王子と奴隷の少女2
「おはよう、イリーナおばさん」
「あらおはようございます、王子。朝から公務ですか?」
暦が夏の到来を告げてから久しいある朝、隠しもせずに堂々と欠伸をしながら廊下を歩く少年と会話をしているのは、この宮殿に仕えて三十年を数えるベテランの清掃員、イリーナだ。
物心付いた頃から何かと相談に乗ったり世話を焼いてくれた気さくで頼り甲斐のある彼女を、クレイドは昔からイリーナおばさんと呼んで慕っている。
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ。この間評議会で通った新しい法案がどうのこうのってんで、俺も目を通しておかなきゃいけないらしくて」
「それは大変ですね。でもお仕事だものね。頑張って」
箒を片手に優しく微笑むイリーナに手を振って、王子はまた歩き出した。
この通路を端から掃除をしているのなら、もう軽く十部屋以上は清掃済みということになる。
頑張っていつもより数時間は早く起きてきたというのに、王宮の朝は思っていたよりもずっと早かったようだ。
イリーナおばさんは果たしていつも何時に起きているのだろう、と、先月に十八の誕生日を迎えたばかりのクレイドは考える。
やがて階段のある場所に出て、眠い目を擦りながら地下まで降って行く。
クレイドが足を運んだ先は、会議室だった。
重い扉を開けてその中に歩を進めると、彼の父である国王をはじめとして、その専属の執事や護衛兵、第一・第二王子に当たる兄、騎士隊の隊長格、近隣の都市の市長やその他の大貴族など、この国に暮らしていれば至る所で名前を聴くような大物ばかりが部屋の中央を囲んで着席している。
そこらの農村の住民がその場に居合わせでもしたら、瞬く間に卒倒してしまうに違い無い。
寝ぼけた顔のまま入室したクレイドを、一同が一斉に凝視した。
「あ………」
王宮に住む者としてあるまじきことだが、どうやら一番遅れて入ってしまったらしい。
とても冗談を言って誤魔化せる雰囲気では無いと察したクレイドは、軽く咳払いをして自分の席に座る。
大人たちは黙ったまま視線を手元に用意された書面に移し、軽く黙読を始めた。
必死で欠伸を押し殺しながら、新しい法案の書かれた文書を拾い上げる。
すぐに睡魔に襲われてうとうとして、机の上に片肘をつき始めたところでついに二番目の兄キースが口を開いた。
「クレイド!時と場を考えろ!神聖な会議の場で、その様な態度が許されると思っているのか」
「んんんん……ふぅ」
なんとか起き上がったクレイドは、あろう事か今度はその場で伸びをし始めた。
「父…陛下!陛下からも何か仰って下さい。でないとこいつは…」
つい感情が昂ってしまった弟を左手で静かに制したのは、その兄であるマウリッツだった。
「う…すみません。つい…」
キースはなんとか冷静さを取り戻して、父フランツの方に目を向ける。
しかし、彼は大した反応も見せずに会議を進め始めた。
今回の議題になった法案は、内政の不振に伴い諸外国との外交を限定するという内容のものであった。
これまでそれなりの関係を築いてきた総ての外国との関係を書面上で白紙に戻し、その後も友好関係を維持したい国家との間には改めてその旨を記した証明書を発行する。
エーレスは世界でも有数のぶどう酒の産地であるため、この国と良い関係を保ちたいと考えている国は沢山存在する。
そのためこのように勝手な外交相手の選定をしたところで、少なくとも周りにそっぽを向かれたり孤立状態になってしまう心配も無い。
しかし、この政策は表向きではそうした外交の見直しということになっているが、実際の狙いはそこにあるわけでは無かった。
エーレス王国は三百年前の建国以来、ずっと特定の宗教とはほぼ無縁と言っても差し支えの無い歴史を築いてきた。
地方での小さな宗教団体の活動や土着の神の信仰は存在したが、どれも特筆すべき規模のものでは無かった。
しかし、三年ほど前から、国内のあちこちで西の隣国ブルジアからの他部族による宗教活動が盛んに行われるようになった。
遥か南の大陸で発祥したこの宗教は、当時の発祥地が強大な軍事国家であったため、その植民地下で熱心な布教活動が行われるようになり、現在では世界で最も多くの信者を擁する強力な宗教となった。
ある日世界の創造主である神と一体化した小国の軍人リューディガーが苦悩に満ちた人間界と神の世界を救うために決起した、といった内容が書かれた分厚い経典を掲げた司祭が聖人リューディガーを信じるものは必ず救われると謳い、世界中に点在する教会には毎日多くの信者が出入りしている。
その創始者である聖人リューディガー・ヴェンデリヒの名前が語源になって、今やヴェンダー教といえば誰にでも通じてしまうほどである。
「しかし各国の評議会や軍事政策などの非宗教的要素の介入によってヴェンダー教の伝播には長い年月とともに微妙な屈折が生じて、無数の宗派が誕生するに至った。そこで勢力を拡大しようと目論んだ一派が、ついに我が国に目を付け始めた、というのが事の発端でございます」
国王の執事が、現在この国に起こっている問題を端的にまとめ上げた。
「その一派というのが、他でも無いブルジア王国というわけだな」
「左様でございます」
事態はクレイドが思うよりもずっと深刻な様子だ。
次に重い口調で話を切り出したのは、執事の三つ左隣に座っているある都市の市長だった。
「私の街においても、年々その宗教活動の影響が強く見受けられるようになっています。市政や国政に対するデモも、昔に比べて頻発するようになったことは、既にお判り頂いていると存じます」
別の都市の市長が、さらに続ける。
「我が国においても、既に純血のヴィーマの方が珍しい状況になってきております。他部族との混血が進み、武人の誇りを失った国民は総じて戦争に反対する声明をあげている。そんなところに宗教などというものを持ち込まれでもしたら、お言葉ですが内政はさらに悪化の一途を辿るだけでしょう」
「つまり、その対策としてブルジアへの一切の物資援助を取り止め、国家間の縁を完全に切る。それがこの政策の真の狙いというわけですね」
この流れで総てを理解した第一王子マウリッツが、新政策の本質を言い当てて見せた。
評議会で可決された議案は、王室でのこのような少人数での会議にかけられ、最終的に国王の認可を得ることによって完全に可決されることになる。
ここまで話が進めば、この法案が正式に公的文書に載ることには何の障害も無い。
しかしここで、空気の読めない第三王子が口を挿み始めた。
「でもそれなら、ただ単にブルジアにお前とはもう付き合わないって言えば済むんじゃないの?どうしてわざわざ他の関係無い国との関係も白紙に戻す必要があるのさ」
先月成人になったばかりのクレイドにとって、このような王宮での本会議に参加するのは初めてのことであり、当たり前のことをわざわざ問い直すことの恥ずかしさをまるで理解していなかった。
「こ…この馬鹿…」
再び頭に血が上りかけたキースを静め、マウリッツが答える。
「そんなストレートなやり方では駄目なんだよ、クレイド。いきなり自分の国だけ物資援助が断たれたら、誰だって理不尽に思うはずだ。もし逆上でもされたら、内政の不安定な状況のまま戦争を強いられることになるだろう。その危険さはお前にも判るだろう?」
落ち着きを取り戻したキースが、さらに説明を補足する。
「あくまでも表向きでは、諸外国との外交の見直しという形をとるんだ。それがどんなに見え透いた嘘であっても、とにかく相手に武力行使をさせる口実を与えちゃならないってことだ」
「へぇ……なんかよく考えてあるんだなぁ」
その後この新しい法案は見事に国王の認可を得るに至り、午前のうちに会議は終了した。
会議室を出る際、国王は少しの間クレイドを睨むような目つきで見つめていたが、やがてそのまま執事と一緒に歩き去ってしまった。
クレイドが最後に父親とまともな会話をしたのは、もう何年も昔のことである。
そんな冷め切った関係にも慣れてしまったクレイドが自室に戻ろうとすると、途中で一番目の兄マウリッツと擦れ違った。
「陛下のお顔に泥を塗るような真似はよせ」
たった一言吐き捨てて曲がり角へ消えていった兄の表情は、ほんの一分ほど前に見た父親のそれと同じものだった。
兄としての良い顔を見せるのは公衆の面前だけであり、私的に会えば常に冷たい視線を浴びせられる。
クレイドには、それが面白く無い。
「なんだよ陛下陛下って。…その前に俺たちの親父じゃねぇかよ」
誰にも聴こえないように呟いてから、王子は愛するベッドにただいまを告げるべく自室へと足を運んだ。