大切なもの
長い夜が明けた。
まだ東の森に変化はない。
木々が倒されるといったこともなければ、煙が上がるといったこともない。
それも当然で、物理法則に従うのならば、あと二日以上の猶予がある。
しかし、見張り塔に通う兵士は気を緩めることは出来ない。
いかに360度、見晴らしのいい平原であっても、遠く離れた距離を一瞬で移動する“空間転移”。姿を隠しながらの移動を可能とする“身体透過”等々、多種多様な魔法の存在から、気づけば敵は目の前でした、というのも実は少なくない。
その敵が只の盗賊であれば、少し騒ぐ程度でいいが、相手が万を超える軍であれば、失態でした、では済まされない。ましてや今回の敵は、魔王が率いる魔王軍である。
故に見張り兵は、昼夜を舎かず、血眼になって辺りを見張る。
彼等がその役割を順守するおかげで、眼下では王国兵が、心置きなく準備に没頭出来ているのだ。
城壁の近くで一人準備を進めている少年の下へ、クロツチとノゼリエが姿を現した。
「よう。俺たちも避難する。死ぬんじゃないぞネイノート」
笑顔のまま縁起でもないことを言うクロツチ。
それに答えたのはネイノートでは無く、彼らの背後で杖を鳴らす魔法使い達だった。
「巨人を倒した英雄様がそう簡単に死ぬもんか」
「だなぁ。魔王軍なんて近づく前にハチの巣だろうよ」
そこにいた魔法使いたちは皆、あの時城壁の上で、ネイノートの雄姿を目撃していた者達だ。
口々にネイノートを讃え、笑い合っている。
見ず知らずの関係だが、クロツチもその話に乗って、共に笑い声をあげた。
クロツチは手に持っていた矢筒をネイノートに手渡す。
中には火竜の素材で出来た鏃を使った矢が数本入っていた。それだけで幾日も暮らせる程高価な代物だ。
ネイノートの取り分だった火竜の素材は、全て火竜の弓と矢に使ってしまっている。
つまりこの矢は、クロツチが市場から買い取って作った物という事だろう。
「死んじまったら使うことも出来ねぇからよ。ガンガン使ってくれや」
矢筒を返そうとするネイノートに、クロツチはそう言葉をかけて、大きな手で小さな頭をガシガシと撫でた。
完全に返すタイミングを逃してしまったネイノートは、渋々と礼を述べる。
それが嬉しかったのか、頭を撫でる手にも力が籠り、ネイノートの頭を左右に揺さぶった。
ノゼリエは度を越えつつあるクロツチを窘める。
バツが悪そうにクロツチは、少年の頭から手を離し、そのまま自分の頭を掻いた。
「まったくもう……ネイ君、大丈夫?はいこれ、頼まれていたものよ。使わないのが一番いいんだけど……ちゃんと付与しておいたからね」
ノゼリエが荷物袋から取り出したのは、ネイノートが祖父から貰った『母の形見の首飾り』だった。
大事な物であったからこそ彼は、その首飾りに、ある魔法の付与を頼んでいたのだ。
形状にも少し手を加えてあり、少し小さめに仕立て直されているそれを受け取り、少年は感謝の言葉を呟く。
少年の手の中で、太陽の光を浴びて、緑の羽根が嬉しそうに輝いた。
二人と別れた後暫くして、城壁に上ったネイノートの肩に、ウィンが飛び乗ってきた。
一鳴きした後、甘えるように頬に身体を摺り寄せる。ネイノートはそれに答え、手で羽根を撫でると、優しく抱き抱え城壁の縁に移動させた。
首をかしげるウィンへ、手に握っていた首飾りをかける。
その首飾りは、鳥の身体に合うように調整してあって、飛ぶのに邪魔にならないように、ぴったりとウィンの体と調和した。
慣れぬ冷たい感触から、少し煩わしそうに体を震わせるウィンに、ネイノートは声をかける。
「少しだけ忙しくなるから、預かっててもらってもいいか?」
ウィンはこの首飾りが大事なものだと知っている。
本音を言えば突き返したいところだったが、突き返す為の手もなければ、思いを伝える為の言葉も持たない。
彼には何か考えがあるのだろう、とウィンは割りきることにし、一回頷くと大空へ飛び立った。
その姿を見て、少年は再び戦の準備を始める。




