八:鷹の憂鬱
任務はなるべく速やかに遂行されるべきであり、命令は絶対である。くそくらえ、と罵倒したくなることはあるが、それをいかに隠し進めるかは各自の才覚次第であり、また別次元の話だと思っている。
規律を乱す行為が一般社会以上に罪深いとされるのは、時として危険を招くとともに最悪の結果をもたらしかねない為だ、とファルケ・バーデは理解していた。
経験の無いに等しいぺーぺーの新兵ですら、一応『常識』として叩き込まれ『わかって』いることである。
だというのに。
「あのクソ閣下は何年軍人の看板をあげてやがるんだ」
「中佐、クソ閣下とか本当のことを叫んでも気が晴れるもんじゃないですよ」
「……俺よりお前の方がひどくないか」
「何を今更」
隣を歩く同僚がやれやれとばかりに肩を竦めるのを横目に、ファルケはしれっと言い放った。
ロジェ・アイスラーはファルケと同じく第五師団に所属する部隊長のひとりであり、グラーツ大将の弟子と呼ばれるひとりでもあった。上司の影響か口は悪いが、その生まれは歴とした貴族である。
貴族だから、と評されることをアイスラー中佐は嫌うが、持って生まれた性分に合おうが合うまいが彼の育った環境がそうなのだから仕方がない。幼少期に触れた文化や生活、そして教育は個の人間の根幹に深く関わるものなのだから。
対して、ファルケ・バーデは旅芸人の一座に生まれ、十までそこで育った。大陸の共通言語のみならず、各国独自の古語や、現在では方言扱いされる諸国語を複数習得しているのは、一座が王国のみならず各地を転々としていた為だ。
王都へやって来たのは十一を目前とした頃で、士官学校に入ったのは十二の年だった。
「思えば不思議ですよねえ……」
「あ?」
「一応貴族の中佐と私では、生まれの時点では住む世界が違ったはずなんですけどねえ」
「……つっこみたいところは何カ所かあるんだが、あえて言うぞ。現実逃避してないでさっさと帰って来い」
憐れみ交じりにそう言われて、ファルケは深々とため息を吐いた。
「それならさっさと王都に帰してくださいよ」
「俺だってさっさと帰りてぇよ」
東大陸の血を引く母譲りの黒髪であるファルケと、古くは王家の流れをくむ貴族の特徴である金髪のロジェが並ぶと、遠目にもよく目立つ。
そんなことを気にしたこともない当人たちは、宿舎となっている古びた砦の廊下のど真ん中という非常に微妙な場所で神妙な顔をして、盛大にため息を吐いた。
指揮官ふたりが揃ってこんな調子では一般兵の指揮に関わりかねない。そんな苦言を呈することのできる者は残念ながらこの場にはいなかった。
「中佐はいいじゃないですか。帰ったら奥方が待っているんでしょう」
「お前こそ、新婚だろ」
「新婚だからこそ愚痴りたくなりますよ」
遠い目をしつつファルケは零した。
「大体レーヴェはいないし」
「…………お、おう」
妻となったはずの副官は、下された別件の命令に従い遠く離れた王都にいる。
結婚式を挙げたのは春の初め。改めて数えてみると半年近くその顔を見ていない。
結婚前ならほとんど四六時中と言っていいほど隣にいて、やれ髪が跳ねているだの釦を留めろだの世話を焼いていた姿を思い出して虚しくなった。
「というか新婚なんですよね?」
「俺に訊くなよ」
「式の際はご臨席いただいたと思いますが。ご夫妻で」
「したけども!それを覚えてるなら結婚の事実をまず思い出せよ」
ははははは、とファルケの口から乾いた笑いが漏れる。事実を事実として覚えているから物悲しいというか、やるせないのだ。
「何が悲しくて新婚初夜をぶち壊された挙句、その日に別々にされますかね」
神の前で生涯を誓い合った。そして名実ともに夫婦となるはずだった。……だった、というのが悲しい。
夜を過ごすどころか迎える前に飛び込んできたとんだ邪魔者により、妻の身体に文字通り指一本触れていない清い関係のまま、新婚のはずの夫婦は軍本部に呼びつけられた。
北に位置する隣国とは、十年前のかの国の内乱以降不穏な関係が続いている。それは熟知しているが、何故よりによってあの日にきな臭くなるのか。
国境の高まる緊張感に対し、偉い方々は全師団中もっとも実践に向いているであろう第五師団の派遣を決めた。しかし揺らぐ情勢は何も対国外のみというわけではなかった。
国内において、元老院の長である公爵の体調が芳しくなく、また王位継承の序列やら王女たちの婚姻話やら、話題には事欠かない。
この時もっとも加熱していたものは、第三王女ローゼリアの身辺に漂う影の存在であった。
麗しきこの王女は、北の公国とロンデルヴァーグ王国との関係が悪化した要因とも囁かれる。
彼女が庇護するテレーゼ・リーツマンこそ、十年前の内乱の際、国を追われた公女であり、現在の公国を総べる者たちにとって決して喜ばしいとは言えない存在の一つである為だ。
師団長たちの協議と国王の命。この二つによって、当初国境に派遣されることになっていた第五師団は二分化され、半数は王都に残ることとなった。これのせいでレーヴェは残留組筆頭に名を挙げられる破目になった次第である。何故ならば、王女はこの上なく女性を愛しており、テレーゼ・リーツマンの扱いにかけてレーヴェの右に出る者はいないという周囲の評がそうさせた。レーヴェ・ギーゼンの階級はあくまで少尉である。普段ならば途中で横槍の一つも入ろうが、軍部の人間はむさくるしい軍隊という縦社会とはある種正反対に位置するかの王女に腰が引けていた。
満場一致で人身御供に差し出されたレーヴェに拒否権などない。
そして半数近くがかけた第五師団の補佐という名目で、第二師団にも遠征の命が下りたが、これもファルケたちにとっては頭痛の種になる。
「あのクソ野郎はここが何だかわかってると思うか?」
「さあ?知っても特に利益にはならないんじゃないですか」
げんなりと、男二人は肩を落とした。
アイスラーの評価はクソ閣下からクソ野郎に短時間で格下げされたが、ファルケも何も言わなかった。
第二師団の某クソ閣下こと某子爵という肩書きを持つ某少将。この男が曲者で、性質の悪い方の典型的なお貴族軍人であった。
「後方でふんぞり返ってる方がまだマシなんですがね」
前線にのこのこ出てきたかと思えば好き勝手なことしか言わないしやらないし、碌なことにならない。ここまで来ると軍法会議にかけられないのが寧ろ不思議な気もするが、父親の肩書を考えるとそうそう容易く処分もできないらしい。
「それで手柄だけ攫ってくんだろ?」
「それでもその方が早く帰れますよ」
「否定はしない」
「ああ早く帰ってリブに会いたい……」愛妻家で名を知らしめるアイスラー中佐のぼやきを聞きながら、ファルケもまた彼の妻の顔を思い浮かべた。
レーヴェはどうしているだろう?
せめて口づけのひとつくらい交わしてくればよかった、と煩悩にまみれたため息を量産しながら、他国にすら名を馳せる指揮官ふたりは哀愁漂う背中を丸め、会議に出席すべく重い足を進めるのであった。