炎のなかで
拙作『おやすみなさい』となんとなくリンクしていますが、知らなくても読めます。
この作品は、私の昔見た夢です。
今だ、忘れられない夢の話です。
悲恋ですので、不快な気持ちになった方はどうかお帰りください。
人だかりが、普段は人気の無い川辺にできていた。
真っ黒にこげた草からはいまだ煙が燻ぶり、熱をもっている。
およそ半径5mほどの黒円の中心には水で湿らせたおよそ2mほどの筵を被せた何かが在り、わずかに外に出ている真っ黒な棒からも、わずかな煙が立ち上っていた。
周りには数人の役人が立っており、誰もが痛ましげに、見る影もなくなった人の成れの果てを見ていた。
中には人が生きながら焼けた匂いにたえきれず嘔吐している者すらいる。
それらを遠目に見ているのは野次馬達だ。
彼らは平穏な中にわずかな刺激を求めて足を運んだのだろう。嫌悪のなかに、確かな好奇心と侮蔑の色が見て取れる。
「やだねえ……」
「自分から油を引っかぶって火をつけたらしいよ」
「まあ、もともとちょっと頭がおかしい人だったって言うしな」
「にしたってねぇ……」
ひそひそ、こそこそ。
火事と喧嘩が日常であるこの町ではこういった他人の不幸も蜜の味とばかりにささやきが絶え間ない。
なかなか解散しない野次馬の厚さがそのことをよく物語っている。
「すまん、すまん。ちょっと通してくれ!!」
野次馬を押しのけて出てきたひとりの男が役人の前に出てきた。
髪と着物は人垣を押しのけた際にややほつれているものの上等な生地と精悍な顔立ち、腰に差した刀からそれなりの身分の子息と見て取れる。
野次馬にしてはそんなことをする性格には見えないその男は、真っ黒に焼けただれた腕を、その近くに落ちている小さな布切れを見た瞬間、喉の奥で呻いて、崩れ落ちた。
「お、おい如何した!?」
「……知り合いだ」
「は?」
近くにいた役人が男を支える。
ぎりぎりと歯ぎしりしながら伝えられた言葉に、役人は素っ頓狂な声を上げることしかできなかった。
「あの女の名前はお春……俺の知り合いだ。」
「はぁっ!?」
ぱっかりと口を開けてぼう然としたあと、役人は慌てて男を野次馬の好奇心剥き出しの視線から遮るために腕を引っ張り、簡易に作られた小屋へ連れて行った。
『最近、夢を見るんだ』
『最近、夢を見るようになったんです』
『そこで俺は女でな……おい、笑うんじゃない。で、『 』が俺の妹で……城よりも広くて雅なところに住んでいたんだ。そうだな、京の方にあるような、あんな建物のところだ』
『夢のように広くて、美しくて、そんなところで私は姉であったあの方の庇護のもとで、あの方に対する人質のように暮らしていたんです』
『日々、俺は滅多に会えない『 』に会うためにいろいろやっててな。内容はあまり覚えていないんだが……そうだな、星占いのようだと思ってくれ。そんなことを何年もしていたんだ』
『私はあの方に滅多に会えませんでした。あの方はひどく有能で美しくて気高いと評判で……まぁ、笑わないでくださいな。夢であっても、本当にそういわれていたのですよ?』
『そんなある日、俺はたぶん、誰かを助けて死んだんだ。…と思う。でもその時、俺は『 』がなにより心配だった。妹だった『 』は俺なしでは文字通り生きれない環境だったからな』
『滅多に会えなくても満足していたある日、あの方はあの方の影響力を疎う貴族たちによって殺されたのです。……誰かを庇って死んだのだと伝えられましたが、あの方が庇うほどの力を持つものなど、少なくとも夢の世界では高位の貴族くらいしかいなかったんですから』
『それで俺の夢は終わりだ。まるで実際にあったことがあるかのように真実味があって、なんとなく収まりが悪くてな。だが、所詮夢の話だ。詮無いことを話してしまった。忘れてくれ』
『その後私は何年か経ってあの方の後を追って川の中へ……。すみません、急にこんな話をしてしまって。ですけど、誰かに話さずにはいられないほど不安になってしまって……。大丈夫、ただの夢です。きっと、毎日いろんな悪いことが積み重なって、夢の中に出てきたんです。こんな話、忘れてくださいね』
男の脳裏に、何度も繰り返されるその時の声、表情。他愛もない、あまりにささやかな会話。
どうして、ほんのわずかな違和感を流してしまったのだろう。
後悔に暗い顔を隠さない男の対面。痛ましげに眉をひそめた役人の顔は、同情と憐憫と諦めが入り混じった複雑なものだった。
「あー……つまり、なんだ。その、先ほどのお春という人は身分違いによって引き裂かれた恋人の後を追った……ってことか?」
「まあ、簡単に言ってしまえばそういうことだ」
「25ったらまだ若いだろうに……」
ままならぬ思いを太いため息に変えて役人は男の肩を叩いた。
「まあ、正直、彼女のことはもう過ぎてしまったことだと思ってくれ。あとはこちらで報告しておく。…彼女にもう身寄りはないと言っていたが、墓はどうする?」
「それぐらいはさせてくれないか。一応、それなりの蓄えはある」
「悪いな。こっちもいろいろあるから正直助かった」
「ああ、彼女はあとで引き取りに来る。それまで預かっていてくれ。遅くても明日の朝には来るから。すくないが、手付だ」
「了解だ。……世知辛い世の中になっちまったもんだな」
「ああ。……本当に」
ひとしきり満足したらしい解散していく野次馬達から離れ、男は人気のない道を歩いていった。
『素輝!!お前、その顔どうしたんだ?』
『寛隆か。なに、父と少々意見がすれ違ってな』
『お前の親父さん、お前と同じで頑固だからな。それはともかく、うちに来いよ。手当ぐらいしてやっから』
『ああ、すまんが助かる。先ほどから喋りづらくてな』
『ったく、お前の唯一の取り柄がその顔なんだから大事にしやがれ。お前に惚れ込んでる町娘達が泣くぞ』
『人の顔など大して変わらん。少々腫れたとて大事無い』
『……原因のあの子の前でそういうのか?』
『寛隆?』
『ぶつかりかけた拍子に落としたハンカチを拾ったのが出会いだったんだって?』
『っお前、どうして』
『ばーか。お前の事なんてバレバレだっつーの。こちとら生まれてからお前の幼馴染やってんだぞ』
『寛隆、俺は…』
『は、んな情けない顔してんなよ。名門期待の跡取り息子が台無しだぜ?』
『……俺は、そんなものよりあの子の笑顔が見たい。そう思う俺は、おかしいだろうか』
『いーんじゃねぇの?俺は、お前の味方だしよ』
『ありがとう、寛隆』
『礼よりも俺はお前の心を射止めた娘に逢いたいね』
『誰がみすみす飢えた野犬の前に鶏を置くような真似をするか』
『ちょ、言うに事欠いてそういうかお前!!』
『はははっ痛ぅ…!!』
『あーもー、ほら行くぞ。文句は手当したあとだ』
『ああ。寛隆』
『んぁ?』
『俺は、お前のような友がいてくれたことを、誇りに思う』
『……ばっか野郎』
『ふふ』
何度も何度も、数え切れないほど幼い頃から通い続けた道場の帰り道をすこしだけ逸れた川に架かる小さな橋。
擦り寄ってきた猫を撫でてやりながら、じわりと滲む目頭を眩く晴れた青空のせいだと思い込んだ。
「なあ、素輝。…お春ちゃんと、ちゃんと会えたか?」
『寛隆、すまん。手を貸してくれ!!』
『ど、どうしたんだよ。こんな夜更けに』
『父が、あの子を始末しようとしていると』
『なっ!?』
『俺が、あの子以外伴侶にする気は無いと言ったんだ。そうしたら父は、あの子さえいなければと思ったんだろう。なんとか家から抜け出せたが、このままでは間に合わない。だからっ』
『……ちょっと待ってろ』
『しかし時間が!!』
『まず、旅支度ぐらいしてから来いよ。おら、これ持ってけ。馬も裏に放してある。……まあ、すこしゃましだろ』
『寛隆……ありがとう』
『まあ、もう会うこたねぇが元気でな。縁があればまた、な』
『ああ。……さらば』
『おう』
ぶらりと巡る町は今日も平和だった。
酒に酔った男たちが喧嘩で殴り合う前にふくよかな女将によって成敗されている酒屋。
町娘達が雑貨屋を覗き込んできゃらきゃらと笑い合い、団子屋ではまちあわせだろう男女が初々しく頬を染めて目線を交わしあっている。
布問屋では裕福そうな婦人が布を体に当ててご機嫌だし、八百屋では勢いのいい声に引き寄せられた主婦が値切り交渉を続けていた。
惚れた女を守るために命をかけた男と、男を愛し求め狂った女が死のうとも、結局彼らにとって関係ないならばどうでもいい、小さいことなのだと頭では理解して、心では今だ納得できない。
『やめて、やめてぇ!!』
『バカ息子が…女一人のために死におって』
『素輝様、素輝さ…っきゃぁ』
『素輝を連れて行け。丁重に扱えよ。女は近づけさせるな』
『やめて、どこにも連れて行かないで!!離して!!いや、いやぁぁぁあああ!!』
『お春ちゃん……!?どうして、素輝と一緒に逃げたはずじゃ…?』
『………ければ』
『お春ちゃん?』
『あの方を、探さないと……今度こそ一緒に……』
『お春ちゃん!?』
『ああ、今度も私が探すのですね。……大丈夫、今度こそ離れないから』
『お春ちゃ……っ』
『だから待っていてね、あなた様……お姉様』
真っ黒い闇の中、壁に囲まれた立派な敷地の立派な墓の前。
ごそりと懐を探って取り出したのは、小さな布切れ。
刺客から大切な人を守るために体中を切り刻まれ絶命した、身分も性格も容姿も全てにおいて最上だった親友が最後に着ていた衣服の、手のひらより小さな切れ端。
娼婦よりもなお低い、日々手をあかぎれだらけにしなければ食事もままならない最下層の身分であった女の手に残された、愛しい男の最後の欠片。
手に手を取って逃げ出すのがあと一刻(2時間)…いや、四半刻(30分)でも早ければ二人は今ごろ笑い合って、小さな家で暮らしながら子供でも育てていた頃だったろう。
布切れをそっと開く。中にあったのはひとつまみの黒い炭。燃え尽きた人の、ひと欠片。
何かとこの場所を訪れる男であっても、女が死んだことでわずかな隙ができた警戒の中、持ってこれたのはそれでもこれきりだった。他はすべて、地に埋めて名前を彫った小さな石を立てた。そうするしか、できなかった。
音をさせないように墓石をずらし、親友の燃え尽きた骨壷の中にそっと、そうっとその黒い欠片を布ごと入れて、蓋をする。
また元どおりに墓を直して、持参してきたかなり高級な酒を、墓にまるごと一升、ぶっかけた。
ぷん、と強い酒精が薫る。それも、すぐに風に流れて消える。
「もう、離れるんじゃねぇぞ」
目元をぐっと擦って、立ち上がる。
空になった酒瓶を片手に、振り返らないままその場を後にした。
もう、この場所に来る気はない。
その酒の名前は『寿』。
婚姻式を挙げる際、新郎新婦に贈られる、祝い酒であった。
昔、夢を見た。
しあわせな、ただおだやかな、一瞬だけの夢。
夢は、いつか壊れることを知っていたのに。
ただ、愛しいと、そう思っただけだった。
ただ、共に生き、共に歩みたいと、そう願っただけだった。
笑い合い、愛し合い、寄り添うことを夢見ただけだった。
それすら、許されなかったのは、何が悪かったのだろう。