一話 オリオン座、ベテルギウス
新作です。次話は本日の夜に投稿します。
小早川漱は、肌を突き刺す冷気に身を震わせつつ嘆息する。
季節は真冬。時刻は深夜。場所は漱が通う高校の屋上。
季節はまだしも、時刻と場所が明らかにおかしい。片方だけなら正常なのに、両者が合わされば異常になる。
自分はなぜこのような場所にいるのか。いや、きてしまったのか。
己の判断とはいえ、今さらながら後悔が募る。
「先輩、俺たちは何をやってるんでしょう?」
「今夜は帰さねえぜ」
もう一人の男子生徒に話しかければ、変な冗談を言われてしまった。
男子生徒、である。漱も当然ながら男子だ。
ひと気のない屋上で、男が二人きり。
相手が女子生徒であれば色っぽい展開も期待できるだろうに、男同士では何もない。あってもらっては困る。
「俺は早く帰りたいんですが」
「もうちょい待ってくれ」
漱の先輩である男子生徒は、名前を狭間日丸という。
日の丸を背負ってもらいたいという願いを込めてつけられた名前だそうだが、本人は普通の人間だ。中肉中背の体型で顔も平凡だし、これといった特技もない。
もっとも、漱だって同じだ。身長こそ狭間より若干高いが、顔は美形とは呼べない。どこにでもいる男子高校生であり、特技がないのも同様だ。
狭間は高校三年生で、もうじき卒業する。大学への推薦入学も決まっており、今は暇な時期のため、こうして変なことをする余裕もあるわけだ。
狭間は、先ほどから懸命に作業をしている。
天体望遠鏡の設定に苦慮しているのだ。手元にある紙を見つつ、ああでもないこうでもないと天体望遠鏡をいじる。
手伝ってあげたくはあるが、漱は天体望遠鏡の設定方法など知らない。素人二人でいじると余計に悪化しそうな気がして、見ているだけになっている。
「天文部員にも協力してもらえばよかったんじゃないですか?」
「自分でできると思ったんだよ。望遠鏡を借りる時に設定方法は習ったし、さほど難しいとも思わなかった。自動で調整とかもしてくれるみたいだしな」
「じゃあ、苦戦中なのはなぜです?」
「教えてもらった内容を忘れたからだ!」
自信満々に情けないセリフを言い切る先輩に、漱はますます嘆息した。
白い息が空中に溶けていく。気温は氷点下に達しているだろう。
とにかく寒い。その感想しか出てこない。
「もうちょっとの辛抱だ。大体分かってきた。念のために設定方法を書いたメモをもらっておいて正解だったな。さすが俺だ」
「さすがって言いたいなら、設定方法を覚えておいてくださいよ」
「それはそれだ。とか言っている間にできたぞ。多分、これでいいはずだ」
時間はかかったが、なんとか天体望遠鏡の設定を終えた。
これでようやく、本来の目的を果たせる。
漱と狭間がこんな場所にいるのは、とある星を観測したいからだ。
それは、冬を代表する星座であるオリオン座。中でもベテルギウスという星を観測しようとしている。
オリオン座、ベテルギウス。
名前を聞いたことのある人も多いはずだ。
ちなみに、漱は星になど興味ない。
星が好きなら天文部に入部している。二人が所属する部活は文芸部であり、天文とは無関係だ。
星座にまつわる神話は好きだし、本で読んだこともある。オリオン座になったのは、ギリシャ神話に登場する狩人オリオンだったか。
その程度の軽い知識を持つだけの天文素人だ。狭間も同様である。
漱と狭間、ここにはいない男子生徒という、たった三人の文芸部員。漱は一年生で、他二人は三年生だ。
推薦入学を決めている狭間は受験勉強をする必要がないが、もう一人は追い込みの真っ最中であるため不参加となっている。
さておき、設定が終わったとのことで、狭間は天体望遠鏡を覗き込んでいる。
「おーっ、すげえ! マジで見える!」
子供のようにはしゃぐ狭間の姿に、星に興味のない漱でも見てみたいと思った。
天体望遠鏡で星を見るのは初めての体験だ。徐々に興味が湧いてくる。
「小早川も見てみろよ!」
狭間に代わってもらい、漱も天体望遠鏡を覗く。
狭間はやけに感動していたが、言うほど凄いとは思えなかった。
漱が思い描いていたのは、ベテルギウスが大きく映っている様子だ。
しかし、今見えているのは、いくつもの星々が散らばる星空。中央付近に小さな赤い点があるので、これがベテルギウスだろうか。
美しいとは感じる。漱とて、星を見て何も感じないほど感性が枯れてはいない。
だがそれは、星空に対する感動だ。ベテルギウスに対する感動ではない。
目的はあくまでもベテルギウスの観測だ。これでは意味がない気がする。
深夜の学校に立ち入る許可を苦労して得て、寒さを我慢してまで粘った結果がこれでは、少々物足りない。
肩透かしを食らった気分で天体望遠鏡から離れる。
「どうだった?」
「綺麗は綺麗でしたよ。ただ、想像したのと違ったというか」
「さては、もっとでっかいのが見られると思ってたな?」
「そうですね」
「俺も同じだが、違うらしいぞ。天文部員から聞いた話だと、アマチュアが持てる望遠鏡じゃこれが限界なんだとさ。太陽系内にある惑星なら別だが、遠くにある恒星は点でしか見られないって言ってた」
分かっていたのなら、なぜ苦労してまで天体観測をしたのか。
漱は不満を抱いた。
言葉にしなくても表情に出ていたのか、狭間は夜空を見上げつつ話す。
「意味なんてないかもしれない。だがな、少しでも琴線に触れる何かがあればいいと思った。俺や先輩が叶えられなかった文芸部の願いを、小早川が叶えるために」
そっと夜空を指差す狭間。指の先にはオリオン座がある。
等間隔に並ぶ三ツ星は肉眼でも見えやすく、形も分かりやすい。三ツ星を取り囲む四つの星のうち一つが、問題のベテルギウスだ。
「ほら、見てごらん。オリオン座が輝いている」
「あの小説のセリフですね。先輩がその口調になると気持ち悪いです」
「うるせえよ」
気持ち悪いという漱の失礼な感想はともかく、狭間の言葉は二人が共通して知っている小説に登場するセリフだ。
☆☆☆
「ほら、見てごらん。オリオン座が輝いている」
夜空を指差しながら、ジュンが言いました。
「どれ? 私、分からない。星が多過ぎて」
「俺が教えてあげる。あそこだよ。三ツ星が並んでいるでしょ」
オリオン座を見つけられないイオリに、アキラが教えました。まるで恋人同士のように仲睦まじく寄り添いながら。
「三ツ星の名前は、アルニタク、アルニラム、ミンタカ。全部二等星だね。三ツ星を取り囲む星の一つが、かの有名な一等星」
「ベテルギウス。このくらいは僕でも知っているよ」
アキラの言葉を引き継いだジュンは、誇らしげに胸を張ります。
「ジュンが知っているのは、サッカー選手の名前だけかと思った」
「イオリは酷いなあ」
イオリにからかわれて、ジュンはふてくされます。
二人を見て笑うアキラ。すると、ジュンとイオリも笑い出し。
そして三人は、各々の夢や悩みを語り合います。
冬空の下、星々がきらめく美しい世界で。
まるで夢の中にいるような、幻想的な世界で。
静謐に満ちた世界にいると、あたかも宇宙のただ中を漂っているようです。
無粋な雑音はありません。邪魔をする者もおりません。
ただただ三人だけの世界と、目もくらむような星空が広がっています。
三人を優しく見守るのは、オリオン座のベテルギウスでした。
☆☆☆
問題のセリフの後はこう続く。正確にはもっと長く、美麗な表現で彩られているが、イメージとしてはおおよそこのような感じだ。
ジュン、アキラ、イオリという三人の少年少女たちが登場する小説である。
小説と異なり、この場にいるのは少年二人だけだ。
お世辞にもロマンチックとは言えないものの、二人で夜空を見上げる。
「あまり見えませんね」
「しゃあないさ。田舎とはいえ、町の明かりが邪魔するからな」
「一面の星空っていうのも、一度見てみたくはありますけど。プラネタリウムじゃなくて本物を」
「見に行けばいい。今日のところは、オリオン座で我慢しとけ」
「我慢なんて言ったら、オリオン座に怒られますよ」
砂時計のような形をした美しい星座だ。それを、我慢しとけとは。
天体望遠鏡があるのに、なぜか肉眼で星空を見上げ続けるおかしな二人は、会話もどこかおかしかった。
「肉眼でもオリオン座は見えるもんだな。普段は意識しないが」
「ですね。これ、望遠鏡を持ってきた意味あります?」
「言うな」
天文ファンでもない漱では、情緒のない意見しか出せない。
肉眼で見えていれば十分ではないかと思う。
「これで十分だって意見もある」
漱の内心と同じことを狭間は口に出した。
さらに言葉を続ける。
「でも、今日の体験により何かしらの思いが湧き出たなら、形にしてくれ。俺たちみんなの願いのために」
「俺にできますかね?」
「ま、無理なら無理でいいさ。次の世代に託しておけ。俺は自分ができなかったから、小早川に丸投げだ」
丸投げと言ってしまうと言葉は悪いが、部活動では珍しくない話だろう。
全国大会出場や全国制覇などがそうだ。
俺たちの世代では無理だったが、お前たちが叶えてくれ。
先輩から後輩へ。次の世代、また次の世代へと託されてゆく。
夢のある話だと思う。
ただし、それを成し遂げるためには一つ条件がある。
「新入部員が入ってくれればいいんですけど」
漱は弱音を漏らした。
次の世代に託すのは、次の世代がいてくれることが大前提となる。
文芸部は弱小だし、現在の部員数は三名だ。三年生が卒業してしまえば漱一人になる。
来年度になっても、新入部員が入ってくれるとは限らない。二年生がいないように昨年度はゼロだったし、今年度も漱だけだ。
一人きり、孤独に部活動を行う状況を想像して、暗い気持ちになる。
狭間たちは、引退後もたまに顔を出してくれていた。勉強の息抜きと言っていたが、一人になってしまった漱を気遣ってくれてもいたのだろう。
来年度はそれすらなくなる。優しい先輩たちは卒業してしまうのだ。
一人の部活は気が滅入る。何十人も入ってくれとは言わない。一人や二人で構わないので入って欲しい。
「バッカ野郎。入ってくれるかじゃなくて、入れるんだよ。なんなら女子に声をかけてみろ。男女二人で部活だぞ。考えるだけで楽しそうじゃないか?」
「逆に気まずそうですよ」
「無理にとは言わんが、やってみて損はないと思うぞ。とにかく、あとは任せたってことだ」
狭間はバシバシと漱の肩を叩いた。
新入部員のことは、今から気にしても仕方ない。先輩の想いを受け取っておく。
そこで、屋上の扉が開く音がした。
「おーい、まだ終わらないのか?」
姿を見せたのは、五十代の男性教諭だ。文芸部の顧問である。
生徒二人だけで深夜の活動が許可されるわけがなく、顧問の先生に付き添ってもらったのだ。
外は寒いと言って屋内に引っ込んでいたが、様子を見にきたのだろう。
「んじゃ、後片付けして帰るか。それともまだ見るか?」
「もういいですよ。寒いし帰りましょう」
天体望遠鏡を片付けて帰宅準備を整える。
天体観測が成功したかどうかは不明だが、よい体験にはなったと思った。