脳裏には一年前の思い出が浮かんでいる。
素人三人で四苦八苦した夏休み。今のように部室で集まり、知恵を出し合って続きを考えた。
あれは、小説を書く難しさとは別の意味で地獄だった。
決して広くない真夏の部室に、男が三人で集まる。三人とも汗だく状態だ。
たった一つの扇風機を取り合ったり、油断すれば誰かの汗が飛び散ったり。
その惨状は、推して知るべし。
先輩たちに話せば、的場がいてくれる今の状況に嫉妬すること請け合いだ。
「入部してくれてありがとう」
心からの感謝を的場に捧げた。
「きゅ、急にどうしたんですか? 照れます……」
「的場さんがいてくれて幸せだなって。変な意味じゃなくてね。俺一人の部活なんて寂しいでしょ。だけど、よくこんなマイナーな部活に入る気になったよね」
これまで、的場が入部した動機を詳しく聞いたことがなかった。
入部時に軽く聞いた話によると、読書が好きという定番な理由だったが。
「実は私、『ベテルギウスの下で』を読んだことがあったんですよ。凄く面白くて素敵な小説だったので、憧れていたんです。この高校に入学したら、文芸部に入部しようと思っていました。勇気を出してよかったです」
「入部しようと思ったのはいいけど、勇気って?」
「言いにくいですけど……小早川先輩お一人じゃないですか。うまくやっていけるか自信がなくて」
的場の返答には納得した。
当然だと思う。男子一人しかいない部に、女子が入るのは勇気のいる行動だ。
「弓道部って選択肢も考えました。中学生の時は弓道部だったので。的場だけに弓道部です!」
「お上手。弓道部にしなかったのはなんで?」
「……劣等感を刺激されて嫌だからです」
下手くそだったのかと思ったが、どうも違うようだ。
「小早川先輩、知ってます? 弓道の胴着って、細い人はうまく着れないんです。もしかしたら、着物全般がそうなのかもしれません。顧問の先生、もちろん女の先生ですけど、先生が着せてくれるんです。そしたら、ほっそい女子に着せるのに苦労していまして……なのに私は楽々ですよ。『的場さんは楽でいいわ』とか言われた時の屈辱、分かります?」
かける言葉がなかった。あまりにもデリケートな問題だ。
軽々しく「的場さんは細いよ」とも言えず、かといって肯定もできず。
漱の目には、的場が太っているようには見えない。むしろ細い方だと思える。
だとしても、本人には悩みなのかもしれない。
「こんな暗い話はやめましょう! 変な話をしてしまってすみません!」
「聞いたのは俺だし、こっちこそごめんね」
「小早川先輩が悪いわけでは……あ、そうです!」
的場は何かを思いついたようだ。
漱は嫌な予感がするが、それが正しいとすぐに判明する。
「小早川先輩をあおがせてください! 悪いと思っているなら、私のやりたいことをさせてくれてもいいですよね!」
「そこに戻るの!?」
「戻ります!」
戻られても困るが、的場は譲りそうにない。互いが納得できるラインを探ろう。
「さ、三分だけ」
「一時間!」
「長いよ。四分」
「細かく刻み過ぎです! 五十九分!」
「的場さんだって細かく刻んでるじゃない。五分」
「五十八分五十九秒!」
「秒単位!?」
おかしなやり取りをするが、これもまた楽しい。
改めて、的場が入部してくれたことに感謝する。
「小早川先輩は先輩なんですから、ドシッとしてくれればいいんですよ。イメージはこうです。リクライニングチェアでゆったりくつろいで、トロピカルなジュースとか飲みつつ、脇に女性を侍らせうちわであおがせて、と」
「俺は鬼畜じゃないよ!」
ちょっとばかり困った後輩だが、感謝している。はずだ。