二話 瓶底眼鏡の後輩
「あっちい……」
八月。うだるような夏の暑さに辟易しながら、小早川漱は学校までの道のりを歩いている。
憎らしいほど仕事熱心な太陽がコンクリートの地面を熱し、道を歩く漱に照り返す。鳴り響く蝉の声も、夏の暑さを助長する。暴力的な音の塊が押し寄せてくるため、風情があってよいとは思えない。聞いているだけで汗が吹き出しそうだ。
天気予報によると、最高気温が三十五度を超える猛暑日になるとのこと。
今も、午前九時前という比較的早い時間帯にもかかわらず、軽く三十度はあるだろう。暑くて嫌になる。
都心のようなコンクリートジャングルと比較すれば、マシなのだろうか。
漱が暮らしているこの町は、どちらかといえば田舎に属し、周囲には田んぼや雑木林もある。少し移動すれば大型のショッピングモールもあり、ド田舎というほどではないが都会とも言えない町だ。
右を見ても左を見ても、下を見ても上を見ても、四方八方がコンクリートという都会よりはまだ涼しいと思いたい。
「そうそう、涼しいんだよ。涼しいなあ、あははは」
あまりの暑さに脳までおかしくなりそうで、漱は独り言を漏らした。
いくら自分に言い聞かせたところで、暑さが緩和しはしない。こんなにも暑い日は、クーラーの効いた部屋でくつろいでいたい。
自堕落な欲求はあるものの、そうはいかないのが難しいところだ。
夏休み中なので授業はないが、部活がある。ゆえに学校に行かねばならない。
これでも漱は恵まれている方だ。好きで部活をやっているのもあるし、所属するのが文芸部であるため、毎日のように部活があるわけではない。部活がある日も屋内にいられる。クーラーはないが扇風機はあるし、外よりも楽だ。
運動部などは、この暑さの下で練習に励んでいる。頭が下がる思いだ。
滝のような汗を流しつつ歩き、ようやく学校に到着する。
星ヶ丘高等学校。漱の通う高校の名前だ。
一応は進学校に分類される私立の高校になる。ただし、勉強よりも部活動が盛んで、特に運動部は軒並み強豪だ。野球部は数年に一度は甲子園に出場するし、プロになる人も稀にいる。他の運動部もインターハイ出場者がわんさかと。
必然的に練習も厳しく、夏休み中の今もそこかしこから元気な運動部員の声が聞こえる。
漱は、自分がこの練習に耐えられるとは思えなかった。運動が苦手ではないものの、本当に好きでなければここまではできない。
高校に入学し、部活を選ぶ時は、運動部は選択肢に挙がらなかった。
帰宅部というのも寂しく、文化部に入ろうと考えた。
とはいえ、文化部も意外と強くて練習熱心だ。下手な運動部よりも厳しい文化部はたくさんある。
囲碁部などが典型で、昨年は団体戦で日本一に輝いた。吹奏楽部や演劇部も多くの部員を抱えており、知る人ぞ知る有名校である。
これらの部活に共通するのは、決まった大会やコンテストがある点だ。大会でよい成績を残すために、毎日練習に励んでいる。
運動部と同様、こちらも耐えられるとは思えず、できるだけマイナーな部活を。
そう考えた結果、文芸部に入部した。
昨年の四月、漱が入部した時は、三年生の先輩二人しかいない弱小部だった。新入部員も漱しかおらず、合わせてたったの三人だ。
少ないからこそ、漱は歓迎された。女子であればなおよかったとも言われたが、それとて半分は冗談のようなものだ。和気あいあいとした雰囲気の部活で楽しかったし、先輩たちにはお世話になった。
元々、本を読むのは好きだ。漱の名前も夏目漱石から取っており、夏目漱石の作品は何作が読破した。
自分にピッタリの部活だと思っている。先輩たちが卒業した今でも、真面目に部活に通うほどには愛着がある。
校舎に入り、部室に向かう。
弱小部でもしっかり部室が割り当てられているのは、さすが金持ちの私立高校というところか。
部室の前に着けば、鍵が開いていた。既に誰かがきているらしい。
誰かといっても、現在の部員数は漱を含めて二人なので、一人しかいない。
礼儀として部室の扉をノックする。
中から明るい声で返事があった。漱の後輩は今日も元気なようだ。
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様です、小早川先輩!」
漱が部室に入るなり、ビシッとした挨拶をしてくれた生徒がいる。
直立不動の姿勢から腰を九十度に折り曲げる姿は、とてもではないが文芸部で見かける光景ではない。上下関係に厳しい運動部のようだ。
ここまでしなくてもいいと言っているのに、何度言ってもやめてくれない。後輩なのだから先輩を敬うのは当然と言い切る。
少し頑固な側面を持つ後輩の名前は、的場清美。彼女こそ、漱以外で唯一の文芸部員だ。
先輩たちが卒業し、漱一人になってしまった文芸部に現れた救世主。
的場が入部しにきた日のことはよく覚えている。
新入生への部活動紹介があり、漱も唯一の文芸部員として説明をした。
だが一向に新入部員が入ってくれない。先輩の狭間から言われたように自分から勧誘することもできず、諦めかけていた時だ。
部室の扉をノックする音が聞こえ、開ければ一人の女子生徒が立っていた。一言「入部したいのですが」と言ってくれた彼女は、地上に降臨した天使か女神のように思ったものだ。
実際は、ちょっと困った子だったのだが。
決して悪い子ではなく、むしろ好感を持てる素敵な女の子だ。名前の通り、清く美しい性格をしている。
どこが困るかというと。
「外は暑かったですよね! さささ、タオルをどうぞ! むしろ、私がお拭きします! お清めします! 清美だけに!」
こういう部分だ。
時折飛び出すダジャレは構わないが、汗を拭いてもらうのは困る。
「大丈夫だよ。自分のタオルがあるから」
自分自身のタオルを使って漱の汗を拭こうとする的場を止めた。
女の子のタオルを使えるほど図太い性格はしていない。汗を拭いてもらうなどなおさらだ。男子高校生として嬉しい気持ちはあるが、開き直るのは無理だ。
漱はカバンからタオルを取り出して汗をぬぐう。
的場は少し落胆するが、すぐに元気を取り戻し、次の手で攻めてくる。
「では飲み物を! どうぞ!」
「それ、的場さんのペットボトルだよね?」
「すみません! 私ごときの汚口をつけてしまったペットボトル、小早川先輩に差し上げるのは不適切でした! すぐに新しいやつを買ってきます!」
「行かなくていいから」
どちらかというと逆だと思う。間接キスを嫌がるのは、女子の的場ではないか。
飲みかけのペットボトルは受け取らず、当然パシリにすることもせずに、タオルと同様持参した物を飲んで喉を潤す。
漱が準備をしておかないと、的場はあれこれ世話を焼こうとする。彼女が入部してからの四ヶ月で嫌というほど理解した。
漱は、タオルも飲み物も、忘れずに持ち歩くようになった。
的場が優しい女の子なのは分かる。色々と気にかけてくれて嬉しくもある。
だからといって厚意に甘えるのは、漱にはハードルが高い。
ペットボトルのスポーツドリンクを一気飲みしてから、パイプ椅子に腰を下ろす。漱が座らなければ、的場も座らないからだ。
「失礼します!」
椅子に座る時まで、的場は一声かけることを忘れない。
和気あいあいとした文芸部にふさわしい言動ではない気がする。
「いつも言ってるけど、もっと普通にしてよ」
「普通にしていますよ?」
「普通は、タオルや飲み物を渡したりしない。特に、俺たちは男子と女子なんだからさ。礼儀正しいのは長所だけど、やり過ぎはかえって居心地悪いよ」
「そう言われましても……私だって、小早川先輩を不快にさせてしまうのは本意ではありませんし、抑えていますよ?」
これで抑えているとは驚きだ。的場が本気になれば何をするのやら。
「抑えなかったらどうなるの? やれって言ってるわけじゃないよ」
「マッサージしたり、お弁当を作ったり、三度回ってワンと鳴いたり」
「うん、おかしいね」
前者二つは、まだしも理解の範疇だ。先輩後輩の関係ですべき内容ではないが、恋人ならありだと思う。
最後の一つは明らかにおかしい。漱が的場をいじめているとしか見えなくなる。
「的場さんは女の子なんだし、彼氏でもない男に変なことしちゃダメだよ」
「変ですか? 先輩を敬うのは普通では?」
「敬ってくれるのは嬉しいけど、やり過ぎはダメ」
「わ、分かりました。善処してみます」
どの程度改善してくれるかは不明ながら、とりあえず分かってくれたようだ。
少し安堵し、困った後輩の顔を見る。
普段の言動から勘違いしがちなのだが、元気一杯で活発なスポーツ系少女ではない。物静かな文系少女といった外見だ。
視力がかなり悪く、分厚いレンズの眼鏡をかけている。俗に言う瓶底眼鏡で、おしゃれさは皆無。昨今の女子高生にしては珍しい眼鏡だ。
瓶底眼鏡をかけているところから推察できるように、他もおしゃれとは縁遠いタイプだ。
学校の制服は全く改造しておらず、通常のまま。スカートはひざ下まである。
髪の毛は真っ黒で、左右で結び二本のおさげにしている。染色も脱色もしていない。化粧やピアスなんてもってのほかだ。
どこからどう見ても、真面目で大人しく儚げな女の子である。
事実、入部当初は非常に大人しかった。漱とも必要最低限の挨拶程度しかせず、部室で本を読んでいるだけだった。
当時は当時で、今とは違った居心地の悪さを覚えたものだ。
二人しかいない部活。否が応でも顔を合わせるのだから、多少なりとも心を開いてもらいたいと思った。
頑張って話しかけ、なんとか仲良くなろうと四苦八苦したのはいい思い出だ。
少々心を開き過ぎ、今のようになったのは完全に誤算だったが。
どうも的場は、基本的には大人しいが、心を開いた相手には徹底的に懐く性格らしい。子犬のようだと失礼な感想を抱く。
「小早川先輩、どうしました?」
「なんでもないよ。的場さんは元気だなって思っただけ」
「元気なのが取り柄ですから! これでも、中学校三年間は、無遅刻無欠席の皆勤賞だったんですよ!」
「凄いね」
お世辞ではなく、本気で凄いと思う。
儚げな容姿に反して健康そのものというわけだ。いいことである。
「私から元気を取っちゃうと、何も残りません! 元気印の的場清美です!」
ドン! と自分の胸を強く叩いたかと思えば、痛かったのか悶え始める。
これまた失礼な感想ながら、ちょっとばかりおバカだ。
「い、痛い……」
よほど痛かったのか、制服のボタンを外してさすり出す。
漱は慌てて視線を逸らした。
夏なので制服も夏服だ。ただでさえ薄手の服なのに、男の目の前でボタンを外すなんて。
誘っているわけではないと思う。無頓着なだけだ。
「お目汚し、失礼しました。もう大丈夫ですよ」
「急にボタンを外さないで。お願いだから」
「小早川先輩は紳士ですね。まあ、私の貧相な体なんか、見る価値もないだけかもしれませんけど」
返答に悩む発言をしてくれたものだ。
的場は、自分の魅力を理解していない。異性が興味を持つわけがないと考えている。
本人も言っていたので間違いない。眼鏡を外し、「分厚い眼鏡を外せば、実は超美少女だった。物語のお約束ですけど、現実はこれです。可愛くありません」なんて自虐的なセリフを言っていた。
的場が美少女と呼べる外見をしていないのは、残念ながら事実である。
漱が平凡な男子なら、的場も平凡な女子だ。二人とも、美少年でもなければ美少女でもない。
だからこそ、漱が的場を好ましく思っているとは考えもしていない。恋心ではないが、間違いなく好きだ。
平凡な男子の漱からすれば、絶世の美少女は恐れ多くて近づけない。男子に大人気の美少女も高校にはいるが、高根の花だ。
的場みたいな女子こそ、親近感があっていいと感じる。
身長が低く子供っぽいが、そこも好ましい。絵に描いたような後輩というか妹というか、そんなタイプの少女だ。
いささか自己評価は低いものの、擦れた部分の少ない実直な性格もいいし、魅力的な少女なのだ。
気恥ずかしくて口には出せないが、そう思う。
小早川漱と的場清美。
二人きりの部活動が今日も始まろうとしている。