夢の部屋
その部屋には始まりがあり、まだまだ未来がわからない不安と期待と焦燥と羨望があった。
僕たちは先人たちが歩んできた道を自分もまた歩くことを理解している。
偉そうに人間とは何か宣う先人が実は何者でもなく、先人と呼ばれてさえ、自分が何なのか、本当の自分がどこにいるかさえ、知らないことを僕たちは見透かしている。
しかし、僕たちはまだ知らない。先人がそのような境地に本当に至っているのか、至ったとして、その状況で何を考え、どう自分をとらえるのかを。
僕たちは暗闇のなかで目隠しをしたまま突っ走っていた。
何も見えないから、思いのままに全速力で好きな方へと走り出す者。
慎重に、先人の示す道を踏み外さずに一歩一歩歩みを進める者。
考えを保留し、快楽に身を沈め、それが今を生きることだと信じて疑わない者。
それぞれがそれぞれの道を歩く先に何を見ているのかというと、何も見えてはいない。
怯えても、怯えなくても、歩いていても、留まっていても、着実にすり減っていくものがある。
それは至宝のものであり、万人が求めてならないものであり、お金には変えられないものであり、それを手にする為に日夜努力研究を重ねているものである。
それを僕たちは、ごみくずのように捨てている訳ではない。むしろ、残飯など出さぬようにどう料理したものかと考えあぐねているのだ。
そうしている間に、気がつくとそれは、すり減ってなくなってしまうのだ。ちょうど靴を履き潰して穴があくように、それとわからずに、しかし、着実に、それはすり減っていく。
ふと目が覚めると、過去は夢のように忘却の彼方に消え去り、ただ、現実が朝日のようにチカチカと自分の眼前に突き立てられる。
「そうだ、夢を見ていたんだ」
僕は呟く。夢の中で。
消えてしまったものを必死で思い出そうともがけばもがくほど、真っ白くなっていく眼前の景色に汗をかきながら。息を詰まらせながら。
僕はその身を起こす。ベッドはもうない。
昨日発とうと思っていたのに、夜になり、そして朝になったからだ。
何もない部屋。かつて何もかもあった部屋。暖かさやまどろっこしさ、居心地の良さ、自分が欲したもの全てを受け止めた皿は今空となったようだ。
物語はすでに終わっている。
僕はドアを開け、明るすぎる外の世界に一歩踏み出す。
かつてこの部屋には、一人分のものがあり、それが二人分のものとなり、また一人分のものとなり、今空になった。
靴はすっかり履き潰されていたが、
新しい靴に変えたからと言って、ここでの時間が消えてなくなるわけではなかった。
ただ、初めてここに来たときの僕と今ここを発つ僕は本質的には何一つ変わらないこと、そして、実は全く異なることを、今の僕は知っている。
絶え間なく煌めく羨望と不安と期待と焦燥で真っ白く彩られた世界が眼前に広がっている。
自分がこれからどこへいくのか、何者になるのか、そもそも自分はここで何者になれたのか、さっぱりわからないままだ。それでも答えが欲しい。
求めずにはいられない。探さずにはいられない。それを見つけるためにここに来たのだから。そして、それを手にするために旅立つのだ。
僕は手にしたそのドアノブを、静かに、そっと手離した。
そして、密やかに、そのドアは閉じられた。
かつて僕がこの部屋を初めて訪れたときと同じように、
静かに、閉じられた。
おしまい