六
王都の東地区には、軍関係者が多く居住している。
大通りを抜けると王宮東翼部に隣接している軍本部に最も近い場所という条件から、自然と兵舎暮らしの単身者や実家通いの人間以外――大概の妻帯者らはそこに住居を構えている。
純粋に利便性の問題だが、背に豊かな緑の森が広がるその地区をレーヴェは気に入っていた。
些細な用事で訪れた同僚の自宅の窓から見える美しい空と緑のコントラスト。若く愛らしい夫人の振る舞ってくれた茶と菓子。
平穏な家庭そのもの。
憧れなかったと言えば嘘になる。
彼の家での穏やかな時間は心地よかった。
荷解きの手を止め、レーヴェは窓の外を見遣った。
秋の初めの空は色を増し、日ごと高く遠くなっていく。
あの日見た色彩は緑に満ちていた。今見る世界は、美しい黄や紅に染まっているが、それでもよく似た景色がそこにはあった。
他の既婚者たちと同じように、彼女とその夫の新居は東地区の片隅に用意された。
用意したのは夫で、初めて連れて来られたその日、まだ家具も満足に揃っていないこじんまりとした家をレーヴェはとても気に入った。
実家や長年過ごした士官学校の寮、官舎、そのどれとも違う、レーヴェの知らない空間を、どうして一度でそこまで気に入ったのかわからないけれど、あの暖かな家を思い出していた。
夫となったその人は、居間の小さな窓から身を乗り出すようにして外を見つめるレーヴェの背に「気に入ってくれたかな」と問い掛けた。
レーヴェは驚いて振り返った。
レーヴェの様子を窺うように、まさにおずおずとと言った様子で尋ねられたからだ。
どうしてそんなに自信なさげに訊ねるのだろう。
レーヴェは目を丸くして、それから急いで言った。
「はい、とっても!」
慌てると妙に勢い込んでしまうのは自分の悪癖のひとつであると思う。
けれどこの時ばかりはそんな癖もよい方向に作用した。
力の籠った肯定に、ファルケは肩の力を抜いて、ほっとしたように笑った。
「よかった。それだけが気になっていたんだ」
せめて一緒に探せればよかったんだけれど。
ファルケは苦笑しながら頭を掻いた。彼の言葉にレーヴェもまた苦笑した。
「いいえ、それは気になさらないでください」
こればかりは仕方ない。レーヴェやファルケ、それこそあの第五師団団長をもってしてもある意味ではどうしようもなかっただろう。
その『事件』は件の婚礼の日に遡る。
***
混乱はさておき、周囲からの祝福を受けた婚礼。あの結婚式は、春の初め、スミレの花の咲くよく晴れた日に行われた。
レーヴェは神の御前で夫となるファルケと共に、永久の愛を誓い合った。
その夜、繁華街から少し離れた場所にある宿屋と食堂を兼ねた店の一角を貸し切って開かれた賑やかな宴席。その宴もお開きになり、初々しい新郎新婦を残して、親族も招待客も一同帰路に就いた。
帰る前の大仕事とばかりに、今宵一夜の寝床となる部屋に二人は担ぎ込まれ、手荒く寝台に放り投げられた。笑いながら女たちは祝福の言葉と共に花を投げ、男たちは冷やかしの言葉と共に去っていく。
それがこの国では一般的かつ庶民的な、婚礼最後の『儀式』だ。
放り投げられたその時、レーヴェは声を上げて笑った。ふかふかとした寝台の上であれば飛び跳ねたところで痛くもなんともない。幼い子供の頃、兄と弟と跳ねて遊んでは母に叱られた。けれど今夜、母は笑いながら花を投げる一団に加わり、兄と弟の姿は見えなかった。父や兄弟といった身内の男は居合わせない。これもまた慣例である。
男たちのからかいはひたすらファルケに向いていたように思う。思う、というのは男家族の顔がない、という現実に不意に不安のようなものを感じたことと、共に寝台に放り出されたファルケのその腕が彼女の腰を支えるように回されていることに気付いたからだ。
軍人という職業柄、レーヴェの周囲にいる男たちは大体が筋肉を誇るような大柄な猛者たちばかりである。その中にあって、ファルケはひょろりとした長身、という形容が似合う細身の男だった。
周りが周りなので侮られがちだが、彼が決してひ弱な男でないということはすぐ側で見てきた分、身に染みて理解している。
それでもそれはあくまで『つもり』でしかなかったのではないか。
たった一つの寝台の上、密着した身体に嫌でも意識せざるをえない。
結婚して初めての夜――。
何がこれから行われるのか、さすがに知識としては知っている。理解もしているし、結婚するとはつまりそういうことなのだと納得の上で覚悟を決めた。……はずだった。
けれどもしかして自分の認識はとても甘かったのではと、耳元で聞こえるような気がする己の鼓動にレーヴェは完全に支配されていた。
「あ、あの……」
嵐の後の静けさの中、沈黙に耐えかねてレーヴェは口を開いた。嵐が去ってほんのわずかな時間すらひどく長く感じられた。
「あの」
「ん?」
ごくごく自然に、ファルケが顔を上げた。瞬間目が合う。
見慣れた彼の黒い瞳に自分の姿が映りこんで、レーヴェは急いで視線を下げた。
「レーヴェ?」
不思議そうなファルケの声が、レーヴェの名を口にする。
彼は当たり前のようにその名を呼んだ。それは今や彼の至極真っ当な権利であったし、否定するつもりはないのだけれど、レーヴェの心臓は口から飛び出しそうなほど跳ね上がった。
初めて戦場に出た時でさえ、こんな風ではなかったのに。
不甲斐ないのか、情けないのか。
ひどく不安定な気分が、ほんの少し視界をぼやけさせる。
目尻に滲んだ水分に、レーヴェ自身が一番驚いていた。
ふと、それを拭うように、節くれだった指が躊躇いがちにではあるがレーヴェに触れた。
びくりと肩を揺らすと、苦笑する気配がする。
レーヴェを宥めるように、あくまで穏やかな動きで少しひやりとした手が頬を撫でた。
顔に落ちかかった髪を梳き、そっと耳に掛けられる。
自分らしくない。わかっていても、おずおずと顔を上げると、見慣れたやわい笑みを浮かべたファルケがそこにいた。
「……あの、隊長」
夫となったひとに『隊長』はどうなのだろう?
「うん?」
けれどファルケは気分を害した様子もなく、先を促すように首を傾げた。
「あの、私……」
何だというのだろう?何を言いたいんだろう?
「うん」
「私、ちゃんとできるでしょうか?」
「え?」
ファルケが虚を突かれたように目を瞬かせた。
「その、ちゃんと妻としてと言いますか、ちゃんとできるんでしょうか?」
ファルケは悲壮感すら漂うレーヴェの問いに目を丸くし、それから。
「…………ッ」
爆笑した。
「わ、笑わなくてもいいと思うんですけど!」
「わ、悪い、そんなつもりじゃないんだけど……」
引き攣り笑いで言われても説得力もありはしない。
それでも初対面の彼の反応をぼんやりと思い出し、レーヴェは自分の肩から力が抜けるのを感じた。
ファルケは一しきり笑い、それからおもむろにレーヴェの身体を抱え上げた。
「ッ」
不意の出来事に咄嗟に彼にしがみ付く。するとまた、今度は楽しそうに笑う。
レーヴェの身体はファルケに向かい合う様にして、そっと降ろされた。
「本当に君は面白いな」
「面白い?……隊長が結婚を決めた理由ってまさかそれですか?」
ファルケはうーんと少し考えるそぶりを見せた。
「それが一番じゃないけど、それも理由かもしれないなあ」
のんびりと自然体で彼は答える。
「君となら、人生楽しそうじゃないか」
「……そうでしょうか」
そう言われても半信半疑なレーヴェに、ファルケはまた笑う。
機嫌がいいのか、酒がまわっているのか、今日のファルケはよく笑う。元々不愛想な性質ではないけれど、こんなに幼い顔をするのはもしかしたら初めて見たかもしれない。
レーヴェの知るファルケ・バーデという男は、信頼と尊敬に値する上官だった。
「そうですよ。奥さん」
おどけた調子でそう言って、ファルケは壊れ物に触れるようにレーヴェに触れ、それからその体を引き寄せた。
「唇に触れさせていただいても?」
意地悪だ。今日のファルケはやはり酔っているに違いない。顔を覗き込まれて伺いを立てられても困るばかりのレーヴェのこめかみに、返事を促すようにファルケの唇が触れた。
ちゅ、と軽い音を立てて離れるそれに、頬に熱が集まる。
少女、という年頃でもないのにと恥じる気持ちを見透かすように、腰にあった腕が、宥めるようにぽんぽんと背中を叩いた。
「レーヴェ?」
「う……。あの……私でよろしければ」
またしても笑いのツボを押されたファルケが笑い出し、ついには目元に滲んだ涙まで拭って、楽しそうに、けれどひどく嬉しそうにレーヴェの額に己のそれをこつんとあてた。
「レーヴェ」
「は、はい」
「幸せにするよ」
「……私も」
「うん」
「私も頑張ります」
緊張で声は一本調子になったが、ファルケは笑わなかった。
代わりに目元を和ませ、それからその顔が更に近付く。
レーヴェは咄嗟に目を閉じた。
吐息が掛かる。
唇が触れる――まさにその時。
「少佐!バーデ少佐ァァァァァ!!」
「…………」
「…………」
悲壮感溢れる叫びと共に、ドンドンと扉を叩く音が響く。
咄嗟に目を開いたレーヴェが至近距離にあったファルケの顔に動揺する間もなく、叫ぶ男の声はファルケの名を呼び続ける。
「すみません申し訳ありません本当に勘弁してほしいとは思ってるんですけど仕方ないんです!お願いしますから出てきてくださいィィィィィ!」
「あの、隊長?呼んでますけど……」
困惑気味に扉を指さすレーヴェに、ファルケは無言だった。
「隊長?」
盛大なため息を吐いて、ファルケがレーヴェの肩に預けた頭を起こすまでその叫びは続いたのであった。