プロローグ(3)
目立った服装に、目立った行動。
大人用の黒い高級ローブを引き摺りながら奇声をあげて走り回る小さな男の子の目撃情報は、村のあちこちで入手することが出来た。
ここモンテの村自体はそんなに大きくは無いが、探す相手は一晩で三十キロの道程を走り抜いてみせた常識外れな五歳児だ。
行動も全く予測がつかないし、絶えず猛スピードで動き回っているらしく、目撃情報が頻繁に更新されていく。
道もほとんど整備されていないため、三人の騎士たちは村長の自宅に無理やりに押し入り、乗っていた馬を敷地内に繋いで自らの足で捜索を続けた。
村の出入り口には、その場でいきなり見張り役を命じられてしまった可哀想な村人が必死に不満を押し殺そうとしているような顔で立っている。
村には辺り一体を見渡せるような高い場所は存在しないため、意外と捜査は難航していた。
一方で当の脱走犯は、これもまた意外なことに見事に捜査の手から逃げ遂せていた。
普段なら、王室の大切な探し物ともなれば村人たちは自身の名誉のために張り切って捜査に協力を申し出たのだろうが、今回はそうもいかなかった。
「探し物」ならぬ「探し人」だったからである。
それが一国の王子であるならば、下手に捕まえて傷でもつけてしまえば最後、どんな厳罰が待っているか判ったものではない。
そんな彼らの胸中を知ってか知らずか、噂の脱走王子は人がいる道だろうとお構い無しに駆け抜けていく。
要はクレイドにとっては掴まりさえしなければ良いわけだが、さっき通りすがりに見た村の出入り口には、門番らしき人物がじっと立ち尽くしているため、とにかく逃げ続けることしか出来なかった。
そんな村全体を巻き込んだ大脱走劇が始まってから一時間半程の時間が流れた頃、いい加減に走り疲れてきたクレイドは村の隅に位置する誰のものとも判らない家畜小屋の影で腰を下ろした。
興奮状態が解けて、溜まった疲れが段々と心身を蝕む。
一体自分は何をしているんだろう、と子供ながらに半ば馬鹿らしくなってきたその時、小屋の中から微かに「人の声」が聴こえた。
心臓が止まったような気がしたが、なんとか冷静さを取り戻す。
万事休す、か。
絶対に足音を立てないように、それだけに全神経を捧げながら、ゆっくりと入り口に近づく。
すると途中で、壁の木が腐って剥がれている部分があることに気付いた。
クレイドはその場でしゃがみ込み、その小さな穴から家畜小屋の中を覗く。
瞬間、生暖かい湿った風が顔面に直撃した。
強烈な悪臭を伴う風は、どうやらこの中で飼育されている牛の息だったようだ。
クレイドはあまりの悪臭に目に涙を浮かべて、一旦後ろを振り返って新鮮な空気を吸い込んでからまた穴を覗く。
実は牛という生き物を見るのは初めてのことだったのだが、今の彼にとってそれは重要なことでは無かった。
他にも牛が四頭ほど、土だか草だか良く判らない塊をせっせと口に運んでいる。
その中で一番入り口から遠い牛の柵の前で、小さな人影のようなものが動いているのが判った。
子供、それも女の子。
肩まで伸びた金髪に、どう考えても服とは呼ぶことの出来ない布切れを身に纏っていて、裸足で座り込んだまま牛に何か喋りかけている。
幼いこの国の王子には、なぜあの女の子があんなにみすぼらしい格好をしているのか理解できなかった。
そんなことを考えていると、何を思ったのか、その女の子は目の前の牛がもりもりと食べている塊の中から、何かの草のようなものを掘り出して、おもむろに匂いを嗅ぎ始めた。
朝食を横取りされた牛は、少しの間何とも言えない表情で少女の方を見てから、気を取り直したようにまた食事を開始した。
嫌な予感がする。
王宮の大食堂で振舞われる朝食は、高級なパンや上質な干し肉などが当たり前のようにテーブルに並ぶ。
庶民が普段何を食べているのかなんて全く判らなかったが、どうやら王子の嫌な予感は的中していたらしかった。
壁の向こうの女の子は、二、三度躊躇うような素振りを見せてから、あろうことか手に持っていた牛のエサを口に運ぼうとしていた。
「ええええええええええええええええ」
驚きのあまり、クレイドはまたもや大声をあげていた。
その声にギリギリ食事を妨害された小さな女の子は、こちらもまた驚いて辺りをキョロキョロと見回している。
よく見ると、目に涙を浮かべてガタガタと震えていた。
そこでなぜか理性が吹っ飛んだクレイドは、一気に小屋の入り口まで駆けて行き、戸を勢い良く開けた。
少しだけ小屋の中に明るさが増す。
ここには牛も数匹飼われているし、何かと手入れもされている感じだった。
つまり、いつ人が来ても不思議では無い。
見つかってまた王宮に連れ戻されるのは嫌だったが、クレイドにはこの女の子が家畜のエサを食べようとしているのがもっと不快に感じられた。
理由は、判らない。
なぜこの目の前の、自分と同じくらいの小さな子供がわざわざ小麦のパンの代わりにそこらに生い茂っているような草を食べるのかも、なぜ自分がそれを不快に思うのかも、クレイドにはその理由がさっぱり判らなかった。
しかし、気が付いたらこうしてこの家畜小屋に押し入っていて、女の子はその場で恐怖のあまりに怯えていた。
「ごめんなさい………!ごめんなさい………………!!」
震える声でそう繰り返しながら、大きな目をギュッと瞑って両手を顔の前に出している。
叱られるのを極端に恐れているのだろうか、何者かも判らない小さな男の子にすら許しを請い、泣き続けている。
理由は、判らない。
それでも、この小さな王子にとって、この光景は衝撃的なものだった。
クレイド自身も、昔から悪戯をしては兄たちに頭を殴られてきた。
しかし、それだけのこどだ。
なぜそこまで、この女の子は恐がっているのか、そもそも、何がそんなに恐いのか、そして、なぜこんなに胸が締め付けられるような気持ちになるのか、クレイドにはその理由が判らなかった。
この日この場所で、少年と少女は出会ったのだ。